第25話 夏祭りと、空に書いた二文字
白羽ことはの浴衣は、変装のつもりだったらしい。
半径五メートルの人だかりを連れて、変装は鳥居の前までやってきた。
八月十七日、土曜日。坂の上の天満宮の夏祭りは、日が暮れる前から人でいっぱいだった。参道の両側に屋台が並び、ソースと綿あめの匂いが、石段の下まで降りてきていた。
俺は、鳥居の横で、新聞部のデジカメを首から下げて立っていた。カメラマンなので。
隣の百瀬は、Tシャツに〔報道〕の腕章をつけ、首に数取器、手に拡声器を持っていた。夏祭りでも、玉砕姫は通常営業らしい。
六時ちょうどに、参道の下のほうが、静かになった。
静かになったところが、少しずつ、こっちへ上がってきた。綿あめの屋台のおじさんが、割り箸を持ったまま手を止めた。ヨーヨー釣りの子どもが、つり上げかけたヨーヨーを水に落とした。浴衣の女子の三人組が、話の途中で口を閉じた。
人の流れが、左右に分かれていた。分かれた真ん中を、一人、上がってくる人がいた。
白地に、紺の朝顔。帯は、えんじ。腰まである黒髪は、頭のうしろで高く結い上げてあって、白いうなじが見えた。手には、小さな巾着。下駄の音が、からん、ころん、と、一歩ずつ同じ間で鳴った。下駄を履いても、背筋は定規入りだった。
まわりの半径五メートルには、誰も入れずにいた。入れずに、ついてきていた。
白羽さんは、鳥居の前で止まった。
「……お待たせ、しました」
四月に、変装第一号で文芸部室に来たときと、同じ言葉だった。
「……似合う」
口から出ていた。
白羽さんが、俺を見た。
「……浴衣が」
付け足すまでに、二秒かかった。五月に、大森への手紙の清書を「きれいだ」と言って「……字が」と付け足したときと、同じ二秒だった。
ただ、今度の付け足しは、言い訳になっていなかった。浴衣が似合うというのは、着ている人に似合うということだ。二秒かけて、同じことを二回言っただけだった。
「……ごめんなさい」
声が小さく、語尾がほとんど消えた。目は伏せなかった。辞典の④、照れの「ごめんなさい」だった。
右手の人差し指が、胸の前で、今まででいちばん速く何かを書いていた。浴衣の袖が、指の速さについていけずに、ぱたぱたとはためいた。何を書いたのかは、袖に隠れて、一字も見えなかった。
袖が落ち着くと、白羽さんは、今度はゆっくり書いた。
〈め・だ・た・な・い〉
それから、少し誇らしげに、参道を見回した。
祭りには、浴衣の人がたくさんいる。だから、浴衣なら、目立たない。
理屈は、合っていた。五月の釣り竿も、六月の着物も、理屈だけは、いつも合っている。
夏休みに告白されると、返事は「来週の、金曜に」になる。夏休みの来週の金曜は、学校がない。先月、終業式の日の学食で、百瀬の紙ナプキンの告白にそう返して、学食がひっくり返った。だから今日は、告白されないように、浴衣に紛れて来たらしい。
参道の半径五メートルは、まだ、誰も入れずに、白羽さんを見ていた。
「白羽先輩! 撮ります! 墨田先輩、お願いします!」
百瀬に言われて、俺はカメラを構えた。七月の柔道場で、写真部の田辺が百瀬に言ったことを思い出した。撮る前に、聞いてください。
「……撮って、いい?」
白羽さんは、うなずいた。
それから、背筋をもう一段伸ばし、両手を前で重ねて、カメラに向かって深く頭を下げた。九十度だった。
シャッターを押した。
撮れたのは、つむじだった。
「先輩、顔!」
百瀬が叫んだ。白羽さんは顔を上げて、もう一度、九十度をした。二枚目も、つむじだった。撮られるときの作法を、この人は、お辞儀しか知らないらしい。
変装の効果は、三十分で数字になった。
先に数字を出したのは、百瀬のほうだった。
金魚すくいの屋台の前で、百瀬が止まった。屋台のおじさんは、すくわれた金魚を、一匹ずつ水ごと袋に移していた。口を結ぶ前に、金魚が袋の真ん中で落ち着くのを、かならず待っていた。
百瀬は、拡声器を構えた。
「おじさん! その金魚の扱いに惚れました! 好きです!」
おじさんは、顔も上げずに言った。
「嬢ちゃん、ポイ代三百円」
カチッ。〔89〕。
「八十九回目! 玉砕です!」
百瀬は三百円を払ってポイを一本もらい、一匹もすくえずに破った。振られたうえに、三百円で薄い紙を一枚破った。それでも、満足そうだった。
白羽さんへの告白は、そのあいだに三件来た。
一件目は、射的の屋台の前だった。知らない二年生が、人だかりを割って飛び出してきた。
「白羽さん! 浴衣、反則です! 好きです!」
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
九十度。二年生は、すぐに言った。
「九月六日ですよね! 知ってます!」
終業式の日の学食の一件は、夏休みのあいだに、学校じゅうに広まっていたらしい。夏休み中の「来週の金曜」は九月六日、という読み方が、いつのまにか決まっていた。練習した一文に、ふりがなが振られたようなものだった。
二件目は、りんご飴の屋台の列で、一年生だった。「好きです! 九月六日、待ってます!」。返事の日付まで、告白するほうが言ってくれた。
三件目は、石段の上だった。三年生で、背が高く、静かな顔の人だった。
「白羽さん。……好きです」
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
「九月六日、ですね」
その三年生は、日付を口にしてから、少しだけ笑った。何がおかしいのかは、分からなかった。一礼して、人ごみの中へ戻っていった。
三人とも、名前とクラスを名乗っていった。返事を書くには、宛名が要る。宛名が三つ、夏休みの宿題に加わった。
白羽さんは、石段の途中で、ゆっくり振り返った。
浴衣の目立たなさを確かめるように、参道を見下ろした。半径五メートルは、十メートルになっていた。
〈な・ぜ〉
四月の渡り廊下、六月の踊り場に続いて、三回目の〈な・ぜ〉だった。
「浴衣は、ちゃんと目立ってない」
俺は言った。嘘ではなかった。白地に紺の朝顔の浴衣なら、参道に十人はいた。
目立っていたのは、中身のほうだった。そこまでは、言わなかった。
言わなかったのに、白羽さんの指が、また速くなった。俺が白羽さんの字の機嫌を読むように、白羽さんにも、俺の言わなかったほうが、読めるらしい。
石段を上りきった先、絵馬の掛かった棚の前に、紅林がいた。
浴衣ではなかった。白いシャツに、赤い髪留め。胸ポケットに、赤い万年筆。手帳を開いて、石段の上から境内の奥まで、歩幅で何かを測っていた。
「恋文屋さん! 来てくれたんですね!」
百瀬が、拡声器で叫んだ。
「仕事よ。取材じゃないわ」
紅林は、手帳から顔を上げずに言った。
「依頼人が、今夜ここで告白するの。花火の一発目のあとで。その場所の下見」
恋文屋は、恋文が読まれる地面まで確かめに来るらしい。シラノは、本に挟まった紙しか見ない。
紅林が、顔を上げた。
白羽さんを、頭から下駄まで、一度だけ見た。
「……似合うわね」
それから、少しだけ眉を寄せた。
「褒めると負けた気がするのは、なぜかしら」
比喩は、出なかった。
「……ごめんなさい」
白羽さんが言った。声の高さはいつもと同じで、間が短く、言い終えても目を伏せなかった。辞典の③、感謝の「ごめんなさい」だった。
さっき、鳥居の前で同じ「似合う」を言った俺には、④の照れだった。同じ言葉に、違う番号が返ってきた。違いの理由は、考えないことにした。
紅林は、万年筆のキャップを唇に当てた。
「あの日、自分の手紙に入れなかったわね」
七月十九日の学食の、紅い側の一票のことだった。
白羽さんは、答えなかった。背筋が、もう一段伸びた。
「九月は、自分の手紙に、自分で入れられるといいわね」
声は静かだった。紅林の言葉は、静かなときのほうがよく刺さる。
白羽さんは、少しだけ間をおいてから、言った。
「……九月、楽しみに、しています」
ごめんなさいではなかった。一語ずつ置いた、白羽さんの言葉だった。
紅林の片方の眉が上がった。それから、口の端が少しだけ上がった。言い返されると、この人は楽しそうになる。
「……私もよ」
花火は、まだ一発も上がっていなかった。
紅林は、俺の首のデジカメに目をやった。
「カメラマン、だったのね」
それだけ言って、手帳に一行書いて、閉じた。それから、依頼人を迎えに、石段を下りていった。何を書いたのかは、今日も読めなかった。
◇
花火は、河川敷から上がる。天満宮の石段は、それがいちばんよく見える場所だった。
百瀬は、紅林の依頼人を取材すると言って、石段を駆け下りていった。断られに行ったのだと思う。途中で一度振り返って、拡声器で叫んだ。
「墨田先輩! 花火は大きい音なので、耳、気をつけてください!」
石段の真ん中に、白羽さんと二人で座った。白羽さんは、浴衣の裾をきちんと膝の下にたたんでから座った。座っても、背筋は定規入りだった。
白羽さんが、巾着を開けた。
出てきたのは、四つ折りの和紙と、りんご飴が一本だった。
和紙は、コロッケパン台帳だった。六月から、購買のコロッケパンで一日一個ずつ払われてきた、俺への借りの帳簿だ。夏休みは、購買が閉まっている。分割払いは、終業式の日を最後に止まっていた。
白羽さんは、りんご飴を俺に差し出した。それから、巾着の筆ペンで、台帳の下の余白に書き足した。
〔八月十七日 りんご飴 一本(コロッケパン一個とみなす)〕
未払いの数字が、一つ減った。
台帳の字は、六月と同じく、楽しそうだった。夏休みのあいだも、借りは律儀に返されるらしい。りんご飴は、甘かった。
どん、と、腹の底に音が来た。
一発目だった。河川敷の上の空に、白い花が開いて、少し遅れて、もう一度音が来た。石段じゅうから、歓声が上がった。
大きい音だった。百瀬が心配したとおりの音だった。俺は、耳をふさがなかった。本当は、大きい音は平気だ。
隣で、白羽さんが、俺の手を見ていた。ふさいでいない、両手を。
それから、口の端が、たぶん二ミリ動いた。俺が本当は何から耳をふさいでいるのかを知っている人は、この石段に、一人しかいない。
三発目と四発目のあいだに、白羽さんが、俺のほうを向いた。
何か言った。
四発目の音で、何も聞こえなかった。
白羽さんは、口を閉じた。それから、右手の人差し指を、俺と白羽さんのあいだの空に上げた。
二文字だった。
向かい合って書かれる空書きは、左右が逆になる。そのうえ、速かった。指の向こうで五発目が開いて、白羽さんの指は、光の中の黒い影になった。
二文字とも、横の線から始まった。分かったのは、それだけだった。
指が、下りた。
花火と花火のあいだの、短い静けさが来た。
「……なんて、書いたの」
白羽さんは、俺を見た。
「……ごめんなさい」
間も、声の高さも、辞典の①から⑨までの、どれとも違って聞こえた。言い終わっても、目を伏せなかった。伏せないまま、六発目の光が、白羽さんの横顔を一度だけ照らした。
黒いノートは、鞄から出さなかった。たぶん、花火の音で、聞き取れていないだけだ。そういうことにしておいた。
その夜、白羽さんからLINEが届いた。
【白羽】拝啓 晩夏の候、墨田様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
便箋三枚分あった。今日のお礼と、つむじの写真のお詫びのあとに、用件があった。三通の清書は、書院の机と和紙でいたしたく、下書きの読み上げも、そちらでお願いできませんでしょうか。要約すると、八月二十六日に、白羽書院へ来てください、だった。
白羽書院は、白羽さんの祖母の書道教室で、白羽家の一階にある。
白羽家は、全員しゃべる。五月の雨の文芸部室で、本人から三十二分かけて聞いた。
しゃべらない人間がもともと一人いる、全員しゃべる家に、しゃべらない人間がもう一人行くことになった。
空に書かれた二文字は、その夜、何度思い出しても読めなかった。左右を逆にしても、読めなかった。




