第24話 決着は、文化祭で
永久に分からないはずだった追伸は、三日後、拡声器で届いた。
俺は、ちゃんと耳をふさいでいたのに。
七月十九日、金曜日。終業式と大掃除とホームルームが終わった、正午の学食だった。
終業式の日も、学食は、部活のある生徒のために開いている。今日は、部活のない生徒のほうが多かった。二百の席と、壁ぎわの立ち見。全員が、四番勝負の最後の返事を聞きに来ていた。夏休みを一時間遅らせた人が、この学校には二百人いるらしい。
百瀬が、真ん中のテーブルの前で拡声器を構えた。
「お知らせです! 月曜日は、もう夏休みなので、週刊玉砕はお休みです! なので今日は、開票も、この場でします!」
学食が、どよめいた。月曜を待たずに、決着がつく。三番勝負までで、白羽さんの二勝一敗。今日も白羽さんが勝てば、三勝一敗で終わりだ。
それから百瀬は、拡声器の先を、券売機の横の柱に向けた。
俺のいる柱だった。
「墨田先輩! 署名のところは、いちばん大きい声になるので、合図します!」
二百人が、柱を見た。
火曜日、振られ男子の会の結成式の柔道場で、百瀬は、俺が大きい音が苦手だと決めた。学食で、署名のたびに耳をふさいでいたからだ。本当にふさいでいたのは、署名のあとの追伸だった。訂正すれば、なぜ追伸を、と聞かれる。だから、訂正していない。
五月から毎週、誰にも見つからずに立ってきた指定席が、拡声器の一言で、学食でいちばん見られる席になった。投票箱の横の紅林の目まで、柱に来ていた。一秒だけ止まって、離れた。
百瀬は、悪気のない顔で敬礼していた。悪気がないのが、いちばん困る。
白羽さんが入口に現れると、柱を見ていた二百人が、いっせいに入口へ向き直った。助かった。
白羽さんが、四番勝負の返事を差し出した。九十度。百瀬は両手で受け取り、拡声器を構えた。
返事は、三日前の夜に、俺が書いた。恋文屋の最後の一通は、四通の中でいちばん短かった。好きですは、最後の行に一回だけ。その一回に、全部を乗せてあった。返事も、その一回に答えた。
「『夏休みのあいだ、金曜日の学食は、たぶん、とても静かです』!」
学食のあちこちで、笑いが起きた。拡声器で読まれると、静かです、に説得力がまるでなかった。
「『九月の最初の金曜日に、また、あなたの声を聞かせてください』!」
最後の段落だった。
百瀬が、拡声器を口から離して、柱を見た。
「墨田先輩、今です!」
俺は、両手で耳をふさいだ。
二百人が、また柱を見た。七月五日に、はじめてこの柱の陰で耳をふさいだときは、こっちを見たのは隣の二人だけだった。二週間で、観客が百倍になった。追伸を聞かないための俺の儀式は、三回目にして、まちがった理由のまま、主催者の進行表に組みこまれていた。
手のひらの向こうで、くぐもった声が「……ことは!」と言った。
百瀬が拡声器を下ろして、柱に向かって親指を立てた。大きい声は終わりました、の合図らしい。俺は、手を外した。百瀬が追伸を黙って読むのは、知っている。至れり尽くせりだった。
百瀬の口は、止まったままだった。
便箋のいちばん下を見ていた。十秒。二十秒。三十秒。二番勝負と三番勝負の追伸を読んだときより、ずっと長かった。五月に、最初の断り文句を受け取った日の沈黙と、同じ長さになった。
一度だけ顔を上げて、白羽さんを見た。それから、また便箋に戻った。
「振られ心地、星、五つ!」
カチッ。〔88〕。
投票は、いつもどおりだった。美術部が切った小さな白い紙を一人一枚、紅白の箱の、紅い側か白い側に入れる。
俺は列の最後に並んで、白い側に入れた。四回目だった。紅林は、紅い側に入れた。これも四回目だった。書いた本人どうしが、四回とも自分に一票ずつ。この勝負でいちばん動かない二票だった。
全員が入れ終わると、百瀬が、箱のふたを開けた。
「開票します!」
右手を紅い側に、左手を白い側に入れた。一枚ずつ、同時につまみ出した。
「紅、一! 白、一!」
学食が、身を乗り出した。
「紅、二! 白、二!」
十を過ぎたあたりから、二百人が、百瀬と一緒に数えはじめた。
「紅、三十! 白、三十!」
五十を過ぎても、両手は同時に出てきた。七十。八十。九十。片方の手だけが空になる瞬間を、二百人が待っていた。
俺も、数えていた。どうでもいいことを数えずにいられないのは、俺の悪い癖だ。今日のは、どうでもよくなかった。
「百! 百!」
数える声が、天井で割れた。
「百一! 百一!」
「百二! 百二!」
「百三! 百三!」
百瀬の両手が、もう一度、箱に入った。
何も、つかまずに出てきた。
紅い側も、白い側も、空だった。
「……同点、です」
百三対百三。二百六票を数えて、四番勝負は、どちらにも転ばなかった。
「まだ入れてない人、いますか!」
百瀬が、学食を見回した。二百人も、お互いを見回した。入口で腕を組んでいた大熊先生が、目が合う前に首を横に振った。六月に、食券の賭けを一枚残らず没収していった先生だ。教員は、賭けにも投票にも乗らないらしい。
百瀬の目が、学食をひと回りして、真ん中で止まった。
白羽さんの手元だった。百瀬は、人の顔は見ない。手元を見る。
「白羽先輩! その紙!」
白羽さんの右手に、美術部の白い紙が一枚、残っていた。
「先輩、四回とも、紙を持ったまま、入れてないです! 恋文屋さんは、毎回入れてます!」
学食が、ざわっと揺れた。
「白羽さんが入れたら、白羽さんの勝ちじゃん」
「三勝一敗で、決着だ」
誰が考えても、そうだった。
白羽さんは、自分の手の中の紙を見下ろした。
それから、箱の前に立った。二百人が、息を止めた。自分の名前の側に、一枚入れれば終わる。
白羽さんの手が、白い側の口の上で止まった。
一秒。
それから、すっと横へ動いた。
白い紙が一枚、紅い側の口に吸いこまれた。
学食が、凍った。
「……紅?」
「紅に入れた」
「自分に入れないのかよ」
「謙虚すぎるだろ、氷の姫」
ざわめきが、さっきの数える声より大きくなった。
謙虚、ではなかった。
白い側の手紙の本文を書いたのは、白羽さんではない。自分の書いていない手紙に、自分の名前で一票は入れられない。四月に決めたルールの二つ目は、断り文句の決まりだった。この人は、それを投票用紙一枚にまで当てはめた。
書いた本人の俺は、四回とも、平気な顔で白に入れていたのに。
ただ、入れずに持って帰ることも、できたはずだった。先週までの三回は、そうしていたらしい。百瀬に言われるまで、俺は気づいていなかった。手元を見るのは、百瀬のほうがうまい。紅い側に入れた理由は、分からなかった。恋文屋の最後の一通を、きれいだと思ったのかもしれない。六月に、桂木の恋文を読んで「……きれい、でした」と言った人だ。
白羽さんは、二百人に向かって、九十度で頭を下げた。何に下げたのかは、たぶん、白羽さんにしか分からない。
紅林は、紅い側の口を見ていた。
それから、白羽さんを見た。いつもより、ずっと長く。万年筆のキャップが、唇の手前で止まっていた。
「百四対百三!」
百瀬が、拡声器で叫んだ。
「四番勝負、恋文屋さんの勝ちです! 二勝二敗!」
「いただけないわ」
紅林が言った。学食じゅうが、紅林を見た。
「相手の一票で勝って、勝ったとは言わない。……決着は、ついてないわ」
キャップの先が、唇で、とん、と一度鳴った。
百瀬の目が、光った。特ダネを見つけたときの目だった。拡声器のつまみが、いちばん上まで回った。
「じゃあ! 決着は!」
二百人が、息を吸った。
「文化祭で!」
歓声と拍手と「文化祭っていつ!」「九月!」が、いっぺんに天井にぶつかった。
決着をつけるための開票で、決着が二か月延びた。開票というのは、こういうものだったろうか。
◇
百瀬は、拡声器を下ろした。
いつもなら、ここで次の告白だった。恋文屋が書いた告白は、四通で終わっている。百瀬の手には、もう何もなかった。
百瀬は、テーブルの紙ナプキン立てから、一枚抜いた。胸ポケットから取材用のボールペンを出して、テーブルに覆いかぶさるように書きはじめた。
学食が、静かになった。一年生がナプキンに何か書いているのを、二百人が黙って見ていた。ボールペンの先が、ときどき、ぷつっと鳴った。感嘆符の点を打つたびに、薄い紙に穴が開くらしかった。
一枚では足りなかった。百瀬は二枚目を抜いた。
書き終えると、百瀬は二枚のナプキンを持って、まっすぐ立った。拡声器を構えた。
白羽先輩へ!
追伸、黙って読みました! でも、お返事は、声でします!
「ある人が、百瀬さんの手紙は百瀬さんが書くほうがいい、と言っていました。わたしも、そう思います。」って、書いてくれました!
あたしも、そう思います!
だから、今日からは、自分で書きます!
ナプキンなので、字がよれよれです! 穴も、三つ開きました!
ある人にも、ありがとうございます!
白羽先輩、好きです!
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
九十度だった。いつもの間で、いつもの高さで、「金曜に」の「に」で、ほんの少し下がった。
学食が、拍手しかけて、止まった。
「……来週の、金曜?」
「来週って」
「夏休みじゃん」
一拍あって、学食がひっくり返った。
練習した一文には、日付まで入っている。六月に、写真部の田辺が、来週の金曜は写真展の搬入でいないと言ったときに知った。今日、もう一つ知った。夏休みも、入っていない。
白羽さんの右手の人差し指が、スカートの横で、はっきり困っていた。
「待ちます!」
百瀬が叫んだ。
「九月の、最初の金曜日まで! 九月六日です!」
手紙のほうは、とっくに知っていた日付だった。返事の最後の段落に、九月の最初の金曜日、と書いておいた。手紙は夏休みを知っていて、練習した一文は知らなかった。
百瀬が、二枚のナプキンを両手で差し出した。白羽さんはそれを両手で受け取って、九十度で頭を下げた。紙ナプキンに九十度で礼をする人を、俺ははじめて見た。
笑い声の中で、俺だけが、笑い損ねていた。
ある人が、百瀬さんの手紙は百瀬さんが書くほうがいい、と言っていました。
六月二十一日の放課後、文芸部室で、俺の口から漏れた一言だった。百瀬の手紙は、百瀬が書いたほうがいいのにな。聞いていたのは、一人だけだった。その人の指は、あのとき、一画目を空に置きかけて、何も書かずに下りた。
あの一画目の続きが、四週間たって、追伸になっていた。
わたしも、そう思います。
あなたの考えを書きなさい、の欄が白紙だった人が、追伸に、自分の考えを書いていた。
ある人にも、ありがとうございます。
名乗らないシラノに、お礼が拡声器で届いたのは、はじめてだった。宛名は、ある人、だった。首の後ろが、痒いのを通りこして、熱かった。
約束は、守った。追伸は読んでいない。耳も、合図どおりにふさいだ。それでも追伸は、二十分ほど遅れて、ナプキンに乗って正面から来た。
永久に分からないはずだった。永久は、三日だった。
白羽さんは、二枚のナプキンを、両手で胸の前に持っていた。
柱のほうは、一度も見なかった。見ないようにしているのが、定規入りの背中で分かった。
投票箱の横で、紅林が手帳を開いていた。万年筆が、一行だけ走った。何と書いたのかは、この距離では読めなかった。読めないほうが、よかった。
◇
撤収の前に、百瀬が、もう一度拡声器を構えた。
「それから! 九月まで待つのは、長いので!」
長いらしい。七週間ある。
「八月十七日、天満宮の夏祭り、取材です! 文化祭の決勝戦に向けて、両者に密着します! 全員集合!」
拡声器の先が、順番に動いた。白羽先輩。投票箱の横の恋文屋さん。それから、柱の陰の俺。
「墨田先輩は、カメラマンです!」
先週の金曜の帰りに新聞部のデジカメを首に掛けられ、火曜日の柔道場でもカメラマンだった。一度首にカメラを掛けられた人間は、なかなか外してもらえないらしい。
「……私も?」
「はい! 両者の、片方です! 四人です!」
「取材なら、お断りよ」
「取材のお断り、百五十一回目、いただきました! でも、数には入ってます!」
紅林の片方の眉が、上がった。断っても、数からは外してもらえないらしい。百瀬の名簿は、本人の意向より強い。
「白羽先輩! 浴衣ですか!」
白羽さんは、答えなかった。右手の人差し指が、胸の前で少しだけ動きかけて、止まった。
百瀬は敬礼して、二枚のナプキンの持ち主を残して、撤収した。
その夜、白羽さんからLINEが届いた。
【白羽】拝啓 盛夏の候、墨田様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
便箋三枚分あった。一学期のお礼と、夏休みのあいだの健康を祈る言葉のあとに、用件が一行だけあった。要約すると、八月十七日は浴衣で参ります、だった。
学食で百瀬に聞かれて、答えられなかったことの返事だった。返事は、手紙で。宛先が、なぜか俺だった。
四月、机の中の和紙に〔変装して参ります〕と書いてあったとき、参らないでほしい、と俺は思った。
今度は、思わなかった。それが、いちばん困った。
夏休みの前に、自分宛ての断り文句は第五稿まで進んでいた。勉強会の三行で一稿、〔正しい〕で一稿、下駄箱の手のひら二枚で一稿。
LINEを読み終えてから、第六稿を書いた。
八月十七日まで、二十九日あった。断り文句が、何稿あっても足りそうになかった。




