第23話 振られ男子の会
振られ男子の会の最初の活動は、振られていない男を励ますことだった。
励まされたのは、俺だった。
七月十六日、火曜日の朝。月曜が海の日だったので、週刊玉砕は一日遅れで配られた。
下駄箱の前で、俺はいつものように、紙の下半分を手のひらで隠した。
〔三番勝負 白羽先輩の勝ち! 百八票対百票〕
これで、二勝一敗。金曜の四番勝負で白羽さんが勝てば、三勝一敗で決着がつく。恋文屋が勝てば、二勝二敗になる。
見出しを読み終えて顔を上げると、隣の下駄箱の前に、白羽さんが立っていた。
白羽さんも、週刊玉砕を持っていた。俺の手元を見ていた。下半分を隠している、俺の手のひらを。
白羽さんは、何も言わなかった。
かわりに、自分の右手を、俺の紙の上に、そっと重ねた。俺の手のひらの、すぐ隣に。下半分を隠す手のひらが、二枚になった。
一枚で足りていた。足りていたが、俺は何も言わなかった。言えなかった。
三秒くらいで、白羽さんの手は離れた。小さく一礼して、白羽さんは階段のほうへ歩いていった。背筋は、今日も定規入りだった。
紙の下半分を隠していた俺の手のひらが、白羽さんの手が離れたあとも、しばらく動かなかった。
◇
放課後、柔道場の入口で、百瀬が待っていた。
「カメラマン、到着です!」
百瀬は、俺の手を見て言った。首から下げたデジカメを持つ、俺の手を。顔は、今日も見なかった。
「先輩! 先に確かめておきます! 先輩、大きい音、苦手ですよね! 学食で、あたしが署名を読むところで、二週続けて耳ふさいでましたもんね!」
違う。
大きい音が苦手なのではない。署名のあとに、追伸があるかもしれないからだ。七月一日に、追伸は読まないと白羽さんに約束した。百瀬が追伸を黙って読むのは知っている。知っていても、署名のあとの一行に耳を開けておく度胸が、俺にはなかった。
それを説明すれば、なぜ追伸を読まないのか、と聞かれる。
俺は、何も言わなかった。
「やっぱり! 了解です! 大きい音の前は、あたしが合図します!」
百瀬は、黙っていたのを「はい」と受け取った。大きい音が苦手な人に、拡声器で合図をするつもりらしい。百瀬の親切は、いつも少しだけ、向きがおかしい。
柔道場の畳の上には、男子が八人、正座していた。
手紙のあとで何かが変わった八人だった。権田先輩、大森、早瀬先輩、岩城、吉岡、桂木、田辺、音無。全員の手紙を、俺が書いた。向こうは、一人も俺を知らない。
壁に、模造紙が一枚貼ってあった。駒を置くような字で、桂木が書いた会則だった。
〔振られ男子の会 会則〕
〔第一条 振られたことを恥じない〕
〔第二条 振った人を恨まない〕
〔第三条 手紙は額に入れる〕
〔第四条 追伸は声に出して読む〕
〔第五条 会員が泣いているときは、黙って隣に座る〕
第四条で、背中が少し冷えた。俺の約束と、真正面からぶつかる一条だった。会員でない俺には、反対する権利もなかった。
「振られ男子の会は、振られたやつを、励ます会っス」
会長の権田先輩が、畳の真ん中で言った。会員番号は柔道場に着いた順で、一時間前に来て畳を雑巾がけしていた会長が、一番だった。
「振られて、一人で泣いてるやつの隣に、座りに行くっス。第五条っス」
七人が、深くうなずいた。
「じゃあ、最初の活動っス。励ます相手は」
権田先輩は、畳を見回した。
八人とも、とっくに前を向いていた。権田先輩は地区大会で優勝し、吉岡はサッカー部に戻り、桂木は次は自分で書くと言った。励まされる側の顔をしている人間は、畳の上に一人もいなかった。立ち直りの早い会員ばかり集めると、こういうことになるらしい。
八人の目が、畳の外へ出た。
入口の板の間に、前髪の長い、陰気なカメラマンが立っていた。
「……あいつ」
大森が言った。
「先週の金曜、学食の柱の陰で、耳ふさいでたやつだ」
野球部は、学食の奥の長テーブルで昼を食べる。二百人の学食でも、柱の陰で耳をふさぐ男子は、奥からよく見えたらしい。
「白羽さんの返事が読まれてるときに、耳ふさいでた」
「聞いてられないんだ」
「振られた傷が、まだ痛むっス」
権田先輩の目が、もう赤くなりかけていた。
「違います!」
百瀬が、拡声器を構えた。
「カメラマンさんは、大きい音が苦手なんです!」
八人が、顔を見合わせた。
「大きい音が、苦手で」
「振られた」
「……両方か」
どちらも違った。どちらを訂正しても、本当の理由を聞かれる。俺は、何も言わなかった。二つの誤解に挟まれて黙っているのが、いちばん安全だった。
八人が、立ち上がった。
畳の外まで出てきて、七人が、板の間の俺のまわりに黙って座った。右に権田先輩、左に桂木、正面に大森。俺は泣いていなかった。第五条は、泣く前から始まるらしい。
「大きい音が苦手なら、静かに励ますっス」
権田先輩が、ささやいた。百二キロのささやきは、普通の人の話し声くらいあった。
「……振られた日こそ、人生の転機」
岩城が、ささやき声で韻を踏んだ。
大森は、黙って左手を構えた。ミットのない手のひらが、ど真ん中で俺を待っていた。何を投げればいいのかは、分からなかった。
音無は、握りこぶしを口の前に持ってきた。マイクの形だった。
「……落としたものは、たいてい、見つかります」
落とし物のお知らせの声だった。マイクの形をしていれば、こぶしでもいいらしい。俺が何を落としたことになっているのかは、聞かなかった。
百瀬がデジカメを構えると、田辺が、その手をそっと押さえた。
「撮る前に、聞いてください」
「カメラマンさん、撮っていいですか!」
カメラマンが撮られる側に回るのに、一分かからなかった。俺は、うなずいた。
吉岡だけは、座らずに、入口の柱にもたれていた。
「……釣りの、友だちの人」
小さく言って、笑った。五月に、河川敷の橋の上で、釣りの人の友だちだと答えた相手だ。俺が振られていないことくらい、この男には、たぶん見えている。見えていて、何も言わない。この男には、借りが増える一方だ。
静かな励ましは、十秒ももたなかった。
権田先輩の鼻が、ぐすっと鳴った。
「振られるのは、つらいっス……」
自分の言葉で、自分が泣きはじめた。肩が揺れ、百二キロの体の底から、地鳴りが上がってきた。四月に、柔道場の裏の砂利の上で聞いた、あの地鳴りだった。
「カメラマン、耳!」
百瀬が、拡声器で叫んだ。
俺は、両手で耳をふさいだ。ふさがないと、話が合わなくなる。
権田先輩と、柱の吉岡をのぞいた六人が、それを見て、深くうなずいた。
「ほら」
「やっぱり」
誤解は、二つとも、きれいに裏づけられた。
窓の外で、野球部のノックの音が止まった。会員たちは、今度は権田先輩の隣にも座ろうとして、百二キロのまわりで押し合った。泣いている会長と、泣いていないのに励まされているカメラマン。第五条は、隣に座る相手が二人いる場合を、決めていなかった。
権田先輩は、道着の袖で顔をふいてから、俺の肩に手を置いた。
「いつ振られたかは、言わなくていいっス」
まだ、振られたことになっていた。
「言えるようになったら、来い。番号は、空けといてやるっス」
振られるには、まず、告白しなければならない。その予定は、どこにもなかった。
ただ、自分宛ての断り文句なら、四稿ある。あれを数に入れていいなら、俺は、百瀬をのぞけば、この部屋の誰よりも振られていた。
肩の手は、百二キロぶん重かった。
帰りぎわ、百瀬が、デジカメの画面を確かめてから、俺の手を見た。
「先輩、名前、なんでしたっけ! 写ってる人の名前を、写真の下に入れるので!」
「……墨田」
「墨田先輩!」
百瀬は、俺の手を見ながら、俺の名前を呼んだ。顔を見ないまま名前を覚えられたのは、たぶん、この学校で俺だけだ。
◇
その夜、四番勝負の返事の下書きを書いた。
恋文屋の最後の一通への返事だ。金曜の終業式の日に、学食で、百瀬が拡声器で読み上げる。
書き終えて、いつものように、署名のあとを一行ぶん空けた。
追伸の欄だ。
そこに何が書かれるのかは、俺には、永久に分からないはずだった。




