第22話 期末テストと四畳半
期末試験の初日、俺は週刊玉砕を半分だけ読んだ。
下半分は、手のひらで隠した。
七月八日、月曜日の朝。下駄箱の前で百瀬に押しつけられた紙の、読者投稿の欄は、下半分にある。読まないと約束した。約束は、手のひら一枚ぶんの面積で守れる。
上半分の見出しは、大きかった。
〔二番勝負 恋文屋の勝ち! 百二票対百一票〕
一票差だった。これで、一勝一敗。
先週、俺は白い側に一票入れた。入れていなかったら、二票差だった。慰めとしては、一票ぶんにも足りなかった。
週刊玉砕を半分だけ読んで立ち尽くしている男子を、一年生が二人、不思議そうに見ていった。先週、学食の柱の陰で耳をふさいでから、俺はどうも、変な格好をしているときだけ人に見られる。
◇
期末試験は、午前中で終わる。午後の文芸部室は、四日間、勉強部屋になった。
長机の向かいで、白羽さんが古典の問題集を開いていた。開いているだけだった。もう解き終わっていた。四十問の答えの欄に、教科書の手本みたいな字が、一つの迷いもなく並んでいた。
俺のほうは、漢字の書き取りをしていた。
白羽さんの筆箱から、筆ペンが一本出てきた。いつもの黒ではなかった。朱色だった。
「……祖母の、書院では」
白羽さんは言った。
「……直しは、朱で、入れます」
直しが、始まった。
俺のノートの上に、朱色の丸と、朱色の矢印と、朱色の小さな字が、次々に増えていった。〔とめ〕〔はね〕〔ここ、離す〕〔払いは、もっと先まで〕。「口」の字には、〔四角です〕と一言だけ入った。
四月から、他人の文章を頭の中で赤ペン添削してきた。その俺の字が、本物の朱で、添削されていた。頭の中の赤ペンより、本物の朱のほうが、ずっと容赦がない。
最後に、白羽さんの筆ペンが、ノートのいちばん上で止まった。
俺の名前のところだった。
〔墨田文也〕に、朱が四つ入った。一字に一つずつ。
「……名前から、です」
名前から、だった。答案で、先生がいちばん最初に読む字だ。十六年使ってきた名前に、四か所の直しが入った。四か所とも、正しかった。
白羽さんは朱色の筆ペンにキャップをして、少しだけ満足そうに見えた。顔はほとんど動かないので、肩で判断した。肩が、ちょっとだけ上がっていた。
◇
次の日の午後は、現代文だった。明日の二時間目が、現代文の試験だ。
俺は、先週の小テストの答案を、長机の真ん中に置いた。いちばん下の、真っ白な問五。
問五の文章は、五月に白羽さんが授業で読んだ随筆だった。四ページを一度もつかえずに読みきって、北条先生が止めるのを忘れた、あの随筆だ。そのあとで、筆者はどんな気持ちだったと思う、と聞かれて、白羽さんは止まった。
「どう思った?」
まず、普通に聞いてみた。
白羽さんは口を開けた。閉じた。もう一度開けた。
「……ごめんなさい」
間が長く、言い終えて、目を伏せた。辞典の①、謝罪の「ごめんなさい」だった。五月の教室と、同じだった。
質問が悪い、と思った。「どう」は、広すぎる。広い野原の真ん中に立たされて、好きな方角へ歩け、と言われているようなものだ。白羽さんは、方角を決めているあいだに日が暮れる。
狭くすることにした。
「この随筆を読んでて、いちばん息を吸いたくなったのは、どこ」
白羽さんの指が、迷わずに一行を指した。最後の段落の、まん中あたりだった。
速かった。読むことなら、この人は一秒も迷わない。
遅れて届いた手紙の段落だった。筆者が若いころに出した手紙の返事が、何年もたってから届いた、という話だ。
「そこ、好き?」
〈す・き〉
空書きが、声より先に出た。
「どうして」
白羽さんが、止まった。
しまった、と思った。どうして、も野原だ。
俺はノートに「どうして」と書いて、線を引いて消した。それから、一つだけ聞いた。
「そこを読んだとき、誰の顔が浮かんだ」
白羽さんは、目を一度、右上へやった。考えるときの目だった。
「……祖母」
小さな声だった。
「……と」
続きがあった。
「……吉岡くん」
俺は、黙った。
祖母は、字は待ってくれる、と白羽さんに言った人だ。吉岡は、三月の告白に、二か月半遅れの返事を受け取った人だ。遅れて届いた手紙の段落を読んで、白羽さんの頭に浮かんだのは、その二人だった。
それが、白羽さんの考えだった。本人はまだ、それが考えだと気づいていない。
「それを、書けばいい」
白羽さんは、首を横に振った。指が、膝の上で困っていた。
頭の中にあるうちは、ちゃんと自分のものなのに、書いたとたんに、答案の上で他人の目にさらされる。たぶん、そういう困り方だった。
俺は少し考えてから、言った。
「追伸だと思って書いて」
白羽さんが、顔を上げた。
「問五は、答案の追伸。書いても、俺は読まない。約束どおり」
白羽さんは、長いあいだ俺を見ていた。それから、うなずいた。
俺は、椅子ごと後ろを向いた。
四畳半の壁が、目の前にあった。図書室の定位置も、壁に向いた机だ。壁と向き合うのは、慣れている。
背中のほうで、筆ペンのキャップが外れる音がした。それから、穂先が紙をこする、かすかな音。止まって、また動いて、また止まった。
俺は、壁のしみを数えた。十一個あった。数え終わっても、音は続いていた。もう一度数えた。やっぱり十一個だった。壁は、二回数えても、増えも減りもしなかった。
十分くらいたって、音がやんだ。
「……できました」
白羽さんの声がした。
「……三行、です」
数を、教えてくれた。中身は見せずに、数だけ。俺が何でも数える人間だということを、白羽さんは、いつのまにか知っていた。
振り向くと、白羽さんは、書いた紙を胸に伏せて持っていた。三行ぶんの重さがあるみたいに、両手で。
俺は、何も読まなかった。読まなくても、三行ぶん、うれしかった。
◇
七月十二日、金曜日。期末の答案が、朝から次々に返ってきた。
現代文は、三時間目だった。北条先生が、出席番号順に答案を配っていった。白羽さんは答案を受け取ると、席に戻って、しばらく、そのまま見下ろしていた。窓側の前から二番目の背中が、いつもより、さらにまっすぐだった。まっすぐの上に、まだ上があったらしい。
昼休みは、三番勝負の返事の日だった。
学食で百瀬が拡声器を構え、白羽さんの返事を読み上げた。最後の行に一回だけ置かれた「好きです」に、今週の返事は、その一回ぶんだけ、ていねいに答えていた。
署名が聞こえた瞬間、俺は、また両手で耳をふさいだ。
今週は、隣の三年生が「またか」という顔をした。先週の俺を、覚えていたらしい。存在感というものは、悪いほうの使い方から先に身につくらしい。
ふさいだ手の向こうで、百瀬が黙って便箋のいちばん下を読んでいた。それから拡声器を構え直して、何か言った。手を外すと、ちょうど「星、五つ!」が聞こえた。カチッ。〔87〕。
投票の列は、先週よりさらに長かった。
そのあと、百瀬が四番勝負の告白を読み上げた。恋文屋の、最後の一通だった。好きですは一回で、白羽さんの一文も一回だった。その返事を書くのが、一学期最後の仕事になる。渡すのは、終業式の日だ。
撤収するとき、百瀬が、拡声器を構えたまま、こっちを見た。
柱のほうを、見ていた。正確には、柱の陰で、耳から外したばかりの、俺の両手を見ていた。百瀬は、人の顔は見ない。手元を見る。
◇
放課後の文芸部室に、白羽さんは、答案を一枚持ってきた。
長机の上に置く前に、白羽さんは、答案の下のほうに、自分の手のひらをのせた。問五の欄だった。三行ぶんの上に、手のひらが一枚。
俺に見えたのは、手のひらの横と、上だけだった。
手のひらの横に、点数があった。〔5/10〕。
手のひらのすぐ上に、北条先生の赤い字が一行。
〔はじめて、あなたの考えが読めました。〕
北条先生の字は、読みやすかった。白羽さんにも、俺にも。
五月の現代文の授業で、自分の考えを聞かれて止まった白羽さんを、いい、いい、座って、と笑って座らせた先生だ。あの先生が、二か月かけて、はじめて読めた。
白羽さんが、顔を上げた。
「……ごめんなさい」
声が、少しだけ高かった。辞典の②、感動の「ごめんなさい」の高さとは違った。もっと短くて、語尾が、ほんの少し弾んだ。言い終わっても、目を伏せなかった。そのかわり、口の端が、たぶん二ミリくらい動いた。
辞典の、どの番号でもなかった。
俺は、黒いノートのいちばん後ろを開いて、⑧動揺の下に、一行足した。
〔⑨うれしい〕
書いてから、少し照れた。うれしい、という字を、白羽さんの「ごめんなさい」の名前として書くのは、はじめてだった。分類しているのは俺なのに、分類された気がした。
白羽さんが、ノートをのぞきこんだ。俺の字の上を、じっと見ていた。たぶん、朱を入れたい字だった。
白羽さんは、朱色ではなく、いつもの黒い筆ペンを出した。キャップを外して、⑨の横の余白に、三文字だけ書いた。
〔正しい〕
五月に、⑤の横へ〔⑤は空腹ではありません。眠いです〕と書きこんだ人が、今度は、直さなかった。
辞典の余白に、白羽さんがはじめて書いた「合っています」だった。字の「し」の最後が、ほんの少しだけ、跳ねていた。
◇
帰り道、特別棟の階段を下りきったところで、腕をつかまれた。
「いた!」
拡声器の声だった。拡声器は、持っていなかった。地声だった。
百瀬うららが、俺の右腕を両手でつかんでいた。顔は見ていなかった。俺の手を見ていた。
「先輩! 学食の柱のところで、二週続けて耳をふさいでた先輩ですよね! その手、覚えてます!」
手で、覚えられていた。
「先輩、存在感ないから取材向きです! カメラ持ってください!」
百瀬は、首から下げていたデジカメを外して、俺の首に掛けた。思ったより重かった。
「火曜日、柔道場で、結成式の取材です! 月曜は海の日なので、火曜です! 三番勝負の結果も、火曜の週刊玉砕です!」
何の結成式なのかは、教えてもらえなかった。
百瀬は敬礼して、廊下を走っていった。
俺の首には、新聞部のデジカメが一台、残っていた。
写る側に向いていない人間は、撮る側に回されるらしい。




