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第21話 追伸

 追伸は、一行だった。

 俺の書いた本文の、どの一行よりも、よく刺さったらしい。


 七月一日、月曜日の朝。百瀬に押しつけられた週刊玉砕を、俺は下駄箱の前で読んでいた。

 〔読者投稿 私の振られ体験 二年F組 田辺光〕。先週の火曜、写真部の部室の前で白羽さんが渡した手紙が、そのまま活字になっていた。


   田辺光くんへ


   藤棚で、気持ちを伝えてくれて、ありがとうございました。写真も、ありがとうございました。

   図書室の窓の写真でした。誰も、写っていませんでした。

   人は、勝手に撮らないことにしている、と田辺くんは言いました。

   写真部の人に聞きました。田辺くんは、運動会でも文化祭でも、人を撮る前に、かならず、撮っていいですか、と聞くそうですね。聞けなかったときは撮らずに、その人がいた場所を撮るそうですね。

   田辺くんは、写っていない人のことまで、大切にする人だと思います。


   だから、はっきり書きます。

   わたしは、田辺くんとお付き合いすることはできません。

   それは、田辺くんのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、田辺くんと同じではありません。


   写真展の搬入、がんばってください。

   次の写真には、撮っていいですか、と聞けた人が、写っているといいなと思います。


   白羽ことは


   追伸 図書室の窓の写真、わたしも、好きです。


 最後の一行を、俺は三回読んだ。三回読んでも、書いた覚えは出てこなかった。

 白羽さんの文だった。「わたし」がひらがなで、読点が多くて、一文が短い。五月に、辞典の余白へ〔⑤は空腹ではありません。眠いです〕と書きこんだ人の文だ。清書のとき、白羽さんが自分で足したのだと思う。先週の火曜の手紙は、清書を家でした。俺は、清書を見ていない。


 投稿の下に、田辺の短いコメントがついていた。

 〔本文も、すごくよかったです。でも、追伸が、いちばん刺さりました。〕

 その下に、編集長のコメント。

 〔追伸! 白羽先輩の追伸、はじめて見ました! 追伸だけで、星六つ!〕

 星は、五つまでのはずだった。

 俺の書いた本文に、星はついていなかった。調査をして、良いところを一つ探して、白羽さんに一文ずつ確かめてもらって書いた本文は、どうやら、一行の追伸のための長い前置きだったらしい。前座にしては、ずいぶん長い前座だった。悔しい。正直に言えば、かなり悔しい。


 それから、もう一度だけ、追伸を見た。

 図書室の窓の写真。わたしも、好きです。

 あの写真の裏には〔4/15 16:56〕と書いてある。白羽さんが窓際の席を立って、棚の陰で俺を待っていた、その一分後の窓だ。

 その窓が、好きです、と白羽さんは書いた。

 そこまで考えて、俺は考えるのをやめた。写真がきれいだったから、好きなのだ。田辺の写真は、本当にきれいだった。それ以外の理由を探しはじめたら、五月の終わりの夜に殺したはずのものが、また起き上がってくる。

 週刊玉砕を、四つに畳んだ。

 畳んでも、追伸のところだけ、折り目の外に出ていた。


  ◇


 放課後の文芸部室で、俺は長机の上に週刊玉砕を広げた。読者投稿の欄を、白羽さんのほうへ向けた。

 白羽さんは、それを見た。

 一行目からではなかった。いちばん下の一行だけを、まっすぐ見ていた。

「……ごめんなさい」

 声の高さが、一語の中で二回変わった。「ごめ」で上がって、「なさい」で下がった。言い終わっても、目を伏せるのを忘れていた。

 辞典の⑧、動揺の「ごめんなさい」だった。先月、教室で恋文屋に「あなたの断り文句を書いているのは、誰?」と聞かれたときと、同じ揺れ方だった。

「……載る、と、思って、ません、でした」

「田辺が投稿したんだと思う。手紙は、もらった人のものだから」

 五月に、号外のことで、俺が白羽さんに言った言葉だった。言ってから、自分の言葉で自分の首を絞めた気がした。もらった人のものなら、載せるのも田辺の自由だ。

 白羽さんは、うなずいた。うなずいたまま、顔が上がってこなかった。


「怒ってない」

 俺は、先に言った。

「ただ、知りたい。どうして」

 白羽さんの指が、膝の上で動きかけて、止まった。空書きではなく、声で言うことにしたらしい。

「……一行、だけ」

 一語ずつ、置いた。

「……自分の、言葉を」

 長い間があった。窓の外で、運動部の掛け声が、遠くで一つ鳴った。

「……書きたかった、です」


 俺は、何も言えなかった。

 四月から、白羽さんの名前で出した手紙は、全部俺の文だった。白羽さんは一文ずつうなずいて、嘘がないかを確かめて、それを一番きれいな字で清書してくれた。俺の文を、自分の文として渡してきた。五月の号外の日には、自分の書いていない文章で褒められるたびに、謝っていた人だ。

 その人が、清書のいちばん最後に、一行だけ、自分の文を足した。

 本文よりずっと短くて、星の上限を一つこえた一行を。

 悔しさは、まだ少し残っていた。でもそれは、俺の文章の問題だった。白羽さんの一行の問題ではなかった。


「追伸は、白羽さんのものだ」

 口から出ていた。

「これからも、書きたかったら書いていい。俺は、読まない」

 白羽さんが、顔を上げた。

「……読まない、ん、ですか」

「清書の最後の行は、見ない。週刊玉砕の投稿の欄も、もう読まない」

 言いながら、自分で少し驚いていた。読みたくないわけではない。たぶん、誰よりも読みたい。だから、読まないことにした。白羽さんが自分の言葉を書ける場所が、一つくらい、俺の手の届かないところにあったほうがいい。

 白羽さんは、少しのあいだ俺を見ていた。目が一度、右上を見た。考えるときの目だった。

 それから、右手の人差し指が、ゆっくり動いた。


  〈や・く・そ・く〉


 読めた。四文字とも、俺に読める速さだった。速く書けば読めないふりもできるのに、白羽さんは、わざと読める速さで書いた。

「約束する」

 白羽さんは、うなずいた。それから鞄から筆箱を出して、なぜか両手で、胸の前に抱えた。筆箱に何が入っているのかは、知らない。


 その夜、自分宛ての断り文句の、第二稿を書いた。

 第一稿と同じく、五つの約束を全部守った。追伸は、つけなかった。追伸は白羽さんのものだと、今日決めたばかりだ。俺が白羽さんの声で書く手紙でも、そこだけは、俺には書けない。


  ◇


 七月五日、金曜日の昼休み。二番勝負の、返事の日だった。

 先週、恋文屋は「好きです」を三回書いた。返事は一通で、三回ぶんに答えた。答えた先は、恋文屋の三回ではない。三回とも、百瀬の声で学食に響いた「好きです」のほうだ。

 百瀬は、白羽さんから封筒を受け取ると、拡声器を構えた。

「二番勝負、お返事の部です! 百瀬うらら、読みます!」

 便箋を広げて、読み始めた。本文の真ん中あたりで、学食がざわっと揺れた。

「『あなたは、わたしの声だけが、毎週、大きすぎます、と言いました』!」

 百瀬の声が、一段大きくなった。

「『あなたの声は、大きすぎません。学食のいちばん奥の席まで、ちょうど届く大きさです』!」

 拡声器で読んでいた。

 大きすぎませんという一文を、学食で一番大きい声が、拡声器で読み上げていた。奥の席の三年生が、「十分届いてる!」と叫んで、学食が笑った。

 百瀬も、笑っていた。笑いながら、目の端を手の甲でこすっていた。拡声器は声を大きくする道具ではなく、声が大きすぎることを先に知らせておく道具だ。その道具の持ち主に、大きすぎません、と書いた。俺が。白羽さんの名前で。


 百瀬が、最後の段落に入った。

 俺は、柱の陰で身構えた。

 署名のあとに、何かがあるかもしれない。白羽さんが追伸を書いたかどうかを、俺は知らない。清書の最後の行は、月曜に約束したとおり、見ていない。見ていないから、あるのかないのかも分からない。

「……白羽ことは!」

 署名が、聞こえた。

 俺は、両手で耳をふさいだ。

 隣の三年生が、こっちを見た。その隣の二年生も見た。学食で、柱の陰に挟まって、両耳をふさいでいる男子。存在感のない人間でも、この格好をすれば見てもらえるらしい。知りたくなかった。

 ふさいだ耳の奥で、学食の音が、遠い海みたいに鳴っていた。

 百瀬の口が、止まっていた。

 拡声器を下ろして、便箋のいちばん下を、黙って見ていた。五月に、最初の手紙を読んだときと同じ顔だった。唇が、一度だけ何かの形に動いた。

 十秒くらいして、百瀬が拡声器を構え直した。俺は、そっと片手だけ外した。

「……追伸は、黙って読みます!」

 百瀬が言った。

「追伸は、あたし宛てなので!」

 学食が、一瞬だけ静かになって、それから、拍手が起きた。誰も、文句を言わなかった。

「振られ心地、星五つ!」

 カチッ。〔86〕。

 あったのだ、追伸が。

 何が書いてあったのかは、知らない。耳をふさいでいたあいだに、百瀬が一人で読んだ。知らないのが、約束どおりだった。約束どおりなのに、ふさいでいた手のひらが、少しだけ熱かった。


 投票は、先週よりも長い列になった。

 そのあと、百瀬が三番勝負の告白を読み上げた。恋文屋は今度は、「好きです」を一回だけ、いちばん最後の行に置いていた。

「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」

 一回で終わった。

 学食の二百人は、先週の合唱の準備をしていた。息を吸ったまま、行き場をなくしていた。拍子抜けした空気が、しばらく天井のあたりに浮いていた。紅林は、投票箱の前で腕を組んだまま、キャップの先を唇に当てて、満足そうに一度だけうなずいた。恋文屋は、学食の呼吸まで計算に入れはじめたらしい。手ごわい。


  ◇


 放課後、文芸部室の扉が二回ノックされた。

 白羽さんは長机の向かいに座ると、鞄から紙を一枚出して、俺の前に置いた。先週の、現代文の小テストの答案だった。

 漢字の書き取りは、全問、教科書の手本より字がうまかった。古文の現代語訳は、たぶん先生の模範解答より正確だった。赤い丸が、上から下まで並んでいた。

 いちばん下に、一か所だけ、真っ白な欄があった。

 〔問五 筆者の考えについて、あなたの考えを書きなさい〕

 その欄にだけ、丸も、バツも、何もなかった。何も書いていないものには、先生も何もつけられない。

 白羽さんの人差し指が、空中で動いた。


  〈お・し・え・て〉


 月曜から、期末試験だった。

 四畳半で、白羽さんの考えを探すことになった。どこに隠れているのかは、本人にも分からないらしい。

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