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第20話 敵は前髪が長い

 敵が、俺の郵便受けを借りに来た。

 しかも、俺の顔を覚えていた。


 六月二十四日、月曜日の放課後。当番の図書委員が風邪で休んだので、柳先生に頼まれて、俺は図書室のカウンターに座っていた。返ってきた本にスタンプを押すだけの、静かな仕事のはずだった。

 カウンターの上には、日に焼けた文庫本が一冊。ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』。第三幕のページに頼みごとを挟めば、手紙を書いてくれる誰かがいる、という噂の本だ。

 その誰かは、俺だ。

 そして本を差し出しているのは、その誰かに宣戦布告した、恋文屋だった。


「……あなた」

 紅林は、俺の顔を見て、片方の眉を上げた。

「火曜日の。予約の人」

 覚えていた。

「明日でもいいって言ったのに、来なかったでしょう」

「……急用が、できて」

 嘘ではなかった。水曜の放課後、文芸部室に白羽さんが来た。俺にとっては、たいていの用より急ぎだ。

「予約をすっぽかした客は、あなたがはじめてよ。開業以来」

 開業以来の第一号になった。うれしくはない。

「それで、依頼は?」

 まずい。

 依頼など、最初からない。あったのは偵察だけだ。ないと言えば、じゃあ何をしに来たの、と聞かれる。

「……自分で、書くことにした」

 嘘ではなかった。五月の終わりから、俺は自分宛ての断り文句を、自分で書いている。依頼する相手がいないのは、本当だ。

 紅林は、少しだけ目を細めた。

「……そう。それが、いちばんよ」

 恋文屋が、客に、自分で書けと言った。商売っ気のなさに、こっちが驚いた。


 貸出の手続きを、断る理由はなかった。図書室の本を、図書室の利用者が借りる。それを止める規則は、どこにもない。

 俺は、返却期限のスタンプを押した。〔7月8日〕。

 シラノの郵便受けが、二週間、恋文屋の鞄に入ることになった。そのあいだに誰かが頼みごとを挟みたくなったら、恋文屋の鞄を開けるしかない。開けられるものなら、開けてみてほしい。


 紅林は、本を受け取っても、すぐには帰らなかった。カウンターに片手を置いた。

「読んだこと、ある?」

「……ある」

 何回、とは言わなかった。数えたことがない。数えきれない、という意味だ。

「どこが好き?」

 考えるふりをした。答えは、一年前から決まっている。

「……第三幕。バルコニーの下」

 紅林の目が、ぱっと開いた。

「そうよね。顔を見せないで、声だけで落とすの。……でも、ずるいと思わない? 下でしゃべってるの、別人なのに」

「ずるい」

 俺は言った。

「でも、上の人が好きになったのは、たぶん、声のほうだった」

「そう! だから最後に、」

 紅林は言いかけて、自分の口を押さえた。

「……ネタばらしになるわね。あなた、もう読んでるんだった」

「十五年」

「そう、十五年!」

 紅林は、カウンターを指でとんと叩いた。上の人が、下の声の正体に気づくまでの年数だ。言わなくても通じた。

 話が、噛み合っていた。噛み合いすぎて、奥の机で柳先生が顔を上げた。「図書室では静かに」が来る前に、紅林のほうが声を落とした。

「……この学校で、ロスタンの話が通じたの、はじめて」

 いつもの速さが、なかった。

 それから、あわてて比喩をかぶせた。

「あなたと話すのは、砂漠で井戸を、……いえ、井戸は大げさね。水筒くらい。……水筒って何。……とにかく、悪くないわ」

 水筒にされた。悪くはない、らしい。


「ところで」

 紅林は、カウンターに肘をついた。

「私、この本のシラノを探してるの」

 知っている。宣戦布告を受けたのは、俺だ。

「この学校のシラノはね、男よ」

 当たっていた。

「前髪が長い」

 当たっていた。目の前で、俺の前髪が揺れた。

「陰気」

 当たっていた。否定する材料が、手元に一つもない。

「人の顔色ばかり見てる。だから、断り文句に、相手の良いところが書けるの。見てない人には、書けないもの」

 当たっていた。しかも、少しだけ褒められていた。探られているのか褒められているのか分からないまま、首の後ろが痒くなった。

「あと、たぶん」

 紅林は、万年筆のキャップを唇に当てた。

 ここだ、と思った。ここで、それらしい嘘を一つ足せば、捜査はあさっての方向へ行く。たとえば、たぶん眼鏡をかけている、とか。

「たぶん、め」

 言いかけて、止まった。

 嘘は書かない。白羽さんと決めたのは断り文句の決まりだ。でも、ここで一つ嘘を足したら、俺はたぶん、自分の書いた断り文句の前で、顔を上げられなくなる。

「……眼鏡は、かけてないと思う」

 口から出たのは、本当のほうだった。

「どうして?」

「前髪が長いと、眼鏡にかかって、邪魔だから」

 紅林は、目を見開いた。それから手帳を開いて、万年筆で一行書いた。逆さまでも読めた。

 〔眼鏡なし〕

「いい観点ね」

 嘘をつかないと、敵の手帳に手がかりが一行増えるらしい。正直者は損をする。知ってはいたが、ここまでとは思わなかった。


 紅林は、文庫本を胸に抱えて、カウンターを離れかけた。

 俺は、なぜか聞いていた。

「……恋文屋は」

 紅林が、振り返った。

「自分の恋文は、書くの」

 紅林は、少しのあいだ俺を見ていた。それから、いつもより一拍遅く答えた。

「私は、自分のためには書かないの」

 理由は、言わなかった。比喩も、かぶせなかった。

 赤い髪留めが、図書室の扉の向こうに消えた。ついさっき、自分で書くのがいちばんよ、と言った人の答えだった。


  ◇


 火曜日、田辺への返事は、白羽さんが写真部の部室の前で渡した。

 下書きは、月曜の昼休みに文芸部室で読み上げた。白羽さんは一文ずつうなずいて、清書は家でします、と言った。俺は廊下の角から手渡しを見ていた。田辺は手紙を読んで、廊下の窓のほうを一度だけ見て、深く頭を下げた。それだけだった。

 清書を見ないまま手紙が渡ったのは、五月の量産の週以来だった。そのときは、気にも留めなかった。


 水曜日も、俺はカウンターにいた。風邪の図書委員は、今週いっぱい休むらしい。

 窓際の閲覧席に、紅林がいた。月曜に借りたシラノを開いて、ときどき顔を上げては、図書室を見回している。四月に白羽さんが四日間座って、閉館まで俺を探していた、あの席だった。あの席には、シラノを探す人が座ることになっているらしい。

 外国文学の棚の二段目には、文庫本一冊ぶんの隙間が空いていた。郵便受けの抜けた郵便受けを、恋文屋が、窓際から見張っていた。来るはずのない依頼人を待つ張り込みほど、むなしいものはない。教えてあげたいが、教えられない。


「あの……」

 カウンターの前に、小柄な女子が立っていた。上履きのゴムの色が、俺たち二年とは違った。一年生だ。

「本を、探してて。……でも、題名が、思い出せなくて」

「どんな本」

「えっと……表紙が、青くて。犬が、出てきて。……泣けるやつ、です」

 三つだった。手がかりとしては、ほとんど何もないのと同じだ。この図書室に、表紙の青い本は何百冊もある。犬の出てくる本も、泣ける本も、たぶん同じくらいある。

 でも、俺は、その子の顔を知っていた。

 五月の終わり、閉館の少し前に、青い表紙の本を返しに来た一年生だ。返却ポストに入れずに、わざわざカウンターに両手で置いていった。目が、真っ赤だった。置いたあとも、しばらく背表紙を見ていた。俺の定位置の、壁に向いた机からは、カウンターが斜めに見える。見えてしまったものは、覚えてしまう。

 俺は日本文学の棚へ行って、一冊抜いてきた。青い表紙に、白い犬の足あとが一列に並んでいる本だった。

「これ?」

 その子は、本を見て、それから俺を見た。顔が、耳まで真っ赤になった。

「こ、これです……!」

 貸出カードに書かれた名前は、〔一年A組 相沢まひる〕。百瀬と同じクラスだった。

「……あの。なんで、分かったん、ですか」

「五月に返しに来たとき、泣いてたから」

 言ってから、しまったと思った。泣いていたことを、本人の前で言う必要はなかった。

 相沢は、本を胸に抱えて、もっと赤くなった。

「……覚えてて、くれたんですか」

 それから、カウンターに頭がつくくらい深くお辞儀をして、走って出ていった。図書室で走ってはいけないが、柳先生は何も言わなかった。


「三つで、当てたわね」

 いつのまにか、紅林がカウンターの前に来ていた。

「……覚えてただけ」

「覚えてるのが、才能なのよ」

 紅林は、万年筆のキャップを唇に当てて、俺の顔をじっと見た。

「あなた、人の顔色ばかり見てるのね」

 月曜に、紅林がシラノについて言った言葉と、一字一句同じだった。

 背中が、冷たくなった。

 紅林は、それ以上は何も言わなかった。窓際の席に戻って、シラノの続きを読み始めた。ページをめくる指が、さっきより少しだけ遅かった。

 眼鏡なし。人の顔色ばかり見ている。恋文屋の手帳の手がかりが、また一つ俺のほうへ寄った。寄せたのは、今日も、俺だった。


  ◇


 六月二十八日、金曜日の昼休み。一番勝負の、返事の日だ。

 白羽さんが、百瀬の前で封筒を差し出した。九十度。

 今日の手紙は、先週の金曜、百瀬が最後に拡声器で足した二言への返事だ。恋文屋の恋文への返事ではない。俺がそう決めて書き、白羽さんが一文ずつうなずいて、清書した。

 百瀬は、いつものように黙っては読まなかった。四番勝負の決まりで、返事は拡声器で読み上げる。


   百瀬うららさんへ


   先週の金曜日、手紙を読んでくれて、ありがとうございました。

   きれいな手紙でした。学食が、しんとしました。

   でも、わたしの返事が出てきたのは、手紙を読み終えたあとの、あなたの二言のあとでした。

   あの日、あなたは、手紙を読む前に、だから、今日も、と言いかけて、止めました。

   毎週、あなたは、わたしの手紙の一行を拾って、あなたの言葉で、好きと言ってくれました。わたしは、それを、毎週、聞いていました。

   あなたは、好きと言う前にちゃんと見て、見たものを、自分の言葉で言える人です。

   だから、わたしは、あの二言に返事をします。

   わたしは、あなたとお付き合いすることはできません。

   それは、あなたのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、あなたと同じではありません。

   来週の金曜日も、あなたの声を、聞かせてください。


   白羽ことは


 百瀬は、最後まで読んだ。拡声器で。

 ただ、一か所だけ、声が変わった。

 〔だから、今日も、と言いかけて、止めました〕のところだった。

 そこで、百瀬の声が、拡声器の中で一度だけかすれた。

 ほんの一瞬だった。百瀬はすぐに次の行へ進んで、最後まで、いつもの大きさで読みきった。それでも、学食の二百人のうち、たぶん百人くらいは、その一瞬に気づいた。残りの百人は、たぶん、その百人の顔を見て気づいた。

 百瀬は、手紙を折り目どおりに畳んで、クリアファイルに入れた。

「……振られ心地、星、五つ」

 拡声器を通さない、小さな声だった。カチッ。〔85〕。

 それから、百瀬は顔を上げて、いつもの声で叫んだ。

「見られてました! 恥ずかしいです! 投票です!」


 投票用紙は、美術部が切った小さな白い紙だった。学食の全員が一枚ずつ持って、紅白の箱の前に列を作った。紅い側に入れれば恋文屋、白い側に入れれば白羽先輩。

 俺も、列の最後に並んで、白い側に一枚入れた。書いた本人が自分に入れるのが反則かどうか、決まりには書いていなかった。

 紅林も、紅い側に一枚入れていた。同じことを考えたらしい。

 それから紅林は、投票箱の前で腕を組んだ。万年筆のキャップを唇に当てて、紙が一枚ずつ吸いこまれていく白い側を、黙って見ていた。


「二番勝負、告白の部です!」

 百瀬が、赤い紐の封筒を高く掲げた。

 学食が、身構えた。先週の十二秒を、全員が覚えていた。今週も好きですが書いていなかったらどうするのか。二百人が、白羽さんと百瀬を交互に見た。

 百瀬は、拡声器を口に当てた。

「拝啓! 白羽ことは先輩!」

 名前が、一行目に来た。

「先週は、いちばん大切な一言を、書き忘れました。今週は、書きます。好きです!」

「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」

 九十度。

 学食が、どっと沸いた。出た。今週は、出た。

 百瀬は、まったく止まらずに続けた。

「あなたが入口に立つと、学食は、テーブル一つずつ黙っていきます。その静けさの中で、わたしの声だけが、毎週、大きすぎます。好きです!」

「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」

 二回目の九十度だった。

「二回目」

 誰かが、数えた。

 嫌な予感がした。恋文屋は、先週ゼロ回で十二秒を食らった。負けず嫌いの人間がゼロ回の次に書く数は、たぶん、一ではない。

「大きすぎる声で、何度でも言います。好きです!」

 百瀬が三回目を言い終えるより早く、学食の二百人が、声をそろえた。

「返事は、手紙で! 来週の、金曜に!」

 白羽さんも、言った。二百一人の合唱の真ん中で、白羽さんの声だけが「……」から始まって、「金曜に」の「に」で、ほんの少し下がった。

 三回目の九十度だった。

 学食の天井が、拍手と笑い声で、本当に揺れた気がした。


「……書いたわよ。三回」

 投票箱の前で、紅林が言った。誰に言ったのでもなかった。キャップの先が、唇でとん、と一度だけ鳴った。

 品を捨てると、恋文屋はこうなるらしい。来週の金曜の返事は、三回ぶん約束された。書くのは、たぶん一通で許してもらえる。


  ◇


 七月一日、月曜日の朝。昇降口で、百瀬が拡声器を構えていた。

「週刊玉砕です! 一番勝負、結果発表です!」

 見出しは、大きかった。

 〔一番勝負 白羽先輩の勝ち! 百四票対九十九票〕

 五票差だった。先週の学食で笑いながら紅いほうへ傾いた空気は、一週間かけて、五票ぶんだけ戻ってきた。

 紙面の下のほうに、〔読者投稿 私の振られ体験〕の欄があった。投稿者は〔二年F組 田辺光〕。

 田辺が、自分の受け取った断り文句を、そのまま載せていた。先週の火曜に渡した手紙だ。一行目から、俺の書いた文章だった。最後の段落まで、俺の書いた文章のはずだった。

 署名の、そのあとに、もう一行あった。

 〔追伸〕

 俺は、そんなものを、書いた覚えがない。

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