第19話 拝啓、白羽先輩
白羽ことはが、告白されて、振らなかった。
十二秒間だけ。
六月二十一日、金曜日の昼休み。学食は、二百ある席が埋まったうえに、壁ぎわまで立ち見で埋まっていた。四番勝負の一番。恋文屋の書いた告白を、百瀬が読み上げる日だ。
テーブルのあちこちで、食券が賭けられていた。恋文屋の側にカツ丼の券、白羽さんの側にカレーの券。学食で毎日売られている紙切れが、今日だけは賭け札の顔をしていた。
そこへ、柔道部の顧問の大熊先生が通りかかった。先生は何も言わずに、カツ丼もカレーも、大きな手で一枚残らず没収していった。賭けた全員が、勝負の前に負けた。誰ひとり勝たない賭けというものを、俺ははじめて見た。
真ん中のテーブルには、美術部が作った投票箱が置いてあった。紅と白に塗り分けた段ボール箱で、紅い側に〔恋文屋〕、白い側に〔白羽先輩〕。来週、白羽さんの返事が読まれたあとで、ここに一票ずつ入る。
その横で、紅林が腕を組んでいた。万年筆は胸ポケットに差したままで、キャップを唇に当ててもいない。書き終えた人の顔だった。昨日、貸し切りの扉の向こうで紙を七回丸めた人とは思えない落ち着きだ。七回丸めた人だから、落ち着いているのかもしれない。
俺は、券売機の横の柱の陰にいた。五月から毎週の指定席だ。ここから毎週、俺の書いた手紙が百瀬に渡るのを見てきた。今日からは、恋文屋の書いた手紙が白羽さんに渡るのも、ここから見ることになる。見たくない、とは言わない。見たい、とも言いたくない。
白羽さんが入口に現れると、学食はテーブル一つずつ黙っていった。五月から金曜ごとに見てきた光景だ。二百人が、白羽さんの歩く速さで、順番に静かになっていく。何度見ても、壮観だった。
百瀬は、真ん中のテーブルの前で気をつけをしていた。
「百瀬うらら、受け取りに参りました!」
白羽さんが、八十四回目の封筒を差し出す。九十度。百瀬は声に出さずに読み、折り目どおりに畳み、クリアファイルにしまって、拡声器を構えた。
「振られ心地、星五つ!」
カチッ。〔84〕。
いつもなら、ここからが百瀬の番だった。俺が手紙に書いた一行を拡声器で読み上げて、それを踏み台に、次の「好きです」へ跳ぶ。五月十七日から、五回、毎週そうしてきた。
今日は、跳ばなかった。
百瀬は、クリアファイルとは別の白い封筒を出した。角から、赤い紐の端が一本のぞいていた。
「今日からの告白は、恋文屋さん製です!」
学食が、どっと沸いた。
俺の一行は、今週、踏み台にされなかった。されなくても誰も困らない一行のはずなのに、足元が少しだけ、さびしかった。
百瀬は、封筒から便箋を出した。拡声器を口に当て、すうっと息を吸った。
そして、一度もつかえずに、読みきった。
拝啓
一年でいちばん昼の長い日に、この手紙をお届けいたします。
夏は夜、と清少納言は書きました。けれど、わたしの夏は、昼にあります。金曜日の、学食の、正午に。
先輩が入口に立つと、二百人のざわめきが、潮の引くように静まっていきます。腰まで流れる黒髪と、一本の筆のような背筋。わたしは毎週、その静けさの、いちばん前の席にいます。
六度、お断りの手紙をいただきました。それでも、金曜日の昼は、わたしにとって一週間でいちばん長い昼です。わたしには、夏至が毎週来るのです。
どうか、この長い昼を、まだ暮れさせないでください。
心より、お慕い申し上げております。
敬具
六月二十一日
百瀬うらら
白羽ことは様
選手宣誓の声だった。
拝啓から白羽ことは様まで、百瀬は一字も間違えず、一度も息つぎを間違えず、学食の天井に向かって、恋文屋の恋文を叩きつけた。千年前の清少納言まで、拡声器で学食の端まで届けられた。
ふざけた読み方では、なかった。恋文屋が置いた読点の一つ一つで、百瀬はきっちり息をついでいた。たぶん昨日、何十回も練習した。手紙を渡されたら、本気で読む。百瀬は、そういう人だ。五月に最初の断り文句を受け取ったとき、学食の真ん中で三十秒黙って読んでいた人だ。
学食は、静まり返っていた。
さっきまでカツ丼を賭けていた男子が、口を半開きにしていた。購買帰りの三年生が、パンの袋を胸に抱えたまま固まっていた。どこかで、誰かが洟をすすった。「夏至が毎週来る」のところだと思う。俺も、そこで少しやられた。
うまかった。腹が立つほど、うまかった。金曜の昼を一年でいちばん長い昼に言い換えて、それを毎週にした。〔六度〕という数も、手紙を書いた昨日の時点ではまだ五度だったはずだ。今日の八十四回目を、恋文屋は書く前から数に入れていた。抜け目がないにもほどがある。
四十秒の朗読で、恋文屋は、学食をまるごと一つ落とした。
拍手が来る、と思った。
その前に、来るはずのものがあった。白羽さんの「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」だ。名前と好きですが並べば、どんな告白にも、毎週かならず返ってくる一文。
来なかった。
白羽さんは、読み終えた百瀬の前で、背筋を伸ばして立っていた。立っているだけだった。口は、閉じたままだった。
一秒。二秒。三秒。
まずい、と俺は思った。
あの一文は、名前と「好きです」がそろわないと出てこない。六月の藤棚で、桂木が頭を下げたまま「好きです」を言うまでの十五秒、白羽さんは一言も出せずに固まっていた。
恋文屋の手紙には、名前は最後の行にあった。「好きです」は、どこにもなかった。心より、お慕い申し上げております。品のいい言葉だった。品がよすぎて、引き金に指がかからなかった。
五秒。
「……返事、しないぞ」
誰かが言った。
「え、なんで」
「まさか」
「OK?」
「恋文屋の、勝ち?」
ざわめきが、学食の端から真ん中へ、波のように寄せてきた。
七秒。
紅林の腕が、ほどけていた。万年筆のキャップが、唇の手前で止まっていた。勝った人の顔ではなかった。信じられないものを見ている人の顔だった。百四十四件の恋文を請け負ってきた人でも、白羽ことはが振らないところは、見たことがないらしい。
九秒。
柱の陰で、俺は息ができなかった。まだ暮れさせないで、と書いた恋文の前で、白羽さんが本当に、暮れさせないまま固まっている。断り文句の代筆屋としては、営業停止の危機だった。代筆屋としてではない理由でも、息ができなかった。そっちのほうは、考えないことにした。
十秒。
白羽さんの右手の人差し指が、スカートの横で、何かを書きかけて止まった。顔は少しも動かない。指だけが、はっきり困っていた。
十一秒。
百瀬が、首をかしげた。
便箋と、白羽さんの顔を、二回ずつ見比べた。それから、何かに思い当たった顔をして、拡声器を構え直した。
「白羽先輩!」
学食じゅうが、百瀬を見た。
「好きです!」
十二秒。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
出た。
九十度だった。いつもの間で、いつもの高さで、「金曜に」の「に」で、声がほんの少し下がった。
学食が、爆発した。
笑い声と、拍手と、「なんだよ!」と、「よかったー!」が、全部いっぺんに天井にぶつかった。食券を没収された男子が、テーブルを叩いて笑っていた。購買帰りの三年生が、パンの袋を振り回していた。
「あ、出た!」
百瀬が、拡声器で言った。
「恋文屋さん! 『好きです』って、書いてなかったです!」
学食が、もう一度ひっくり返った。
紅林は、目を閉じていた。
「……書かなかったのは、品よ」
小さな声だった。誰に言ったのでもなかった。キャップの先が唇に戻って、とん、と一度鳴った。それから、もう一度、とん。二度鳴るのを、俺ははじめて聞いた。
「はい! 来週も、受け取りに来ます!」
百瀬は敬礼して、いつもの速さで撤収した。
白羽さんの一文を引き出したのは、二百人を黙らせた四十秒の恋文ではなかった。最後に拡声器で足された、百瀬の二言だった。
投票は、来週だ。白羽さんの返事が読まれたあとで、紅白の箱に一票ずつ入る。それでも、今日の学食の空気は、もう半分くらい、紅いほうへ傾いていた。笑いながら傾いているのが、いちばん厄介だった。
◇
放課後の文芸部室で、白羽さんは、長机の向かいに座るなり言った。
「……出ません、でした」
何が、とは聞かなかった。聞かなくても分かった。
「恋文屋の手紙に、好きです、がなかったから」
白羽さんは、うなずいた。
「……百瀬さんの、好きです、で」
一語ずつ、置いた。
「……出ました」
白羽さんの肩が、少しだけ下がった。四月に図書室で、俺が引き受けると言ったときと、同じ下がり方だった。顔は動かないのに、肩はいつも正直だ。十二秒、いちばん困っていたのは、たぶんこの人だった。
恋文屋の便箋が、長机の真ん中に置かれた。白羽さんが受け取った手紙だ。返事を書くのが誰なのかは、もう二人とも口にしない。
俺は、もう一度読んだ。
うまい。読み直しても、うまい。夏至で入って、清少納言を一行で裏返して、最後に夏至を毎週にする。季節の比喩が、最初から最後まで一つの季節の中から出ていない。俺の赤ペンは、胸ポケットから出てこなかった。出てきても、することがない。
それでも、読み終えると、一つだけはっきり分かった。
この手紙には、百瀬がいない。
感嘆符が、一つもない。〔腰まで流れる黒髪〕とあるが、百瀬は白羽さんの髪のことを、一度も言ったことがない。五月の学食で最初に告白したときの理由は「パン一個に九十度」で、火曜日に恋文屋の店で挙げたのは、九十度と、まっすぐな背中と、静かになる学食と、お返事の字だった。
それに、百瀬は、八十四回、好きですと言って振られてきた人だ。その人の恋文に、好きです、が一つもなかった。
返事の書き出しを、頭の中で探した。
三秒で、一行浮かんだ。夏至には、冬至で返す。いちばん昼の長い日の手紙に、いちばん夜の長い日の言葉で答える。恋文屋の盤の上で、恋文屋より一手先を指す。
浮かんだ瞬間、指先がうずいた。
それから、浮かんだ自分に呆れた。先週の水曜の夜、恋文屋に負けたくなくて比喩を一つ多く重ね、翌日、白羽さんに「声が、しません」と言われて全部に斜線を引いた。あれから十日もたっていない。同じ穴の縁に、また立っている。学習しろ、俺。
この返事を読むのは、恋文屋ではない。来週の金曜、学食で拡声器を構えるのは、百瀬だ。票を入れるのは二百人でも、受け取るのは一人だ。
だから、恋文屋の手紙には返事を書かない。百瀬に書く。
今日の学食で、百瀬の言葉は二つしかなかった。白羽先輩。好きです。
返事は、その二言に書く。
気がつくと、口から出ていた。
「百瀬の手紙は、百瀬が書いたほうがいいのにな」
言ってから、しまったと思った。他人の告白の書き手に、口を出す筋合いはない。百瀬が誰に頼もうと、百瀬の自由だ。火曜日、恋文屋の店の前の椅子で、自分でもそう思ったはずだった。
白羽さんは、俺を見ていた。
右手の人差し指が、胸の前で、すっと上がった。一画目を、空に置きかけた。
そこで、止まった。
指はしばらく空中にあって、それから、何も書かずに膝の上へ下りた。
何を書こうとしたのかは、分からなかった。四月から読み続けてきた指でも、書かれなかった字は読めない。当たり前のことが、今日は少しだけ、悔しかった。
◇
月曜日の放課後。柳先生に頼まれて、俺は図書室のカウンターに座っていた。
カウンターの上に、文庫本が一冊、すっと置かれた。
背表紙の日に焼けた、ロスタンの戯曲だった。外国文学の棚の、二段目の。
「これ、借りたいんだけど」
顔を上げると、赤い髪留めが、目の前にあった。
シラノの郵便受けが、恋文屋に貸し出されようとしていた。冗談じゃない。




