第18話 誰もいない窓
恋文屋は、依頼人の声に化ける。
その恋文屋が、百瀬うららの声にだけは、化けないと言った。
六月十八日、火曜日の放課後。二年の廊下のいちばん奥にある恋文屋の店の前で、俺はまだ、待合の椅子に座っていた。次の客として。今日、二度目の次だった。
引き戸は開いたままで、中では紅林と百瀬が、机をはさんで向かい合っていた。百瀬の毎週金曜の告白を、恋文屋が四通書く。四番勝負の商談の、途中だった。
三十分ほど前、同じ机で、恋文屋はチューバの男子に完璧に化けた。なんていうか、の間まで。今度は、勝負だから化けない、と言った。
俺は、その理由に、覚えがある気がした。先週の水曜の夜、恋文屋に負けたくなくて、比喩を一つ多く重ねた下書きを書いた。次の日、白羽さんに「……声が、しません」と言われて、全部に斜線を引いた。
あの夜の俺と、同じ理由に聞こえた。
聞こえただけだった。恋文屋は、俺ではない。
「おまかせします!」
百瀬は、まったく気にしていなかった。
「自分で考えると、どうしても、返事っぽくなっちゃうんですよ! 告白なのに!」
「返事?」
「はい! だから、プロにお願いしたいんです!」
紅林は、返事っぽい、の意味を、それ以上は聞かなかった。手帳に、何も書かなかった。
俺は、聞いていた。
五月十七日から毎週、百瀬の告白は、前の週の手紙の一行から始まった。好きと言う前に、ちゃんと見る人。見たことを、そのまま書ける人。あなたの記事は、いつも、最後の一行が明るい。あなたの拡声器は、遠くの人にも、ちゃんと届く。ささやき声も、ちゃんと届きました。
五つとも、俺が書いた一行だった。毎週金曜、柱の陰で、それが百瀬の声になって返ってくるのを聞いていた。
返事っぽい、というのは、たぶん、そのことだった。
来週からは、それがなくなる。百瀬の告白を誰が書こうと、百瀬の自由だ。そう思ったのに、ノートに書こうとした一行が、書けなかった。
「お代は」
「はい!」
百瀬は、鞄から財布を出し、食券の束を抜き出した。トランプのように、机の上に扇形に広げた。
十二枚あった。四通ぶんだ。全部、同じ券らしかった。
紅林が、一枚を指でつまみ上げて、読んだ。
「……ライス、小」
「食券三枚、って書いてありました! 種類は、書いてなかったです!」
百瀬は、胸を張った。
「裏取りは、基本です!」
紅林の片方の眉が、上がった。それから、口の端が、少しだけ上がった。
言い返されると、この人は楽しそうになるらしかった。
「……いいわ。受け取る」
紅林は、十二枚をきっちり揃えて、手帳に挟んだ。
「書いておくべきだったわね。定食、って」
「見出しは、もう決めてあります!」
百瀬は、拳を握った。
「『恋文屋 vs 白羽ことは・四番勝負』!」
「……白羽ことは、じゃないわ」
紅林は言った。
「私が戦うのは」
そこで、止まった。
キャップの先が、唇の前で止まっていた。
廊下の椅子の上で、俺の背中が、背もたれから離れた。
「……え?」
百瀬が、一拍、黙った。
手紙を読むとき以外に百瀬が黙るのを、俺は、はじめて見た。何を考えた一拍なのかは、分からなかった。
「……なんでもないわ。その見出しでいい」
「じゃあ、決まりです!」
百瀬の声は、もう元の大きさに戻っていた。
「白羽先輩の許可は、明日、いただきに行きます!」
百瀬は立ち上がり、敬礼した。
「百瀬うらら、撤収します!」
来たときと同じ速さで、廊下を走っていった。俺の前を通るときも、速さは変わらなかった。
百瀬が帰った。次は、俺の番だった。
紅林は、しばらく、机の上の手帳を見ていた。
それから廊下に出てきて、引き戸の札を裏返した。〔恋文屋 営業中〕の裏は、〔準備中〕だった。下校の放送は、まだ鳴っていなかった。
紅林は、俺を見た。
「悪いけど、今日はおしまい。明日でもいい?」
「……あ、うん」
口から出たのは、それだけだった。
「名前は、いいわ。控えは残さない主義なの。明日、また来て」
紅林は空き教室の中に戻り、引き戸を、今度は全部閉めた。
〔16:44 恋文屋、閉店。偵察員、明日の予約が入る〕
俺は、椅子から立った。
偵察に来て、敵の店の予約を取って帰ることになった。
◇
百瀬は、翌日の昼休みに来た。
六月十九日、水曜日。二年B組の後ろの扉が開いて、拡声器の先が、本人より先に入ってきた。
「失礼します! 一年A組、新聞部、百瀬うららです!」
後ろの扉にいちばん近いのは、俺の席だ。百瀬は、俺の机の横を通りすぎた。通りすぎるとき、目が一瞬だけ、俺の弁当に落ちた。顔は見なかった。百瀬は、人の手元しか見ない。
月曜は恋文屋、水曜は玉砕姫。二年B組の昼休みは、今週、来客が多かった。
白羽さんは、藤棚から戻って、弁当のふたを開けたところだった。
「白羽先輩! お願いがあります!」
教室の四十人が、箸を止めた。
「恋文屋さんに、あたしの告白を書いてもらうことになりました! 毎週金曜、学食で、あたしが読み上げます! 次の週に、白羽先輩のお返事も、あたしが読み上げて、その場で投票です! 四番勝負です!」
教室が、ざわついた。
「お返事を読み上げる許可を、ください!」
白羽さんは、百瀬を見上げていた。箸を持ったまま、動かなかった。
五月にも、同じことがあった。号外に全文を載せていいか、と聞かれて、白羽さんは一人で、どうぞ、と答えた。断れば、理由を聞かれるからだ。
白羽さんの目が、一度だけ、教室の後ろを見た。
俺の席だった。
四十人のうち、それに気づいたのは、俺だけだった。
白羽さんは、箸を置いた。
「……放課後、まで」
一語ずつ、置いた。
「……待って、ください」
「待ちます!」
百瀬は、即答した。
「締め切りは、明日の朝です! 号外なんで!」
敬礼して、百瀬は撤収した。帰りも、俺の弁当だけを見ていった。
放課後、文芸部室の扉が、二回ノックされた。
白羽さんは長机の向かいに座り、鞄を開けかけて、やめた。両手を、膝の上に置いた。
「……相談、します」
先に、それを言った。
五月二十日、号外が貼られた日の放課後、白羽さんは、この部屋で九十度で頭を下げた。「……相談、しないで」と言って、許可を一人で出したことを謝った。今日は、許可を出す前に来た。
「百瀬の件だよね」
白羽さんは、うなずいた。
「……読まれ、ます」
「うん」
「……学食で。……二百人に」
「うん」
白羽さんは、少し黙った。目が一度、右上を見た。考えるときの目だった。
「……痒く、なりますか」
俺は、すぐには答えられなかった。
五月の号外の日、自分の文章が読まれると首の後ろが痒くなる、と、この部屋で一度だけ話した。白羽さんは、それを覚えていた。
この人が相談に来たのは、自分の名前の手紙のことでも、百瀬のことでもなかった。俺の首の後ろのことだった。
「なる」
俺は言った。
「たぶん、測れない」
号外が昇降口に貼られた朝、痒さは目盛りをこえた。今度は、二百人の前で、百瀬の声で、毎週読まれる。目盛りを作り直さなければならない。
「でも、いいよ」
白羽さんが、俺を見た。
「手紙は、渡した時点で、百瀬のものだ。百瀬が読みたいなら、読んでいい。五月にも、そう言った」
白羽さんは、うなずいた。
「それに、断ったら、恋文屋が理由を探す」
昨日の空き教室の「私が戦うのは」を、俺は思い出していた。あの続きは、たぶん、白羽ことはの断り文句を書いている者、だった。断れば、あの人は、断った理由の中に、その者を探しに来る。
「それに」
言いかけて、止まった。
それに、の先にあったのは、理由ではなかった。勝負と聞いて、首の後ろではなく、指先のほうが、少しうずいた。それだけだった。
先週、比喩を一つ多く重ねて、自分で斜線を引いた指だった。
白羽さんの人差し指が、空中で動いた。
〈そ・れ・に〉
俺が言いかけた三文字を、そのまま書いていた。続きを、という意味だった。
「……なんでもない」
白羽さんは、少しのあいだ、俺を見ていた。それから、追いかけてこなかった。
白羽さんは、鞄から和紙を一枚出した。筆ペンのキャップを外し、背筋を伸ばして、書いた。
〔どうぞ〕
三文字だった。五月に百瀬に答えたのと、同じ三文字だった。
違うのは、書く前に、この部屋に来たことだけだった。
白羽さんは、〔どうぞ〕を四つに畳んで、鞄にしまった。
それから、鞄の内ポケットから、和紙の封筒を一つ出した。中から、昨日の写真が出てきた。透明な袋に入ったまま、折れないように、厚紙が一枚添えてあった。
白羽さんは、それを長机の上に置いた。
「……田辺くん、の」
俺は、はじめて写真の中身を見た。
窓だった。
中庭から、特別棟の三階を見上げて撮った写真だった。画面のまん中に、窓が一枚ある。ガラスに、薄く空が映っている。その向こうに、閲覧席の机の端と、椅子が一脚見えた。
椅子は、机から少しだけ引かれていた。誰かが、たった今、立ち上がったあとのように。
誰も、写っていなかった。
図書室の、窓際の席だった。四月の四日間、白羽さんが閉館まで座っていた席だ。昨日、藤棚の下で白羽さんが見上げていたのは、この窓だった。
「……裏、です」
白羽さんが、写真を裏返した。
袋の上から、細いペンの字が読めた。止めが小さく、几帳面な字だった。
〔4/15 16:56〕
四月十五日。午後四時五十六分。
俺は、その数字を、二回読んだ。
あの日の四時五十五分、十五回目の「静かに」が、閉館五分前の合図になった。男子たちが腰を上げ、気づくと、窓際の白羽さんの姿は消えていた。俺は外国文学の棚へ行き、シラノの本を引き抜いた。
その一分後に、この窓は、空いていた。
席にいた人は、外国文学の棚と郷土資料の棚のあいだで、俺が封筒を開けるのを見ていた。
人は、勝手に撮らない。だから、窓だけ。
田辺は、窓際の人がいなくなるのを待って、シャッターを押したのだと思う。人がいなくなった一分後の窓なら、撮っていい。それが、写真部の田辺の決まりらしかった。
写真には、誰も写っていなかった。
写っていない二人のことを、田辺は知らない。
白羽さんの指が、写真の裏の数字に触れた。袋の上から、4と、15と、16と、56を、一つずつなぞった。四月に権田先輩の封筒の宛名を、五月に週刊玉砕の一行を、なぞったときと同じ指だった。
白羽さんは、何も言わなかった。俺も、言わなかった。
四時五十六分に自分がどこにいたのかは、二人とも知っていた。
しばらくして、白羽さんが、写真を表に戻した。
「……金曜、田辺くん、いません」
「うん。三階まで聞こえてた」
俺は、ノートを開いた。
「来週の金曜まで、っていう約束だから、早く渡すぶんには、嘘にならない。火曜に渡そう」
白羽さんは、うなずいた。
「調査は、明日から。写真部を見てくる」
白羽さんの人差し指が、空中で〈へ〉と書きかけた。
「変装は、なしで」
指が、止まった。〈へ〉の形のまま、しばらく空中にあった。
それから、ゆっくり、膝の上に下りた。
◇
六月二十日、木曜日の朝。昇降口の掲示板に、号外が貼られた。
百瀬は、その前で拡声器を構えていた。
「号外です! 週刊玉砕、号外です! おはようございます!」
白羽さんの〔どうぞ〕は、水曜のうちに、新聞部の部室の扉に差しこまれていたらしい。
週刊玉砕 号外 玉砕カウンター83
◆恋文屋 vs 白羽ことは・四番勝負、開幕!
編集長の毎週金曜の告白を、恋文屋さんが書きます! 白羽先輩のお返事と、どっちがすごいか、読者のみなさんに決めていただきます!
◆ルール
一、金曜の昼、学食で、編集長が恋文屋さん作の告白を読み上げて、白羽先輩に渡します!
二、次の週の金曜の昼、同じ場所で、白羽先輩のお返事をいただき、編集長が読み上げます!(白羽先輩の許可、いただきました!)
三、その場で、読者投票! 投票箱は、美術部さんが制作中です!
四、結果は、月曜の週刊玉砕で発表します!
◆日程
六月二十一日(金) 一番勝負の告白(その前に、先週の告白のお返事を受け取ります! 八十四回目!)
六月二十八日(金) 一番勝負のお返事と投票、二番勝負の告白
七月五日(金) 二番勝負のお返事と投票、三番勝負の告白
七月十二日(金) 三番勝負のお返事と投票、四番勝負の告白
七月十九日(金・終業式) 四番勝負のお返事と投票
◆両者のコメント
恋文屋・紅林栞さん 「とにかく、落とす」
白羽ことは先輩 (九十度のお辞儀)
◆編集長より
依頼料、食券十二枚、お支払い済みです!(ライス小)
◆振られ予報
明日の編集長 玉砕確率百パーセント。ただし、告白は恋文屋さん製。
人垣は、五月の号外の朝と同じく、三重だった。最前列は、あの朝と同じく、取りやすかった。
「恋文屋に、定食一枚」
「白羽さんに、二枚」
人垣の中で、食券が、賭けの単位になりかけていた。
「ライス小って何」
「恋文屋、ライス小で書くのかよ」
「それはそれで、すごくない?」
俺は、ルールの二つ目を、もう一度読んだ。白羽先輩のお返事をいただき、編集長が読み上げます。
来週の金曜から、俺の書いた断り文句は、学食の二百人の前で、百瀬の声で読まれる。四回。
首の後ろが、先に痒くなった。まだ一行も書いていないのに。
昼休み、文芸部室へ行く前に、遠回りしてD組の前を通った。
恋文屋の掲示板の、成功率の札の下に、厚紙の札が一枚増えていた。
〔※食券は、定食に限ります〕
火曜日の放課後に前を通ったときには、なかった札だった。日付は書いていなかった。ライス小、とも書いていなかった。
◇
放課後、俺は、二年の廊下のいちばん奥へ行った。
空き教室の引き戸に、札が下がっていた。
〔本日、貸し切り〕
待合の椅子は、二脚とも空いていた。俺は、扉に近いほうに座った。
水曜の予約は、すっぽかしていた。放課後、文芸部室に白羽さんが来たからだ。予約をすっぽかした客が、貸し切りの店の前に座っている。今日は、客のふりをする必要もなかった。貸し切りの店に、客は来ない。
引き戸は、閉まっていた。
中から、万年筆の音がした。走って、止まって、また走って、また止まった。火曜日には、七分間、一度も止まらなかった音だった。
紙を丸める音がした。
一回。しばらくして、二回目。
俺は、数えた。どうでもいいことを数えずにいられないのは、俺の悪い癖だ。
七回目の音のあと、中が、しばらく静かになった。
それから、声がした。
紅林が、自分の書いたものを、声に出して読もうとしていた。書いたものは、声に出して確かめる。俺と同じやり方だった。
聞こえたのは、最初の一語だけだった。
「拝啓」
そこで、止まった。
「……拝啓」
もう一度。今度は、少し低く。
「……拝啓」
三回目は、ほとんど聞こえなかった。
続きは、読まれなかった。万年筆の音が、また走り始めた。今度は、止まらなかった。
俺は、椅子の上で、ノートを閉じた。
百瀬うららは、好きです、と言うとき、拡声器を使う。先週は拡声器を足元に置いて、地声で、学食の天井を鳴らした。
明日の昼、その声が学食で読む告白は、拝啓で始まるらしかった。




