第17話 恋文屋の営業時間
九十九番の告白には、写真が一枚ついていた。
写っていたのは、誰もいない窓だった。
六月十八日、火曜日の昼休み。俺は文芸部室の窓から、中庭の藤棚を見下ろしていた。
昨日、俺の机の上で書かれた宣戦布告は、今朝には学年じゅうに知れわたっていた。宛先が誰なのかを知っているのは、二人だけだった。宛先の本人と、白羽さんだ。書いた本人は、知らない。
藤棚の下では、今日も整理券の三人が、三十秒ずつ白羽さんに告白していた。
一人目は、十一秒だった。二人目は、自分の名前を噛んで言い直したので、二十七秒かかった。白羽さんの返事は、二回とも、寸分たがわなかった。
「九十九番、二年F組、田辺光さん」
ストップウォッチの役員が読み上げた。
三人目の男子が、藤棚の下に進み出た。ひょろりと背が高く、首から黒い大きなカメラを下げていた。レンズの先には、キャップがはまったままだった。
田辺は、白羽さんの正面で止まった。
「白羽さん。好きです」
名前と、好きです。最初の二秒で、そろった。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
白羽さんの九十度が、今日いちばん早く出た。
田辺の告白は、それでは終わらなかった。
胸ポケットから、透明な袋に入った写真を一枚出した。白羽さんが顔を上げるのを待って、両手で差し出した。
「これ。……四月に、撮りました」
白羽さんは、受け取った。
「人は、勝手に撮らないことにしてるので」
田辺は、首のカメラのキャップに、指で触れた。
「……窓だけです」
白羽さんは、写真を見下ろしていた。
三階からでは、写真の中身までは見えなかった。白い縁の中に、もう一つ、四角いものが写っているのが分かっただけだった。
「二十秒です」
白羽さんは、まだ写真を見ていた。
それから、顔を上げた。
田辺の顔ではなかった。三階を見ていた。
俺のいる窓を、ではなかった。一つ隣の、図書室の窓だった。
「三十秒です」
田辺は、深く頭を下げた。向きを変えて、二歩歩いてから、振り返った。
「あ。来週の金曜、写真展の搬入で、学校にいないです」
「三十秒を、過ぎています」
「すみません」
田辺は、今度こそ帰っていった。
藤棚の下に、白羽さんが一人で残った。
来週の、金曜に。練習した一文には、日付まで入っている。その日に相手がいないときの続きは、入っていない。
白羽さんの右手の人差し指が、スカートの横で、何かを書きかけて、止まった。それから写真を両手で持ち直し、もう一度だけ、図書室の窓を見上げた。
何を見ているのかは、分からなかった。分からないまま、白羽さんは教室のほうへ戻っていった。
俺は、ノートに書いた。
〔九十九番 田辺光 写真部 来週の金曜、不在〕
その下に、もう一行。
〔放課後 恋文屋〕
宣戦布告を受けたからには、相手の仕事を見ておきたかった。恋文屋は、放課後、空き教室で営業しているという。営業しているなら、客のふりをして、廊下で順番を待っていればいい。
偵察というものを、俺は生まれてはじめてすることにした。
◇
恋文屋の店は、二年の廊下のいちばん奥にあった。
D組の前の掲示板を過ぎて、教室を二つ越えたところに、少人数授業のための小さな空き教室がある。その引き戸に、厚紙の札が一枚、紐で下がっていた。
〔恋文屋 営業中〕
その下に、もう一枚。
〔営業時間 放課後から、下校の放送まで〕
〔料金 一通につき、学食の食券三枚〕
〔ご相談は、お一人ずつ〕
〔下書きの控えは、残しません〕
どれも、あの万年筆の細い字だった。扉の横には折りたたみの椅子が二脚並んでいて、背もたれに〔お待ちの方は、こちらへ〕と貼ってあった。
店だった。看板と、営業時間と、料金表と、待合の椅子がある。シラノには、日に焼けた文庫本が一冊あるだけだ。
俺は、扉に近いほうの椅子に座った。
客のふりをするなら、ここがいちばん自然だった。黒いノートを開いて、膝にのせた。
〔15:38 到着。椅子が二脚。扉は閉まっている〕
三分後、廊下の向こうから、男子が一人歩いてきた。
上履きのゴムが、俺と同じ色だった。二年生だ。右手に、銀色の小さなものを握っていた。金管楽器のマウスピースだった。指が、それをずっと回していた。
彼は、もう一つの椅子に座りかけて、俺に気づいた。
「……あ、先、ですか」
先だった。俺のほうが、三分早い。
先なら、先に呼ばれる。呼ばれたら、扉の向こうで、恋文屋と向かい合うことになる。
俺は、手のひらを上にして、扉のほうへ差し出した。お先にどうぞ。
扉が開いた。
紅林が、顔を出した。
「次の方」
男子が、俺を見た。俺は、もう一度、手のひらを差し出した。
紅林は、俺と男子を、一度ずつ見た。目が、俺の顔の上で、きちんと一秒止まった。
「譲るのね。じゃあ、あなたが先。そっちのあなたは、次」
次になった。
紅林は、昨日、俺の机に手帳を置いた人だ。机は覚えていても、机に座っていた人は、覚えていなかった。
昨日は、机だった。今日は、客になった。出世はした。宛先だとは、まだ気づかれていない。
「暑いから、開けておくわね」
紅林は、男子を中に入れると、引き戸を半分開けたままにした。空き教室の窓は全部開いていたが、六月の午後の風は、廊下までは届いていなかった。
椅子から、中の机が斜めに見えた。声は、そのまま聞こえた。
盗み聞きだった。
立ち去るなら、今だった。でも、順番の直前に黙って消える客は、いちばん目立つ。
俺は、次の客を続けることにした。
紅林は、机をはさんで依頼人と向かい合った。革の手帳を開き、万年筆のキャップを、唇に当てた。
「相手の名前は、言わなくていいわ」
最初の一言が、それだった。
「書くときに、あなたが自分で書くの。私が知る必要はない」
依頼人の肩が少し下がったのが、廊下から見えた。
「その人の前で、最後に、何を言った?」
「……え」
「最後よ。いちばん最近、その人に向かって言った言葉」
依頼人は、マウスピースを回した。
「……なんていうか。……『チューニング、Bフラットで』」
「吹奏楽部ね。楽器は」
「……チューバ」
「その人に、最後に、何を言われた?」
「……合奏のあとで。……『低い音、好き』って」
「いつ」
「……先週の、木曜」
「そのとき、あなたは何をしていた?」
「……チューバ、拭いてた。なんていうか、拭くところ、もうなかったけど」
紅林の万年筆が、手帳の上を走った。
好きになったきっかけも、相手のどこが好きかも、紅林は聞かなかった。聞いたのは、最後に言った言葉と、最後に言われた言葉と、そのとき手が何をしていたか、だった。
俺なら、どこが好きか、から聞く。たぶん、それでは、今の答えは出てこない。
紅林は、キャップの先を唇に当てたまま、少し黙った。
「恋は、和音ね」
依頼人が、顔を上げた。
「低い音の上に、高い音が重なって、……いえ、二つじゃ和音にならないわ。三つ要る。三つ目は誰よ」
紅林は、自分の比喩の中に、知らない三人目を作ってしまったらしかった。依頼人が、不安そうに廊下の俺を見た。俺は、三人目ではない。言えば客でなくなるので、言わなかった。
「……とにかく」
キャップの先が、とん、と一度鳴った。
「書くわ。七分ちょうだい」
〔15:58 恋文屋、書き始める〕
ペン先の音が、廊下まで聞こえた。止まらなかった。消す音も、紙を丸める音も、一度もしなかった。
〔16:05 書き終える。二重線、なし〕
昨日、廊下の掲示板に貼り出された宣戦布告には、二重線が一か所あった。自分の宣戦布告には線を引いた人が、他人の恋文には、線を一本も引かなかった。
紅林は、手帳から三枚を破り取った。
「読むわね」
声が、変わった。
さっきまでの速さが、消えていた。一語ずつ、ゆっくり、少し低く。なんていうか、と言いかけて、自分で待つような間のある声だった。
依頼人の声だった。
合奏のあとで、低い音、好き、と言ってくれましたね。
僕はそのとき、チューバを拭いていました。拭くところは、もうなかったんですけど。
なんていうか、低い音は、遠くまで届くそうです。高い音より、ゆっくり、遠くまで。
僕の好きも、たぶん、そういう音です。
頭の中で、赤ペンのキャップが外れかけて、止まった。
直すところを探す前に、分かってしまった。これは、隣の椅子に座っていた男子の文だった。マウスピースを回しながら、なんていうか、と言っていた男子が、いちばんうまく言えた日に書いたら、こうなる。
比喩は、一つだけだった。低い音。それも、相手が言った言葉から作ってあった。
化けていた。
「……俺が、書いたみたいだ」
依頼人は、三枚を持ったまま言った。それから、小さく付け足した。
「……俺より、うまいけど」
「それでいいの」
紅林は、万年筆にキャップをはめた。
「あなたが、いちばんうまく言えた日のあなたよ。私が書くのは、それ」
俺は、ノートの上で、ペンを止めた。
桂木の恋文を思い出した。桂馬の高跳び。盤の隅の駒。あれは、桂木より、ずっとうまい桂木だった。駒を置くように二行で頼みごとを書く人が、十行かけて、高く跳んでいた。
本人より、少しだけうまい本人。
どこまでうまくしていいのか。その線を、恋文屋はどこに引いているのだろう、と思った。
「清書は、あなたの字で」
紅林は言った。
「下手でもいいの。字だけは、私には化けられないから」
俺は、膝の上のノートを、少し強く押さえた。
手紙は、差出人の字で届くべきだ。俺がシラノを始めたときに決めたことだった。同じことを、恋文屋が、同じ理由で言っていた。
「それと、結果は、必ず教えて。成功でも、失敗でも」
「……失敗でも?」
「失敗でもよ。数字にするから」
紅林は、聞き取りのメモを書いたページも、手帳から破り取った。それを、下書きと一緒に依頼人に渡した。
「控えは、残さないの。あなたの恋は、あなたが持って帰って」
依頼人は、食券を三枚、机に置いた。
依頼人は、扉のところで一度振り返って、頭を下げた。それから、俺の前を通りすぎるとき、小さく会釈をした。順番を譲った客への会釈だった。
来たときより、背が少しまっすぐになっていた。
〔16:09 依頼人、退出。来たときより、背が伸びていた〕
昨日の掲示板の成功率の札にも、数字しかなかった。百四十四件のうち、どれが誰の恋だったのかは、一つも貼り出されていない。
恋文屋の店では、名前は、依頼人が持って帰るものらしかった。
紅林が、廊下に顔を出した。俺を見て、言った。
「次の方。五分、待って。一人書いたら、五分あけることにしてるの。前の人の声が、抜けないから」
引き戸の向こうで、紅林は目を閉じ、キャップを唇に当てた。
五分後には、俺の番だった。
相手の名前は、言わなくていい。でも、最後にその人に言った言葉は、聞かれる。
思い出してしまった。俺がいちばん最近、その人に向かって言った言葉は、昨日の文芸部室の「何が」だった。その前は「うまいね」で、恋文屋の宣戦布告を褒めた言葉だった。
どちらを話しても、恋文にはならない。後のほうは、恋文屋本人に話すことになる。
◇
五分たつ前に、廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
走っていた。上履きで、廊下を、全力で。
「恋文屋さーん!」
拡声器は使っていなかった。使っていなくても、廊下の端から端まで届いた。
百瀬うららが、ツインテールの毛先を四方に跳ねさせて、空き教室の前で止まった。待合の椅子には、座らなかった。引き戸を、全部開けた。
「依頼です! お客さんです! 取材じゃないです!」
紅林が、目を開けた。
「八割は!」
百瀬は、息つぎもせずに付け足した。
「残りの二割は」
「取材です!」
正直だった。
紅林は、万年筆のキャップを唇に当てた。片方の眉が上がった。
「取材なら、お断りよ。百五十一回目になるけど」
「だから、依頼です! 二割は、気にしないでください!」
紅林は、少し黙った。
「……いいわ。依頼なら、断らない。恋文屋は、依頼を断らないの」
廊下の椅子の上で、俺は、少しだけ小さくなった。
恋文はお受けしていません。十二文字に三分かけて、俺はそう書いた。
「ただし、順番があるわ」
紅林は、万年筆の先で、廊下の俺を指した。
「あちらが先よ」
百瀬が振り返った。目が、俺の膝の上のノートに落ちた。顔は見なかった。百瀬は、人の手元しか見ない。
「あ! すみません!」
俺は、手のひらを上にして、扉のほうへ差し出した。今日、二度目のお先にどうぞだった。
「……また譲るのね」
紅林の片方の眉が、もう一度上がった。
「いいわ。あなたは、また次」
また次になった。
百瀬は、紅林の向かいの椅子に、勢いよく座った。座った音が、廊下まで聞こえた。引き戸は開いたままだった。閉めても、たぶん、同じだった。
「お相手は」
「白羽先輩です!」
紅林のキャップが、唇の上で止まった。
「毎週金曜の、学食の告白、ご存じですよね! あれを、恋文屋さんに書いてほしいんです!」
「……」
「宣戦布告、読みました! 『毎週金曜、学食にて』! あれ、あたしのことですよね!」
紅林は、ゆっくりキャップを唇から離した。
「……話が早いわね」
認めた。
紅林のほうから、百瀬のところへ行くつもりだったのだと思う。百瀬のほうが、先に来た。新聞部は、足が速い。
「書いてもらった告白を、あたしが学食で読み上げて、白羽先輩に渡します!」
百瀬は、指を折りながら言った。
「で、次の週の金曜に、白羽先輩のお返事をいただいて、それも読み上げます! で、その場で、読者投票! 恋文屋さんの告白と、白羽先輩のお返事、どっちがすごいか!」
来る前から、もう企画になっていた。
「……投票」
「結果は、月曜の週刊玉砕で発表します!」
「それは、取材じゃないの」
「依頼のついでの、取材です! 二割です!」
紅林は、しばらく百瀬を見ていた。
それから、万年筆のキャップを、抜いた。
昨日、俺の机の上で、宣戦布告を書く前にしたのと、同じ手つきだった。
「いいわ。乗った」
「何通?」
「四通です!」
百瀬は、即答した。
「夏休みまで、金曜は、あと五回あります! 六月二十一日、二十八日、七月五日、十二日、十九日! 告白して、次の週にお返事をいただくから、告白は四回です! 最後のお返事が、終業式の日です!」
締め切りを数えるのは、新聞部の仕事らしかった。
「聞き取りをするわ」
紅林は、手帳の新しいページを開いた。
「白羽さんの前で、最後に、何を言った?」
さっき、チューバの男子にしたのと、同じ質問だった。
「『白羽先輩! 好きです! 付き合ってください!』です!」
声が、廊下の窓ガラスを震わせた。先週の金曜、拡声器を足元に置いて、地声で言った告白だった。
紅林は、耳を押さえかけて、こらえた。
「……白羽さんに、最後に、何を言われた?」
「『返事は、手紙で。来週の、金曜に』です!」
毎週、同じだった。
「……そのとき、あなたは何をしていた?」
「敬礼してました!」
紅林の万年筆が、手帳の上で止まった。
三つの質問で、三つとも、何も書けなかったらしい。
「質問を変えるわ」
紅林は、キャップを唇に戻した。
「あなたの好きを、聞かせて。白羽さんの、どこが好き?」
「九十度です!」
百瀬は、身を乗り出した。
「購買のおばちゃんに、パン一個に九十度! 手紙を渡すときも九十度! あと、背中がまっすぐ! 学食に入ってくると、テーブルが一つずつ静かになるのも好きです! お返事の字も好きです! あと」
紅林の万年筆が、追いつかなくなった。
「あと、恋文屋さんの、その赤い万年筆も好きです!」
万年筆が、止まった。
「……今、何て」
「好きです! 赤くて、細くて、かっこいいです! 髪留めも好きです!」
紅林は、黙った。
黙ったまま、キャップを唇に当てようとして、外した。もう一度当てようとして、また外した。
「……好き、というのは」
紅林は言った。
「つまり、城門の、……いえ、門に好きと言われても、門が困るわね。門は、開くか閉まるかしかできないのよ。開けたら落城だし、閉めたら籠城だし。籠城って何よ。私は今、何に籠もってるの」
比喩が、三つ壊れた。
「……とにかく!」
紅林の声が、はじめて、少しだけ大きくなった。
耳が、赤かった。
百四十四件の恋文を請け負った人が、好き、の一語で、比喩を三つ壊した。恋文屋は、自分が好きと言われるのには、慣れていないらしかった。
百瀬は、何が起きたのか分からない顔で、首をかしげていた。百瀬にとっては、いつもの「好き」だった。
紅林は、咳払いを一つして、手帳のページをめくった。
「……あなたの声を、聞かせて。人は、話すように書くわ。普段、どう話すの」
「こうです!」
さっきと、同じ大きさだった。
紅林は、今度は耳を押さえた。
「……あなたの話し方で書いたら、便箋が感嘆符で埋まるわ」
「埋めてください!」
「埋めないわ」
紅林は、手帳を閉じた。
「これは、勝負なの。声は、こちらで用意する」
〔16:31 恋文屋、百瀬の声には化けない〕




