第16話 恋文屋、参上
俺の机の上で、俺あての宣戦布告が書かれた。
書いた本人は、机に俺が座っていることに、最後まで気づかなかった。
◇
六月十七日、月曜日の昼休み。
後ろの扉に立った女子は、いちばん近くにいた俺の上を素通りして、窓側の前から二番目の席を見ていた。
教室の空気が、変わった。
「……恋文屋だ」
「D組の紅林」
「成功率の人」
「九十二パーセントの」
ささやき声が、教室の後ろから前へ、波のように伝わっていった。弁当の箸が、一つずつ止まっていった。
紅林栞。二年D組。
百瀬が学食で「恋文屋さん」と叫んでから十日で、俺は、この人について、誰とも話さずにかなりのことを知っていた。学校じゅうが、この人の話をしていたからだ。
依頼を受けて、告白の手紙を書く。料金は、学食の食券三枚。手紙には、赤い紐の栞を一本入れる。成功率は、廊下の私設の掲示板に、小数点以下二桁まで貼り出す。定期試験では、学年三位から下に落ちたことがない。
本人を見るのは、はじめてだった。
赤みがかった栗色の髪を、肩の下までゆるく巻いている。髪の右側に、赤い髪留めが一つ。胸ポケットに、赤い万年筆。歩くたびに、その万年筆の頭が、小さく揺れた。
紅林は、机と机のあいだを、まっすぐ前へ歩いていった。迷いのない歩き方だった。行き先しか見ていない人の歩き方だった。
白羽さんは、弁当のふたを開けたところだった。
紅林は、白羽さんの机の前で止まった。腕を組み、少しだけ顎を上げた。
「白羽さん。はじめまして。二年D組の、紅林栞よ」
白羽さんは、紅林を見上げた。箸を持ったまま、背筋が一段伸びた。
「単刀直入に聞くわ」
紅林は、片方の眉を上げた。
「あなたの断り文句を書いているのは、誰?」
教室が、しんとした。
四十人の目が、白羽さんに集まった。俺の目も、集まった。
白羽さんの口が、開いた。
「……ごめんなさい」
声の高さが、一語の中で二回変わった。「ごめ」で上がり、「なさい」で下がった。言い終わっても、目を伏せなかった。伏せるのを、忘れていた。
辞典の、どの番号とも違った。謝罪でも、驚きでもない。足元が揺れた人の「ごめんなさい」だった。
動揺、と俺は頭の中で番号を振った。⑧。
辞典の項目が、恋文屋のおかげで、一つ増えた。
「ふうん」
紅林は、白羽さんの顔をじっと見た。それから、胸ポケットの万年筆を抜いた。キャップは外さずに、キャップの先を、自分の唇に当てた。
「金曜の夜にね、桂木くんが、あなたの返事を見せてくれたの。依頼人には、結果を聞くことにしているから」
紅林の声は、速かった。一語一語が、もう次の一語を連れて出てくるような話し方だった。白羽さんとは、まるで反対だった。
「対局、ありがとうございました、から始まる手紙。比喩が、一つもなかった。一つもよ」
万年筆のキャップが、唇の上で、とん、と一度鳴った。
「白羽さん。あなたが一日に教室で話す言葉は、たぶん、全部合わせても百字に届かない。でも、あなたの断り文句は、一通で四百字をこえる。一度も言いよどまない。読点の位置まで、迷いがない」
紅林は、教室を見回した。誰も、反論しなかった。たぶん、全員がうなずきたかった。
「人は、話すように書くわ。話さない言葉を、あんなに流暢には書けない」
白羽さんは、何も言わなかった。言えなかった。
紅林は、少しだけ目を細めた。
「断り文句って、毒消しなのね。恋文の毒を、消すための」
そこで止まった。
「……いえ、毒は言いすぎね。せいぜい、苦い薬。……でも苦い薬って、結局、飲むのよね。飲んで、治るのよね。治してどうするのよ。こっちは、かからせたいのに」
紅林は、自分の比喩の行き先を見失って、一度、黙った。
「……とにかく」
キャップの先が、また、唇に戻った。
「ふうん。……面白いわ」
紅林は、くるりと振り返った。
来た道を、まっすぐ後ろへ戻ってきた。教室の後ろの扉へ。扉のいちばん近くの席は、廊下側のいちばん後ろ、俺の席だ。
紅林は、俺の机の前で、足を止めた。
「書くものが要るわね」
誰に言ったのでもなかった。
紅林は、俺の机の上に、革の手帳を置いた。俺の筆箱を、指一本で、横へよけた。俺の肘の、十センチ隣だった。
それから、万年筆のキャップを、抜いた。
立ったまま、俺の机の上で、手帳に何か書き始めた。ペン先が紙をこする音が、すぐ近くで聞こえた。速かった。
俺は、自分の席に座ったまま、動けなかった。
逆さまでも、最初の四文字は読めた。
〔宣戦布告〕
そこから先は、字が速すぎて、逆さまには追えなかった。
紅林は、書き終えたページを、手帳から一枚、きれいに破り取った。キャップを閉め、万年筆を胸ポケットに戻した。
そして、俺の机を、軽く二回叩いた。
「ありがとう、机」
机に礼を言って、紅林は後ろの扉から出ていった。
教室じゅうが、紅林の背中を見送った。
それから、紅林が手帳を置いた机のほうを見た。
誰も、そこに俺が座っていたことには、触れなかった。
◇
恋文屋の私設掲示板は、二年D組の前の廊下の、消火栓の横にあった。
コルクボードが一枚。学校の掲示板ではない。紅林が自分で買ってきて、自分で壁のフックに掛けたものだという。生徒指導の先生に三回はずされて、三回掛け直された、と噂で聞いた。
放課後、その前に人だかりができていた。
人だかりの最前列は、相変わらず取りやすかった。誰も俺にぶつからない。
ボードのいちばん上には、厚紙の札が一枚、画鋲でとめてあった。紅林の字だった。万年筆で、細く、正確に書いてある。
〔恋文屋 成功率 91.67%〕
その下に、昨日までの札が、斜めに一本線を引かれて残っていた。
〔恋文屋 成功率 92.31%〕
人だかりの中で、誰かが言った。
「下がってる」
「一パーセントも下がってないだろ」
「〇・六四だ」
どうでもいいことを数えずにいられないのは、俺の悪い癖だ。
九十二・三一パーセントになる分数を、頭の中で探した。十三分の十二。二十六分の二十四。いくつもある。でも、そこに失敗を一件だけ足して、九十一・六七パーセントになる分数は、一つしかなかった。
百四十三件のうち、成功が百三十二件。
そこに、失敗が一件足されて、百四十四件のうち、百三十二件。
九十一・六七パーセント。
ぴったりだった。
足された一件が誰の一件なのかは、数えなくても分かった。
その札の下に、便箋が一枚、四隅を画鋲でとめて貼ってあった。
昼休みに、俺の机の上で書かれた紙だった。手帳の破り跡が、端に残っていた。
逆さまで読めなかった続きを、俺は、はじめて正面から読んだ。
〔宣戦布告 白羽ことはの断り文句を書いている者へ〕
〔恋文は、城攻めである。〕
〔あなたの断り文句は、その城の門番である。〕
〔門番ごと、城を落とす。〕
宛名のあとの三行は、きれいだった。きれいすぎるくらい、きれいだった。
そのあとから、崩れていた。
〔ただし、城というのは大げさかもしれない。〕
〔せいぜい、天守閣のない平城である。〕
〔平城とは何か。〕
三行のうち、最後の一行にだけ、万年筆で二重線が引いてあった。消したあとが、消す前よりも目立っていた。
その下に、一行。
〔とにかく、落とす。〕
そして、最後に。
〔勝負の場所は、こちらで用意する。毎週金曜、学食にて。〕
〔恋文屋 紅林栞〕
推敲の跡が、全部、廊下に貼り出されていた。
「恋文屋さーん! 取材させてくださーい!」
人だかりの後ろから、拡声器の声が飛んできた。
百瀬が、デジカメを構えて、人垣のてっぺんから掲示板を撮っていた。背が足りないので、知らない二年生に肩車をしてもらっていた。肩車をしているほうは、迷惑そうな顔をしていなかった。慣れているらしかった。
「特ダネです! 宣戦布告です! 週刊玉砕、来週の一面です!」
D組の教室の扉が開いて、紅林が顔を出した。
「お断りするわ」
紅林は、それだけ言って、扉を閉めた。
「取材のお断り、百五十回目、いただきました!」
百瀬は、なぜか満足そうだった。数取器は、押さなかった。
俺は、宣戦布告の全文を、ノートに書き写した。
俺の字で。
◇
文芸部室で、白羽さんは、俺のノートを見た。
もう一度見た。目が、ページの上を三回往復した。
「……ごめんなさい」
間が違い、声が半音低かった。辞典の⑥、読めないの「ごめんなさい」だった。
俺は、自分で書き写した宣戦布告を、自分で読み上げることにした。
「宣戦布告。恋文は、城攻めである」
読み上げながら、頭の中では、もう赤ペンのキャップが外れていた。他人の文章を読むと、勝手に赤が入る。癖だ。
最初の一文。比喩の宣言として、強い。短くて、言い切っている。
「あなたの断り文句は、その城の門番である。門番ごと、城を落とす」
うまい。断り文句を、恋と相手のあいだに立つものとして、一行で置いている。三行目で、それごと落とすと言い切る。三行で、構図が全部できている。
「ただし、城というのは大げさかもしれない。せいぜい、天守閣のない平城である」
ここで崩れる。自分の比喩に、自分で照れている。照れたせいで、せっかく建てた城が、平屋になっている。
「平城とは何か」
二重線。消したあとのほうが目立つ。でも、俺なら消さない。この一行で、この人が本気で書いていることが分かる。比喩の行き先を、本気で探している。
「とにかく、落とす。勝負の場所は、こちらで用意する。毎週金曜、学食にて」
結びは、乱暴だが、強い。とにかく、の一語で、崩れた比喩を全部まとめて片づけている。
俺は、ノートから顔を上げた。
「うまいね。前半は、ほぼ完璧だ。後半は崩れてるけど、崩れ方に嘘がない」
顔を上げると、白羽さんの人差し指が、俺に向いていた。
空書きではなかった。ただ、まっすぐ、俺を指さしていた。
いつから指さしていたのかは、分からなかった。たぶん、俺が読み始めたあたりからだ。
俺は、ノートのいちばん上に戻った。「宣戦布告」のあとに、俺が読み飛ばしていた宛名があった。
「宣戦布告。白羽ことはの、断り文句を、書いている者へ」
一秒。
白羽ことはの断り文句を、書いている者。
三秒。
白羽さんの断り文句は、白羽さんの名前で出ている。でも、白羽さんは書いていない。書いているのは。
七秒。
白羽さんの指先が、俺の鼻の先にあった。
十秒。
俺だった。
俺は、宣戦布告を受けていた。受けた宣戦布告を、十秒間、添削していた。
宣戦布告を受けたのは、生まれてはじめてだった。受けたものを褒めたのも、たぶん、はじめてだった。
白羽さんが、指を下ろした。
それから、少しだけ、考える顔をした。顔はほとんど動かない。でも、考えているときの白羽さんは、目が一度、右上を見る。
「……門番、では」
白羽さんは言った。
「……ありません」
「何が」
「……断り文句、は」
白羽さんは、俺のノートの、俺が「門番」と読み上げたあたりを見ていた。読めないはずの、俺の字の上を。
「……手紙、です」
白羽さんは、それだけ言って、口を閉じた。
城の前に立って、恋を追い返す番人ではない。断り文句は、手紙だ。受け取った人が、持って帰るものだ。権田先輩は道着の襟に、百瀬はクリアファイルに、桂木はノートの負けた将棋のページに。
恋文屋の比喩に、白羽さんが、はじめて赤を入れた。
俺の赤ペンより、正確だった。
俺は、ノートの最後の行を、もう一度見た。
〔勝負の場所は、こちらで用意する。毎週金曜、学食にて〕
毎週金曜の、学食。
この学校で、毎週金曜に、学食で、白羽さんに何かを手渡したり、手渡されたりしている人間は、一人しかいなかった。
拡声器を持った、声の大きな一年生だ。
恋文屋は、百瀬の毎週の告白に、目をつけた。




