第15話 感想戦
百瀬うららの地声は、拡声器を通したときと、ほとんど同じ大きさだった。
六月十四日、金曜日の昼休み。学食は、今週も満席だった。
金曜の昼に学食へ来ると、百瀬の告白が聞ける。それは、もう一年生から三年生まで、全校が知っている時間割の一部になっていた。定食の列に並ぶ人より、真ん中のテーブルが見える席を取りに来る人のほうが多かった。
俺は、いつもの券売機の横の柱の陰に立った。
白羽さんが、百瀬の前で、八十三回目の手紙を差し出した。九十度。
百瀬は両手で受け取った。声に出さずに読んだ。先週、拡声器のつまみをいちばん小さくして、ささやき声で告白した、その返事だった。
読み終えて、折り目どおりに畳み、クリアファイルに入れた。
拡声器を構えた。
「振られ心地、星五つ!」
カチッ。〔83〕。
「『ささやき声も、ちゃんと届きました』って、書いてくれました!」
今週の手紙の、二段落目に、俺が書いた一行だった。
「よかったー! 届いてたんだ!」
百瀬は、拡声器を口から離した。
足元に置いた。
「じゃあ今日は、拡声器なしで、普通の声で言います!」
学食の二百人が、身を乗り出した。拡声器のない百瀬うららを、ほとんどの人は見たことがなかった。
百瀬は、白羽さんの正面に立ち、すっと息を吸った。
「白羽先輩! 好きです! 付き合ってください!」
学食の天井が、びりっと鳴った。
拡声器のときと、ほとんど変わらなかった。テーブルの湯のみが、いくつか小さく揺れた。
二百人が、そっと元の姿勢に戻った。
「……返事は、手紙で。来週の、金曜に」
「はい! 来週も、受け取りに来ます!」
百瀬は拡声器を拾い、敬礼して、来たときと同じ速さで撤収した。
拡声器は、たぶん、百瀬にとっては、声を大きくする道具ではなかった。声が大きすぎることを、みんなに先に知らせておくための道具だった。
学食を出ていく白羽さんの鞄の中には、もう一通、封筒が入っていた。
桂木への返事だった。
今日の放課後に、渡す。
◇
放課後、俺は特別棟の階段の踊り場にいた。
月曜に、着物の白羽さんが〈な・ぜ〉と書いた、あの踊り場だ。手すりの陰から首を出すと、一階の廊下が、作法室の襖の前まで見通せる。廊下の端では、掃除当番の一年生が三人、ほうきで床を掃いていた。
白羽さんは、作法室の襖の前に立っていた。今日は制服だった。着物ではなく、変装もしていなかった。両手で、白い封筒を胸の前に持っていた。
桂木を呼び出したのは、白羽さんだ。頼み方は、もちろん手紙だった。
襖が開いて、桂木が出てきた。
白羽さんの前で、立ち止まった。
白羽さんが、封筒を差し出した。腰から上を倒していく。九十度。
桂木は、封筒を受け取った。それから、自分も九十度で頭を下げた。対局の始まりの礼だった。
桂木は、その場で封を開けた。
手紙は、木曜に書き直したものだった。
書き直すとき、桂木のノートの赤い一行、〔敗着 振り返った〕は、使わなかった。桂木が、誰にも見せるつもりなく書いた一行だ。俺は、返却本を棚に戻すふりをして、桂木のうしろからのぞいただけだった。四月に、権田先輩が夜の柔道場で縫っていた帯のことを、手紙に書かなかったのと同じだった。あれは、本人だけの時間だ。
使ったのは、桂木が、白羽さんの前で、自分の口で言った三つの言葉だけだった。
桂木歩くんへ
対局、ありがとうございました。
藤棚の下で、桂木くんは、お願いします、と言いました。
それから、頭を下げたまま、好きです、と言いました。
最後に、ありがとうございました、と言いました。
いただいた手紙は、とてもきれいでした。でも、わたしがいちばん覚えているのは、あの三つの言葉です。桂木くんの声で、聞いたからです。
月曜日に、将棋部に、着物の人が来たと思います。
あれは、わたしです。
あの二歩は、わたしのせいです。驚かせました。
桂木くんは、勝った将棋を、一枚も残さないと聞きました。
残すのは、負けた将棋だけで、それを、一手ずつ、並べ直すそうですね。
桂木くんは、負けたあとに、いちばんよく考える人なのだと思います。
だから、はっきり書きます。
わたしは、桂木くんとお付き合いすることはできません。
それは、桂木くんのせいではありません。でも、わたしの気持ちは、桂木くんと同じではありません。
この手紙も、桂木くんのノートに、残してもらえたら、うれしいです。
そして、次の一局は、桂木くんの言葉で、指してください。
白羽ことは
桂木は、立ったまま読んでいた。
一枚目を読み終えて、二枚目に移った。目が、ゆっくり行を下りていく。
作法室の襖が、指一本ぶんだけ、開いていた。隙間から、将棋部の一年生の顔がのぞいていた。月曜に、桂木の盤で秒を読んでいた一年生だった。
その一年生が、小さな声で、数え始めた。
「……二十秒。一、二」
隣から、別の手が伸びてきて、一年生の口をふさいだ。
桂木は、気づかなかった。読み続けていた。
手紙の、最後の行まで来た。
桂木の手が、止まった。
桂木は、手紙を丁寧に畳んで、封筒に戻した。
それから、一歩下がった。
両手を体の横につけて、ゆっくりと、深く、頭を下げた。
「……負けました」
投了の言葉だった。将棋では、負けた側が、自分の口でそう言って、対局を終わらせる。
頭は、なかなか上がらなかった。
廊下の端で、ほうきの音が止まった。掃除当番の一年生が三人、ほうきを持ったまま、こっちを見ていた。
三人は顔を見合わせた。それから、ほうきを胸の前に立てて、桂木と同じ角度で、深く頭を下げた。
何に頭を下げているのかは、たぶん、三人とも分かっていなかった。
作法室の襖の隙間でも、一年生の頭が下がっていた。
廊下と襖の隙間で、五人が、それぞれの角度で礼をしていた。白羽さんだけが、まっすぐ立って、それを受けていた。
◇
桂木が、顔を上げた。
目が少し赤かった。それでも、表情は落ち着いていた。対局を終えた人の顔だった。
「……白状します」
桂木は言った。声は小さかったが、一語ずつ、駒を置くようにはっきりしていた。
「あの手紙は、僕が書いたんじゃありません。恋文屋に、書いてもらいました」
白羽さんは、黙って聞いていた。
「最初は、図書室のシラノに頼みました。断られました。恋文は書かない、って」
踊り場の手すりの陰で、俺は、少しだけ小さくなった。
「それで、恋文屋に頼みました。食券三枚で。すごく、いい手紙でした。僕には、一行も書けない手紙でした」
桂木は、手の中の封筒を見下ろした。
「でも、白羽さんの手紙を読んだら、分かりました。あの手紙には、僕がいなかった。僕が覚えてもらえたのは、手紙じゃなくて、藤棚で言った三つだけだった」
桂木は、もう一度、短く頭を下げた。
「次は、自分で書きます。下手でも」
それから、少し考えて、付け足した。
「この手紙は、ノートに残します。負けた将棋のページに」
桂木は、作法室の襖を開けて、中へ戻っていった。襖が閉まる直前、中から誰かが「投了、ですか」と小さく聞くのが聞こえた。桂木の返事は、聞こえなかった。
◇
白羽さんは、踊り場まで上がってきた。
俺のいる手すりの陰を、最初から知っていたらしい。まっすぐ来て、一段下で止まった。
俺は、勝ったはずだった。
先週の金曜に、恋文屋の十行を読んで、赤ペンを一度も入れられなかった。水曜の夜には、負けたくなくて、比喩を一つ多く重ねた。それを、全部斜線で消して、比喩のない手紙を書いた。その手紙で、桂木は「負けました」と言い、恋文屋の恋文より、藤棚の三つの言葉のほうを選んだ。
勝ったのは、俺の手紙のはずだった。
それなのに、少しもうれしくなかった。
うれしかったのは、別のところだった。次は、自分で書きます。下手でも。桂木が、自分の口で、そう言った。
俺の手紙が勝ったことより、桂木が自分の言葉を取り戻したことのほうが、ずっとうれしかった。
白羽さんが、俺を見上げていた。
「……勝ち、ですか」
「勝ったのは、桂木だと思う」
俺は言った。
「自分の言葉で、投了した。あれは、桂木の言葉だった」
白羽さんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ほんの少しだけ、目を細めた。表情はほとんど動かなかった。目だけが、少しだけ、やわらかくなった。
四月から二か月見てきて、白羽さんのその顔を見たのは、はじめてだった。辞典には、載っていない顔だった。辞典は、「ごめんなさい」しか分類していない。
白羽さんは、何も言わずに、階段を下りていった。
◇
六月十七日、月曜日の昼休み。
二年B組の後ろの扉が、開いた。
教室じゅうが、そっちを見た。
扉のところに、女子が一人、立っていた。赤みがかった栗色の髪を、ゆるく巻いている。髪には、赤い髪留めが一つ。胸ポケットに、赤い万年筆が差してあった。
その女子は、教室を見渡した。
俺の席は、廊下側のいちばん後ろだ。扉からいちばん近い。
女子の目は、俺の上を素通りして、窓側の前から二番目の席で止まった。




