第14話 負けた棋譜しか残さない男
変装第三号は、完璧だった。
完璧すぎた。
六月十日、月曜日の放課後。文芸部室の扉が、二回ノックされた。
開けると、廊下に、着物の人が立っていた。
落ち着いた藍色の着物に、白い足袋。腰まである黒髪は、頭のうしろで一つにまとめられ、簪で留めてあった。右手には、閉じた扇子を一本持っていた。
白羽さんだった。
背筋で分かった。それ以外に、分かる手がかりがなかった。
「……どう、ですか」
「……どこで、それ」
「……祖母、です。着付けて、もらいました」
白羽さんの祖母は、書道の先生だと聞いていた。着物を着付けるくらいは、朝飯前なのだと思う。
俺は、廊下の着物の人を、頭から足まで見直した。
四月の第一号は、髪と姿勢で見破られた。ニット帽からはみ出した黒髪と、定規の入った背中で。五月の第二号では、釣り竿を持っていたが、髪も姿勢もそのままだった。
第三号では、髪が、きれいにまとめられていた。帽子からも、どこからも、はみ出していなかった。
姿勢は、そのままだった。
そのままで、よかった。着物を着ると、あの定規入りの背筋は、変装の一部になった。
「なんで、着物」
白羽さんの人差し指が、空中で動いた。
〈しょ・う・ぎ〉
それから、少し間をおいて。
〈き・も・の〉
将棋のタイトル戦の棋士は、着物を着て盤の前に座る。だから、将棋部にいても、着物なら目立たない。
理屈は、合っていた。
第二号のときは、川と釣り竿は合っていたが、制服と釣り竿が合っていなかった。
今回は、合っていないものが、一つも見つからなかった。
将棋と着物。着物と扇子。扇子と、あの背筋。全部が合っていた。どこから見ても、将棋の世界の、偉い人の側の人だった。
それが、問題だった。
◇
将棋部は、特別棟一階の作法室を借りて活動している。
畳の部屋に、将棋盤が六面。部員は十五人で、六局が同時に指されていた。指している十二人のほかに、一年生が三人いた。どの盤の横にも、対局時計が置いてある。時計の残りがなくなった盤には、その三人のうちの一人がついて、声で秒を読んでいた。
俺は、半分開いた襖の陰から中をのぞいた。白羽さんは、俺の一歩うしろに立っていた。
桂木は、いちばん奥の盤にいた。こちらに背を向けて、あぐらをかいていた。盤の横で、一年生が、低い声で数えていた。
「二十秒。……一、二、三」
将棋の秒読みだった。持ち時間を使い切ると、一手を三十秒以内に指さなければならない。二十秒を過ぎると、一から数え始める。十と言われたら、三十秒で、負けだ。読み上げる声は、一定の速さで、容赦がなかった。
俺は、金曜の藤棚を思い出した。ストップウォッチの役員が、桂木の告白に「十五秒です」と告げていた。あれは、この部屋の外でも、秒読みだったのだと思う。
入口に近い盤の二年生が、ふと顔を上げた。
俺のほうは見なかった。俺のうしろを見た。
手に持っていた駒が、盤の上に落ちた。
「……誰?」
「え、連盟の人?」
「女流の先生じゃないか」
「今日、指導対局なんて聞いてないぞ」
ささやき声が、盤から盤へ、奥へと伝わっていった。
次の瞬間、部屋じゅうの膝が鳴った。
十五人のあぐらが、いっせいに正座に変わった。畳の上で、三十の膝が同時に揃う音を、俺ははじめて聞いた。
白羽さんは、襖の前で固まっていた。扇子を持ったまま、どうすればいいのか分からないらしかった。それでも体は勝手に動いて、着物の袖を軽く押さえ、深く頭を下げた。九十度だった。
着物の九十度は、制服の九十度より、さらに本物らしく見えた。部屋の空気が、もう一段、張りつめた。
いちばん奥の盤で、桂木が振り返った。
ほかの十四人は、着物の人の背筋と扇子を見ていた。桂木だけは、顔を見た。金曜に、藤棚の下で、三十秒近く向かい合った顔だった。
桂木の目が、わずかに大きくなった。
「……五、六、七」
秒読みは、止まらなかった。
桂木は盤に向き直り、駒台から歩を一枚つまんで、盤の上に打った。
「……八」
向かいに座っていた一年生が、盤を見下ろして、言いにくそうに言った。
「……あの、桂木先輩。それ、二歩です」
同じ筋に、自分の歩が二枚並んでいた。将棋でいちばん有名な反則だった。打った瞬間に、負けが決まる。
桂木は、何も言わずに頭を下げた。
「……九、十」
秒読みの一年生は、負けが決まったあとも、二つ余計に数えた。それから、自分の口を押さえた。十まで数えたので、どちらにしても負けだった。
部員十五人のうち、着物の人が白羽さんだと気づいたのは、桂木一人だった。
四月の柔道場で、権田先輩が白羽さんに気づいた瞬間に、後輩に投げられたことがある。好きな人に気づいた人から、負けていく。
部長らしい三年生が、正座のまま、畳に手をついた。
「ほ、本日は、ようこそお越しくださいました。よろしければ、ご指導を」
「……ごめんなさい」
間が短く、語尾が上がった。辞典の⑦、驚きの「ごめんなさい」だった。
白羽さんはもう一度、九十度の礼をして、くるりと向きを変えた。着物の裾をさばいて、廊下を早足で去っていった。早足でも、背筋は乱れなかった。
俺は襖の陰で、作法室の中の声を聞いていた。
「……帰られた」
「指導じゃなかったのか」
「視察だ。たぶん、視察だ」
「今の人、白羽さんに似てなかったか」
「白羽さんが着物で将棋部に来るわけないだろ」
十四人が、うなずいた。桂木だけが、うなずかなかった。二歩の盤の前で、まだ正座していた。
◇
特別棟の階段の踊り場で、白羽さんは止まった。
振り返ると、右手の人差し指が、空中で動いた。
〈な・ぜ〉
四月、柔道場から逃げてきた渡り廊下で書いたのと、同じ二文字だった。あのとき、俺は「髪と、姿勢」と答えた。
今日の答えは、違った。
「似合いすぎた」
白羽さんの指が、止まった。
それから、さっきより三倍くらい速く、空中で何かを書き始めた。何を書いているのか、まったく読めなかった。
褒められると、空書きが速くなる。五月に、大森の手紙の清書を「きれいだ」と言ったときに知ったことだ。
褒めたつもりは、なかった。
結果的に、褒めていた。
◇
調査は、俺一人で続けることにした。
第三号は、もう作法室には入れない。将棋の世界の偉い人が二日続けて来たら、将棋部の膝がもたない。
六月十一日、火曜日の昼休み。桂木は、図書室にいた。
閲覧席のいちばん端で、大学ノートを広げ、手のひらほどのマグネットの将棋盤に、駒を並べていた。ノートを見て、一手指す。少し考えて、もう一手。ときどき手を止めて、赤いボールペンで、ノートに何か書きこむ。
俺の定位置の、壁に向いた机からは、桂木の背中が斜めに見えた。
返却本を棚に戻すふりをして、桂木のうしろを一度だけ通った。ノートの開いたページが見えた。
いちばん上に、日付と、相手の名前。その下に、指し手がびっしり並んでいる。ページの右上の隅に、丸で囲んだ漢字が一文字あった。
〔負〕
桂木が、ページをめくった。次のページの隅にも、〔負〕。その次も、〔負〕。
俺が棚を一つ回るあいだに、桂木は七ページめくった。七ページとも、〔負〕だった。
いちばん新しいページは、昨日の日付だった。
指し手は途中で終わっていて、最後に、赤で一行だけ書いてあった。
〔二歩 反則負け〕
その下に、もっと小さな字で、もう一行。
〔敗着 振り返った〕
俺は、棚の陰で、本を一冊、落としそうになった。
放課後、作法室の前の廊下で、将棋部の二年生が二人、話していた。昨日、最初に駒を落とした男子だった。
「桂木って、勝った将棋は、一枚も残さないんだよな」
「ノート、負けた将棋だけ。全部、一手ずつ並べ直してる」
「昨日の二歩も、もう書いてたぞ。負けた原因まで」
「何て書いてた」
「教えてくれなかった」
俺は知っていた。敗着、振り返った。
勝った将棋は残さない。負けた将棋だけを、一手ずつ読み直す。
桂木は、負けたあとに、いちばんよく考える人だった。
◇
その日の放課後、文芸部室で、俺は将棋の言葉で断り文句の骨組みを考えていた。
「将棋の言葉で書くなら、歩がいいと思う」
俺は、白羽さんに説明した。昨日の夜、将棋の入門書を一冊読んでおいた。
「歩は、一マスずつしか前に進めない。いちばん弱い駒だ。でも、敵の陣地に入ると、裏返って、と金になる。金と同じ動きができる」
白羽さんは、うなずいた。
「……と金の、遅早」
「え」
白羽さんの背筋が、少しだけ伸びた。
「『と金の遅早』。『歩のない将棋は負け将棋』。『金なし将棋に受け手なし』。『玉の早逃げ八手の得』。『桂の高跳び歩の餌食』」
なめらかだった。
一つもつかえずに、将棋の格言が五つ、続けて出てきた。五月に現代文の授業で知った仕組みだった。昔の誰かが作った言葉なら、白羽さんの声は、どこまでもなめらかになる。
最後の一つは、桂木の恋文の一行目と同じ格言だった。
白羽さんの声が、いつもの声に戻った。
「……祖母と、毎晩、指します」
「おばあさん、将棋も」
「……強い、です。わたしは、一回も、勝ったことが、ありません」
俺は、と金の説明を、途中で黙ってやめた。入門書を一晩読んだ人間が、毎晩祖母に負け続けている人に、歩の進み方を教えていた。
「……将棋には」
白羽さんが、もう一度口を開いた。
「……感想戦が、あります」
「感想戦」
「……対局が、終わったあと。勝った人と、負けた人が、同じ盤の前で、最初から、並べ直します。どこが、よかったか。どこで、まちがえたか。……二人で」
白羽さんは、少し考えてから、付け足した。
「……祖母は、感想戦のときだけ、たくさん、しゃべります」
俺は、ノートに書いた。
〔感想戦〕
勝ち負けが決まったあとで、勝った人と負けた人が、同じ盤の前に座る。負けた将棋を、一手ずつ読み直す。
桂木のノートと、同じことだった。
◇
水曜の夜、俺は下書きを書いた。
書いているあいだ、ずっと、金曜の恋文が頭にあった。赤ペンが一度も触れなかった、十行の恋文。格言で入って、名前に落として、盤と駒の比喩を最後まで通した、プロの仕事。
負けたくなかった。
だから、書いた。格言で入った。盤と駒で通した。比喩を、恋文屋よりも一つ多く重ねた。最後は、投了の作法で締めた。
夜中の二時に読み返して、いい文章だと思った。恋文屋の十行に、並べても見劣りしない。
俺は、満足して寝た。
木曜の放課後、文芸部室で読み上げた。
白羽さんは、目を閉じて聞いていた。一文ずつ、うなずいていた。嘘は、一つもなかったらしい。
最後の一文まで読み終えた。
白羽さんは、目を開けた。うなずかなかった。首も、振らなかった。
「……うそ、では、ありません」
白羽さんは言った。
「……でも」
白羽さんは、俺のルーズリーフを見た。読めないはずの紙を、少し長く見ていた。
「……声が、しません」
俺は、ルーズリーフを見下ろした。
金曜に、俺が桂木の恋文に言ったのと、同じことだった。字は、桂木の字だ。でも、文の中に、桂木がいない。
今日の下書きは、字は、俺の字だった。文の中に、俺がいなかった。白羽さんも、いなかった。桂木も、いなかった。いたのは、恋文屋に勝ちたい誰かだけだった。
俺は恋文屋と、比喩の数で勝負していた。
手紙を受け取るのは、恋文屋ではない。桂木だ。
赤ペンを出して、下書きの上から、斜めに一本、線を引いた。全部に。
白羽さんが、少しだけ目を大きくした。
「書き直す」
俺は言った。
「感想戦にする。比喩は、使わない。将棋の言葉は、桂木が自分で言った言葉だけ使う」
桂木が、自分の口で言った言葉は、三つしかなかった。
藤棚の下で、「お願いします」。
頭を下げたまま、「好きです」。
最後に、「ありがとうございました」。
十行の恋文の中には、一つも入っていなかった言葉だった。
それから、ノートの赤い一行。〔敗着 振り返った〕。
あれは、桂木が、誰にも見せるつもりなく、自分の字で書いた言葉だ。
新しい下書きの一行目は、こう書いた。
〔対局、ありがとうございました〕
白羽さんは、それを聞いて、深くうなずいた。
さっきより、ずっと深かった。
金曜の放課後に、手紙は桂木に渡る。
桂木は、たぶん、手紙を誰かに見せる。恋文を書いてくれた人に、結果を報告するために。
恋文屋は、この断り文句を読むだろうか。




