花鏡の使者 肆
肆
ユリは、城跡公園に沿った歩道を足早に歩いていた。時はまだ九時を過ぎたばかりで、車も人も賑やかなのが当たり前に道を行き交っている。
いつもならこんな時間に外出することはなく、なぜ今日に限って外出したかと問われれば、親と喧嘩したからだとしか答えられなかった。
喧嘩……いや、違うかも知れない。一方的にユリが怒って、文句を言って家を飛び出してきていた。
鬱蒼とした木立を越えて城跡公園の駐車場に入っていくと、ずっと奥の方に櫓門が見えていた。公園の隣にある市民体育館のライトが夜空に反射し、櫓門の形を闇に浮かび上がらせている。
公園を帰宅の通り道にしている人たちに混ざって櫓門まで来たユリは、昨夜、自分が気を失った石橋の上で歩みを止めた。気絶するほどの激痛を感じた右目にはもう異物感はなく、時々思い出したかのように軽い痛みを発する程度になっていた。
あの時何が起こったのか、あれからどうやって家に帰ったのか全く覚えていなかった。ただはっきりと分かっているのは、あの一件のせいで深夜外出が両親の知るところとなったことだった。
今朝、バスの時間ぎりぎりに階段を降りてきたユリを見送りに出た母親がお弁当を手渡ししてきた時に、ユリはそれに気付いた。
目を合わせることはしなかったが、チラと触れた指先から母親の当惑と不安が押し寄せてくるのがありありと感じられ、
「……もう大丈夫なの?」
そんな言葉に、たまらずに弁当箱を受け取らず家を出てしまっていた。
そして今夜、珍しく早い帰宅をした父親に呼ばれて台所に出向くと、ホワイトチョコレートで飾られたホールケーキが場違いなように食卓に乗っていた。
「白いチョコのケーキ、好きだったよな」
不器用な父親の言葉。
しかしユリの目はケーキを映さず、なんとかしようと頑張っているのが分かる必死な目をした両親の姿を見ていた。
今さらなんで? ずっとほったらかしだったくせに。夜中の外出を知った途端に掌返したように関心を寄せてきた二人に、憤りしか感じない。
それなのに。怒鳴り散らして食卓を滅茶苦茶にした時でさえ、二人から感じられたのは、ユリの愚行への怒りでも恐れでもなく、気づけないでいた自分たちへの限りない後悔だった。
ゴロゴロと、小さな雷鳴が頭上で響き出していた。
不意にツキンと痛みを発した右目に手をあてたユリは、通り過ぎていく風の香に雪の気配を感じ取り、黒雲の垂れ込めた空を仰いだ。
今日は一日中、神経が過敏になっているようだった。人や景色の些細な変化が直に胸を打ち、気分を落ち着かないものにさせている。
ねえ本当に、ほったらかしだった?
自問が胸に沸き上がる。
本当に、深夜外出を知らなかったと思うの?
そんなことない。二人ともちゃんと気付いていて、だけど何も言えなくさせていたのは自分なのだ。
だけどもう、戻ることはできなかった。
周囲の羨望と憧憬を受けていた兄が、ただただ大好きだった頃の、なんにも知らなかった頃の綺麗な自分はもういなくなってしまった。
あの日自分は、両親の関心がずっと出来のいい兄だけに注がれていたことに気付き、この世からいなくなったことでより強く両親の心を縛り付けた兄に嫉妬したのだ。大好きな兄を失った悲しみと嫉妬心がせめぎ合い、その苦しさに何も考えないようにしながらもがき続けている内に、今度は自分でもどうしようもなくなっていた。
今では、消すことのできない後悔ばかりが積み重ねられている。
「……お兄ちゃん、助けて……」
いい加減にしろよ、なんて言いながらも腕だって組んで歩いてくれた兄。振り返れば、そんな仲の良い兄妹を微笑ましく眺めていた両親がいた。あの頃に戻りたい……。
滲む涙を堪えようと目を閉じたユリの足元で、細かな雪を巻き込んだ風が小さく渦巻いた。
その瞬間、風の渦が広がり、周囲にあった車の排気音や人のたてる様々な音が風の音に飲み込まれて消えていた。いつも出歩く深夜でさえ、もっと音があったはずだと思わせる静寂が広がっていた。
驚いて目を開けたユリは、明らかに変化した周囲の気配を察して恐怖を覚えた。誰の姿もない。公園にいるのは、自分ただ一人だ。
咄嗟にその場から逃げ出そうとしたユリは、いきなり襲った右目の激痛に膝を折っていた。
「あっ……あああっ」
灼けつくような感覚に両手で右目を押さえて、口はただ悲鳴の形に開けるしかなかった。何倍にも膨れあがったかのような眼球が、飛び出していこうとしているのがはっきりと感じられる。恐怖で見開いた目が、駐車場から櫓門へと歩みを進めてくる白い人影を見つけていた。
――あれは昨夜の……?
それ以上の思考は許されなかった。眼球の抜け出る感覚をまざまざと感じ取って、ユリは気を失っていた。
*
節分の頃に鳴る雷を初雷と呼び、雷が鳴った時に撒かずに残しておいた節分の豆を食べれば病や雷を除けてくれると言う。
クジによる合図の雷鳴を受けて朔風の使者が結界を張ったのを感じ取った玄吾は、ふとそんな伝承を思い出しながら運転席の山名に軽く会釈して車を降りた。
景色はそのままに、人の気配とありとあらゆる音が消え去っていた。万が一を考えてか冬気までも排除されているようだ。
感嘆を覚えながら櫓門へ向かった玄吾は、石橋の上でしゃがみ込む少女を見つけて歩みを緩めた。
石橋の袂に立ち止まると、少女は、綺麗に切り揃えられた黒髪を揺らしてゆっくりと立ち上がった。闇に仄かに浮かぶ白い肌の上で、意志の強い、だが迷いある瞳が玄吾をまっすぐに見てきた。
「皇子。お迎えにあがりました。宝物の欠片とともに、春見亭にお通りください」
玄吾もまっすぐに少女――サホを見つめ返した。長い睫毛を伏せたサホの視線の先で、軽く握り合わせられた両手の中から微かな春気が放たれているのに気付く。
「それは宝物ですね? どうかその欠片をお返しください。それがなければどういうことになるか、皇子にもお解りでしょう」
サホに近付きながら手を差し出した玄吾は、映像と一緒に押し付けられたサホの激情を思い出して奥歯を噛み締めた。どうあってもサホの感情に流されるわけにはいかない。
あと二、三歩近付けば触れられる所まで来て、サホは顔を上げた。見上げてくる瞳がしっとりと濡れている。半ば諦めを含んだ音色の声が、艶やかな口から漏れた。
「――あなたが迎えに来たとおっしゃるなら、参りますわ」
「……皇子」
「欠片をお受け取りください」
すんなり戻ると言われて虚をつかれた玄吾に、サホは花びら型をした宝物の欠片を差し出してきた。その欠片を受け取った瞬間、
「――あっ」
前触れもなくサホの体が傾いだ。咄嗟にサホを抱き留めて地に膝をついた玄吾は、サホが何事もなかったかのように立っているのを見て目を見開いた。柔らかそうな絹衣の上に薄紅の胸当てをつけた、形ばかりの武装を取っている。
「皇子!? ……えっ!?」
玄吾は腕の中にいるサホに目をやって、さらに愕然とした。サホだと思って抱き留めたのは、茶髪の見知らぬ少女だった。
「これは……青山、さん?」
この見知らぬ少女が、すぐに皇子が憑依していた青山という女生徒だと見当はついたのだが。
言いしな少女の体を突き放していた。清浄な結界内にあるためか、儀式のため不浄を遠ざけていた身だからか、少女に纏わり付く穢れが吐き気をもよおすほどに際だって感じられていた。
それこそ幸輝が言っていた通り、まさか、である。不浄まみれの彼女に皇子が憑依できるなんて誰が考えつくだろう。彼女に春気があることさえ俄には信じがたい。
血の気の引いた顔で後退った玄吾は、サホの姿を確認して緊張を緩めた。皇子に穢れは感じられず、サラサラとした心地いい春気だけがそこにあった。しかし、
「何だってこんな危険な真似をしたんですかっ。これ程までの不浄に冒されでもしたら、御身がもちませんよ?」
使者にとって不浄は人の病と同じだった。眉を吊り上げている玄吾に、サホはチラと目を細めた。
「彼女の心が私を呼び寄せたのです。私たちは、とても良く似ていましたから」
全てなくなれと願う心が不浄を呼び込みながらも、少女の根底には死んだ兄を求め続ける感情が穢れを寄せ付けずに光を放っていた。内に入ってみれば、それは両親の愛情に飢えた心が、兄さえ戻れば幸せな頃に戻れると思い込んで作り出した幻想からなる脆い光であったけれども。
「……似ている?」
呟いて玄吾は石橋の上に横たわる少女を見つめた。サホと彼女の何が共通するのかさっぱり分からない。再び少女から穢れを感じ取って眉をひそめた玄吾に、サホは請う。
「今少し時間をください。春見亭へ行く前に、彼女の穢れを祓ってあげたいのです」
「何故です。そこまでする縁はないでしょう」
いいえ、とサホは少女に視線を落とした。
「人の子らが春気を持ち合わせている内は私たちの係わり。穢れさえ祓われれば、春気が彼女を善い方向へ導く手助けとなりましょう」
春は全ての始まりなのだから――と、サホは噛み締めるように言って薄く笑った。
「結界をはった者の中に六花もいるようですね。彼女の穢れを祓うよう、六花に頼んで参ります」
「六花にですか?」
六花とは雪、つまりは冬使者である。春使者から冬使者の名が出たことに疑問を浮かべた玄吾に、
「六花の使者は不浄祓いに長けておるゆえ」
唐突に掛けられた声に振り返ると、クジが立っていた。軽く会釈してくる。
「わしが急ぎ頼んでやろう。その女子の親御がすぐそこまで捜しに来ているのだ。そろそろ帰してやらんと」
「……ごめんなさい」
「いや、サホが無事で何より」
では、とクジは横たわる少女に歩みを進め、サホの背後で掻き消すように姿を消した。同時に少女の姿も消えてしまう。結界を違えてもサホには見えているのか、誰もいない空間をじっと見つめていた。玄吾はといえば、使者が姿を消す瞬間を初めてまともに見て唖然としていたのだが。
ともあれ、かなり揉めるかと覚悟してきたわりに皇子も宝物の欠片もすんなり取り戻すことができ、安堵にひと息ついた玄吾は、サホに軽く会釈した。
「では春見亭にお越しください」そう言うつもりが、口をついて出たのは別の言葉だった。
「あなたに何事もなくて、本当に良かった」
勝手に動いてサホの手を取った自分の手が、サホを力強く引き寄せていた。
息がかかるほど近くで驚きに目を見開いたサホに見上げられ、玄吾も戸惑っていた。自分の中で、明らかに自分以外の意志が働いたのを感じ取っていた。
――今のは……。
すでに気配も何も消え去っているが、おそらくは朱義だったのだろう。何かを捜すようにまっすぐに見つめてくるサホが、自分ではなく、身内にいるという朱義を見ていることに玄吾は気付いた。あの時も、サホはこう言っていたのだと気付く。
『あなたが……朱義様が迎えに来たとおっしゃるなら、参りますわ』
結局サホは朱義だけのために動かされたのだ。欠片が揃えば宝物は再生され、朱義が消え去ると解っていても……。
「……皇子。参りましょう、春見亭に」
改めて申し出た玄吾に、サホは視線を戻してそっと頷いた。
* * *
「由利子!」
泣き叫ぶようなその声に、ユリは、はっとして振り返った。
「……お母さん……」
部屋着のままの母親と父親が石橋の袂に立っていた。
なぜこんな所に、と思うより先に、ユリは母親に抱き締められていた。
「やめて、なにする……」
「由利ちゃんっ」
突き飛ばそうとして、力尽くで踏ん張ってきた母親が震えてるのに気づいた。頬に押し付けられる白髪交じりの髪が、氷のように冷たかった。その体も腕も、息を呑むほど冷え切っていた。
でも、震えているのは寒いからじゃない……。
「……ごめん」
するりと口をついて出てきた謝罪だったが、ユリは戸惑い、目を伏せた。
肩の上で、母親が堪えていた涙を流し始めたのが分かった。遠慮したように少し離れた所にいる父親の顔が、涙を我慢して真っ赤になっていた。
ユリは顔を上げて、急速に流れる雲の隙間に星の見え始めた空を見つめた。
ずっと、兄の欠けてしまった家が嫌だった。不安顔をしておろおろしている両親が、鬱陶しくて堪らなかった。
だけど今は、なぜか悲しかった。悲しくて、……嬉しかった。
「ごめんね、由利ちゃん」
喉に詰まった声で、母親が言った。
「うん。……ごめん」
ユリの目からも涙が溢れていた。今まで言えなかったけど、口にしてみれば、なんてほっとできる言葉だろう。ユリがやってきたことは、謝ってなくなる物ではない。それでも、ごめん、と言えたことで心が楽になるのを感じていた。
「おい、帰るぞ」
無理してつっけんどんにしている風な父親の声がした。
顔を上げた母親が、ユリの手をぎゅっと握り締めてきた。涙を拭ってそっと手に力を込め返すと、母親はまだ濡れた目で嬉しそうな笑みを見せた。
そのまま手を繋いで父親に近付いたユリは、ふと気づいて、また涙が出そうになった。
仕事一筋、見た目もコチコチで、ちょっと外に出るのにも折り目正しい。そんな父親の足元は、かなり慌てて家を出てきたことを窺わせる女物の華奢な突っ掛けだった。




