花鏡の使者 伍
伍
「宝物は、亭主の血により再生するんだよ。何故だかね」
そう言って四方見亭亭主が宝物の収められた箱と一緒に手渡してきたひと振りの懐剣を手に、玄吾は祭壇の前に進み出た。
祭壇の折敷の上には幸輝によって元の形になるように宝物の破片が並べ置かれている。その向こうの開かれた蔵戸の中には、エベとクジに付き添われるサホの姿があった。
玄吾は目を閉じた。
鞘の封印を解いた懐剣を鞘から抜き、花鏡の上にかざした掌にあてる。
「――ッ」
肉を裂く冷たい刃の感触に、痛みよりも先にぞくりと背筋が震えた。傷付けた掌は酷く熱く感じられる。
波打って溢れ出た鮮血が、あっという間に破片を染めていく。断面に沿って溜まり出した血が、突然、淡い発光を見せた。目を瞠った次の瞬間には、流れるほどの鮮血は跡形もなく消え、ひび一つない姿で花鏡がそこにあった。
「――ああ、良かった……」
玄吾は自分の血液が起こした奇異に驚くよりも先に、安堵に胸を撫でおろしていた。
その間にも新たな血が雫を落とし、磨かれた鏡面に赤い花を咲かせていく……。
――……おいで。
脳裏で落ち着いた若い男の声がした。その瞬間、玄吾は、ふっ、と体が軽くなるのを感じてよろめいた。思わず鏡面についてしまった手を離すと、手形になった鮮血の中から光の塊が浮かび上がるのがはっきりと見えていた。
「あっ……」
息をのんだ玄吾の前で、花鏡は今度は強く発光した。花鏡の形そのままに柔らかな光が天井に向かって伸びて、上の方はぼんやりと宙に溶けて霞んでいる。そしてその中に、形のはっきりしない光る塊が三つあった。
御霊が送られる――初めて見るにもかかわらず玄吾が本能的に感じ取ったと同時に、サホが身を投げ出すようにして祭壇に飛びついた。
「だめ! 待って!」
そうして光柱に手を伸ばそうとするのを、タイテが無言で制する。サホは小さな子がいやいやするように首を振って、悲痛な面持ちを光柱に向けた。
その時だった。光の塊の一つが二つと分かれて、サホの目の前に来て止まった。
それは一瞬だった。次の瞬間には三つの塊はそれぞれ違う色の美しい光を放ち、光柱の中で螺旋を描いたかと思うと、軌跡だけを残して消え去った。続いて光柱も宙に溶けるように消え――。
サホが離れがたいと、地に留めることをせつに願った朱義の魂は、正式な御霊送りを待たずして、呆気なく天に召されてしまっていた。
「……ありがとうございました」
玄吾は最大の敬意を持って、光柱の消えた空間を見上げた。
『さあ、おいで』と誘う声に歓喜して身内から駆け出していったのは、幼い二人の子供だった。ずっと気付かずにいたけれど、朱義は内から玄吾を護りつつ、亭主というお役に課せられた使命を理解できないままに命をなくし、亭主であったというだけで現世に留まることを余儀なくされた幼い魂をも護っていたのだろう。
朱義は、サホの側に留まることよりも、何も解らず戸惑いを抱えていた子供たちを天に導くことを選んでいたのかもしれないと思った。
だがそれはサホにはどの様に見えていたのだろうか。光の消えた花鏡をそっと胸に押し抱いて、泣き出すかと思われた顔は、微かにせつなく笑みを浮かべただけだった。
じっと見つめた玄吾に気付いたサホが、不意に玄吾の手を取った。切れた掌にそっと口づけてくる。
「なっ……何をっ」
玄吾は慌てて手を振り払った。その手をいつの間にやら隣にいたエベが掴み、サホと同じように口づけてきた。
「ちょっ、ちょっと、なにするんだよっ」
サホとは違い、力強いエベの手は振り払うことができない。傷口をべろっと舐められる感触に、背筋に悪寒が走った。
「う、ひゃ~っ!!」
悲鳴をあげた玄吾に、エベが視線だけ上げてくる。
「なにすんだよっ」
「なに? 勿体ないではないか」
「勿体ない!?」
「亭主の血は我らが標。一滴たりとも無駄にはできぬわ」
ほれ、と返された手に、つい今しがたまで口を開いていた傷はなかった。
驚く玄吾の手を、今度は背後にいたクジが取っていく。血の残る指先を、躊躇いもなくパクンと口に入れられて、もう玄吾には抵抗する気力がなかった。脱力。
こんなことなら、サホの手を振り解くんじゃなかった……。
玄吾がしばしの後悔に浸ている間に、すっかり綺麗にされてしまった手が返されてくる。ショックを隠しきれない玄吾に、いつもは厳しいだけの顔をしているタイテが、優しげな顔を寄越してきた。
「亭主よ。うぬらは忘れておる。我らはこの地に降りるのではない。うぬらに流るる血を目指して降りてくるのだ」
「僕たちの血?」
怪訝な顔を向けた玄吾に、タイテは、そうだと顎を引いた。
「神代の時代より、我らは人と共にあった。しかし時を重ねるに従い、我らを見、声を聞く者は急激に減っていった。うぬらは、穢れなき目で我らを見い出す最後の血族なのだ」
使者は、人が信じ、そこに見い出してくれるからこそ存在する。
人が人の営みの中に使者を必要としないのであれば、消え去るのも人の世の理にかなったものであったかもしれなかった。
しかし、最後の一人はその血を残すために世俗から離れて徳を積み、いつの日か人が使者を見い出せなくなってもそこに使者がいる証をと、伝える術として儀式を成り立たせた。
四方見亭は、聖地に建っている。
だがそれは長年に渡り使者がこの地を拠り所としていたため、清浄なる地となったにすぎなかった。元は、最後の一人になるはずだった男の安住地であり、墓であった。
「我らは、我らを見い出すうぬらが血により在る。我らは男の意を汲み、最後の血流を残すべく不浄を遠ざけ、恵みを与え、慈しむことにしたのだ」
いつの間にか、周囲に立つ人影が増えていた。様々な衣装の様々な人種。実体を持ち、感情を持ち、触れ合い、言葉を交わすこともできる。
玄吾には、本物の人にしか思えない。
しかし彼らは亭主が――玄吾が否定すれば消えてしまう、儚い夢のような存在だと言うのだ。
胸が、つまった。
なぜ自分は周りと違うのかと、不意に沸き上がる不満は隠しようがない。それでも、亭主としてお役を務めることが使命だと、漠然とした中で感じていたものが、自分の中ではっきりと形を持ったのを感じていた。
使者に守護された古の血は確かに玄吾の中に息づいていた。塩見の血に使者がいかされているのか、使者により塩見の血がいかされているのか、もう分からない。どちらかが拮抗を崩すまで、それは果てなく続いていくのだろうか。
「……僕は、どうすればいい?」
亭主としてでなく、ただ一人、自分自身で、使者のために何かをしたかった。そんな気持ちで訊ねた玄吾に、そのままで、とサホは答える。
「変わらないでほしいのです。四季折々全ての中にいる私たちを感じる心を失わないでください」
そして、伝え残していってほしい、と。
切なる願いだが、押し付けは感じられなかった。ただせつなくも優しい気配が、玄吾を包み込むように満ち溢れていた。懐かしいそれは、物心つく前から絶えず側にあった気配だった。
玄吾は座敷を見回した。使者の姿を一人一人確認していく。使者たちは目が合うと深い笑みを返してきた。言葉はなくも、おまえを慈しんでいるよと声が聞こえるようだった。
玄吾は、最後、花鏡を大切に抱えるサホを見た。
武装をしているとはいえ、ついさっきまで地界を災異に陥れる覚悟までしていたようには到底見えない、か細くたおやかな姿だった。
サホが悲しくも柔らかく微笑みを返してきた時、ふわっと何かが香った気がした。
「きみは、――桜?」
「はい」
見い出す言葉は呪であったのか。
答えたサホの姿が輝いて輪郭を崩し、武装が解けていた。取り巻く使者がやんやと沸き立ち手を打って寿ぐ中、玄吾の前に、十二単の姫姿でサホが立っていた。
肩で切りそろえられた艶やかな黒髪が、仄かに光る桜色のサホの肌をより美しく見せている。目を瞠った玄吾に、サホは顎を引いてはにかむようにふわりと笑んだ。
「美しかろう?」
笑みを含んだエベの声に、玄吾は、はっとした。顔が、かあっと赤くなる。サホに見とれていた視線を外すと、その側にいたクジが目を細めてきた。
「照れるか、亭主殿。美しきを美しいと思う心こそ我らが糧よ」
タイテも満足げな顔を見せてきた。
「亭主よ、言うてくれ。今期皇子は姫。亭主に美しいと言われたなら、我らが春の代を一層艶やかにさせられるというもの」
微笑みを浮かべたサホが、一途な瞳を玄吾に向けてきた。思わず目を逸らしてしまう。
「亭主殿」
「亭主よ」
促されて、玄吾は顔を上げた。
バス停で初めてサホを見た時のことを思い出す。玄吾には、始めからユリの姿ではなく、サホの姿しか見えていなかった。それはおそらく身内にあった朱義の御霊がそう見せていたのだろう。だが、サホの春気に引きずられたのは、玄吾自身がサホの美しさに心動かされたためだった。
春は、「春」をも司る。玄吾の抱いた淡い恋心が知らず春気を膨大に呼び出し、凍りづけ寸前まで冬気に痛めつけられる原因になっていたことに、しかし玄吾は気付いていない――。
真正面にサホと見つめ合って、玄吾は、言い知れぬ恥ずかしさに戸惑っていた。顔に血が上るのが分かる。きっと情けないほど顔が赤くなっているに違いない。
バクバクと耳元にまで聞こえる鼓動に支配されたまま、玄吾は口を開いた。
「綺麗だ。……こんなに綺麗な人、僕は今まで見たことない――」
言って余計に顔を赤くした玄吾の前で、鮮やかな笑みを見せたサホの腕の中、花鏡は五色に輝いていた。
終話
四季の呪歌を冬皇子から春皇子のサホが無事受け継いだのは二ヶ月以上も前のこと。時はすでに四月の半ばを過ぎ、目に見る春は例年より数日の遅れを見せながらも確実に訪れていた。春に映えるよう造成された春見亭の庭は、様々な花木が入り乱れての真っ盛りである。
陽光暖かい縁側に座っていた玄吾は、庭にある満開の桜を愛でながら、溜め息をついていた。
桜という花は、散り際になって初めて鮮烈に匂うもののように思える。
その姿で人の心を虜にするにもかかわらず、盛りの内は桜香を求めてみても微かにしか匂わずに控えめでしかなかった。
だが、皇子のお役を放り出すほどの激情を持っていたサホのように、桜たちは儚さの裏に情熱を秘めているのだろう。そういったものに、人は惹かれているのかもしれないと思うのだ。
またひとつ溜め息をついた玄吾に、幸輝が茶を一服点てて運んできた。
「花見のお茶よ。どう?」
「――ありがとう」
赤い丸盆に、流扇に桜の柄の抹茶碗と、懐紙にのせた練り切りと干菓子があった。どちらも桜を模した可愛らしい和菓子だ。
縁側に正座した幸輝は、淡い鳩紫の地の小紋の肩にサラリと黒髪を流して顔を傾けてきた。
「この間ね、青山さんと話す機会があったわ」
青山とは、サホが追っ手から逃れるために憑依した、幸輝の高校の女生徒だった。
淡い桜色の干菓子を手に振り返った玄吾に、幸輝は優しい笑みを見せた。
「青山さん、不浄が抜けて、随分と落ち着いたみたい。雰囲気がとても良くなったわ」
「――そっか」
サホがなぜ自分と青山が似ていると言ったのかは分からなかったが、知る必要もないだろう。だが、わざわざ使者たちが穢れを拭ってやったのだから、彼女には是非とも善い方向へ向かっていってもらいたいと思う。
玄吾は、ふと、バス停で初めて青山に憑いていたサホとあった時のことを思い出していた。溜め息をついて、手にしていた干菓子を気なしに口にすると、ほろりと溶けたそれは歯が浮くかと思うほど甘かった。
予想外の甘さに噎せそうになったところで、幸輝が笑みを寄越してきた。
「玄吾くん。初恋はかなわないものって言うわよ。元気出しなさいよー」
バンと背中を叩かれて、玄吾は嫌な顔をした。
「勘違いすんなよな。そんなんじゃないよ」
「そお?」
「そう!」
出会いは未だに鮮烈な印象を残していた。でも、それだけだ。サホと自分の間には何もない。
玄吾は作法抜きで抹茶を飲み干すと、下駄を引っ掛けて庭におりた。
このところ続いた晴天で、花開いた桜は七日待たずに散り始めている。明日の天気は雨だというから、今日で桜花の見頃は終わるだろう。
微風に撫でられても舞い落ちる花びらを目で追う玄吾に、ところで、と幸輝は声を掛けた。
「ねえ、玄吾くんには、花音の使者はどんな風に見えていたの?」
「どんなって……着物を着た、幸ちゃんくらいの女の人だけど」
「へえ、そうだったんだ」
よかったー、と幸輝は言う。
「私にはちっちゃな女の子に見えるのよね。綺麗だ、なんて真顔で言ってるんだもん。玄吾くん、ロリコンかと思っちゃった」
何!? と驚く玄吾に、幸輝はほくそ笑む。
「使者は見る人の願望によってぜんぜん違うように見えるのよ? 玄吾くん、知らなかったんだ!」
「が、願望……」
ってことは、エベやクジなんかも――?
「勿論でしょ。私から見ればあの子たちだって、まだまだお子様よ」
幸輝には、誰も彼も子供に見えるようだ。
ふと、幸輝は何か思い出したようだ。まさか、という目が笑っている。
「そういえば玄吾くん。使者に手の傷、舐めて治してもらってたわよねぇ。私には子供に見えてたけど、もしかして」
「やっ……やめろよ~っ!!」
吹き出す寸前の幸輝の顔にみなまで言わせず、玄吾は顔を耳まで真っ赤に染めて庭を飛び出した。
舞い散る桜の花びらが風に乗り、玄吾のあとを追っていく。
若き亭主の悩みは、まだまだ尽きそうになかった。




