10-4 因果応報、処刑人の末路は『島流し』と『謎の病』。
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
物語の舞台は建久四年。富士の裾野で巻き起こった日本史上もっとも有名な復讐劇、「曾我兄弟の仇討ち」は、ついにその血塗られた幕を下ろした。
しかし、物語には続きがある。英雄たちが命を散らした後に残された、残酷なまでの「報い」と、主君の遺品を抱えて故郷へと走る従者たちの「忠義」。
「――伊豆の二郎の奴、なんて無様な真似を!」
鎌倉の街は、一つの噂でもちきりだった。
曾我五郎時致の処刑を執行した伊豆二郎祐兼が、あろうことか「手際が悪い」振る舞いをしたというのだ。
これを聞いて黙っていなかったのが、鎌倉随一の「ガチ勢」武将、畠山重忠である。
「五郎ほどの英雄の最期なら、この重忠が賜り、我が家の重代の刀で誇り高く送ってやるべきだった。それを、あんな不覚者の伊豆二郎などに任せるとは……。なんと口惜しいことか!」
源頼朝(鎌倉殿)も、重忠の言葉を聞いて顔をしかめた。
「……そんな不覚者だったとはな。誰でもいいから任せれば良いというものでもなかったか」
結果、伊豆二郎は頼朝の怒りを買い、最果ての地、奥州・外ヶ浜へと流刑に処された。そしてその年の九月。彼は原因不明の「悪しき病」に侵され、わずか二十七歳で命を落としたのである。
人々は口々に囁き合った。
「これは五郎の怨念、あるいは因果応報というやつだ……」
五月に五郎が斬られ、九月に処刑人が逝く。あまりにも出来すぎた因果のループに、鎌倉中の人々が戦慄した。
一方その頃。兄弟に「生きて帰れ」と命じられた二人の忠臣、鬼王と道三郎は、富士の裾野から曾我の里を目指して馬を飛ばしていた。彼らの腕の中には、主君から託された「次第の形見」がある。だが、その足取りは重い。
(……もし、もし若殿たちが無事に世に出られる日が来たなら、我らこそが真っ先に側でお仕えするはずだったのに)
幼い頃から我が子のように育て、守り、仕えてきた。その未来が、あの一夜ですべて断ち切られたのだ。二人は道の途中で幾度も足を止め、富士の空を振り返っては、人目も憚らず泣き崩れた。
「……見ろ、道三郎」
振り返った富士の夜空には、無数の松明の火が走っていた。それはまるで、仏教の儀式である「万燈会」のような、この世のものとは思えない光景。
「……始まったんだな。若殿たちの『本意』が」
火の光が激しく揺れ、次第に消えていく。その光の明滅が、主君の命の灯火と重なって見えた。二人は地面に倒れ伏し、声を限りに泣いた。馬までもが、主との別れを察したのか。富士の空を見上げて、二度、三度と、悲しげに嘶いた。
「――おい、そこの者! 待て!」
山道を進む二人の後ろから、一人の使いの者が急ぎ足でやってきた。道三郎は必死に袖を控え、問いかける。
「富士の屋形で何が起きた! あの松明の群れは一体何だったのだ!」
使いの者は足を止め、興奮した様子で語り始めた。
「……知らないのか! 曾我の十郎・五郎という兄弟が、親の仇である工藤祐経殿を討ち取ったのだ!
それだけではない。兄弟は頼朝様の御所(本陣)まで切り入り、向かうところ敵なし。日本中の侍たちがなぎ倒され、死傷者は二百、三百にも上るという。……まさに天魔、あるいは鬼神の暴れっぷりだ!」
「……だが、兄の十郎殿は夜半に討死。弟の五郎殿は、明け方に生け捕られた。この大事件を、大磯の虎御前の妹・亀鶴が、姉に知らせるために俺を走らせているのだ。じゃあな、急ぐんで!」
使いの者は風のように去っていった。
「……やり遂げられた。若殿たちは、やり遂げられたのだな」
二人は、悲しみの中に灯った一筋の光、いや、巨大な「勝利」の知らせに震えた。二人の若者が、十万の軍勢を相手に暴れ回り、ついに十七年の宿願を晴らした。
「行こう、道三郎。この形見を、一刻も早く母上に届けなければ」
二人は涙を拭い、再び馬の口を引いた。彼らが運ぶのは、単なる遺品ではない。日本一の勇士として歴史に名を刻んだ、曾我兄弟の「誇り」そのものだったのだから。
曾我物語 巻第十 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔伊豆の二郎が流されし事〕
扨も、悪事千里を走る習ひにて、伊豆の二郎未練なりと、鎌倉中に披露有りければ、秩父の重忠、御前にて此の事を聞き、「曾我の五郎をば、重忠賜はりて、重代のかうひらにて、誅し候ふべきを、不覚第一の伊豆の二郎に下し賜はりて、かはゆき次第と承り、口惜しさよ」と申されければ、君聞こし召し、「斯様の不覚人にて有るべくは、誰にても仰せ付けらるべき物を」とて、伊豆の二郎は、御不審をかうふり、奥州外浜へ流されしが、幾程無くて、悪しき病を受けて、当年の九月に二十七歳にして失せにけり。これ偏に、五郎が憤りむくふ所にやと、口びるを返さぬは無かりけり。時致は、五月に切られければ、祐兼は、九月に失せにけり。不思議なる例、因果歴然とぞ見えける。
〔鬼王・道三郎が曾我へ帰りし事〕
此処に、此の人々の二人の郎等、鬼王・道三郎は、富士の裾野井出の屋形より、次第の形見を取り、曾我の里へぞ急ぎける。然れども、惜しみし名残なれば、心は後にぞ止まりける。実にや、幼少より取り育て奉り、世にも出で給はば、我々ならでは、誰か有るべきと、人も思ひ、我も又頼もしかりつるに、斯様に成り行き給ひしかば、したひあくがれしも適はで、泣く泣く曾我へぞ帰りける。思ひの余りに、道の辺にしばしやすらひ、富士野の空を顧みしかば、松明多く走り、只万燈会の如し。今こそ事出で来ぬると見えければ、我が君の御命、如何渡らせ給ふらんと、心許無さ限り無し。只二人坐しませば、大勢に取り込められ、如何に隙無く坐しますらん、今は御身も疲れ給ふらんと思へば、走り帰りて、御最後見奉らまほしきも、隔たりぬれば、適はず、只泣くより外の事ぞ無き。暫く有りて、たい松の数も、次第に少なく成り、火の光も、うすく成り行けば、君の御命もかくやと、火の光も、名残惜しく思ひければ、道の辺に倒れ伏し、声も惜しまず泣き居たり。馬も、生有る者なれば、人々の別れをや惜しみけん、富士野の空を顧みて、二三度までぞいばへける。扨有るべきにあらざれば、をちこちのたづきも知らぬ山中に、覚束無きは、富士野なり。泣く泣く空しき駒の口を引き、古里へとは急げども、行きも遣られぬ山道の、末もさだかに見えわかず。此処に、人の使ひと思しくて、文持ちたる者、後より急ぎ来たる。道三郎、袖をひかへて、「出での御屋形には、今宵、何事の有りければ、松明の数の見え候ひつる」と問ひければ、「然ればこそとよ。知り給はずや。曾我の十郎・五郎殿と言ふ人、兄弟して、一族の工藤左衛門の尉殿を、親の敵とて打ち給ひぬ。剰へ、御所の内まで切り入りて、日本国の侍共の、切られぬ者は候はず、手負・死人二三百人も候ふらん。然れども、兄の十郎は、夜半に討死し給ひぬ。弟の五郎殿は、暁に及び、生捕られ給ひき。此の人々の振舞ひは、天魔・鬼神のあれたるにや、斯かるおびたたしき事こそ候はざりつれ。斯様の事を、大磯の虎御前の妹、黄瀬川の亀鶴御前より、大磯へ告げさせ給ふ御使ひなり」とて、走り通りけり。二人の物共聞きて、し損じ給ふべしとは思はねども、一期の大事なれば、心許無く思ひ奉りしに、何事無く本意を遂げ給ひぬるよと、歎きの中の喜びにて、次第の形見を面々に奉り、
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




