9-5 剛力の弟、知略の兄
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
曾我物語 巻第二 (明治四十四年刊 國民文庫本)
鎌倉幕府最大の軍事イベント「富士の巻狩り」。その華やかな祭典の裏側で、十七年の怨念を抱えた二人の兄弟が、死地へと潜入を開始した。
「――五郎、離れるなよ。ここからは一歩でも間違えれば即座に詰みだ」
兄・曾我十郎祐成は、雨音に紛れて低く囁いた。目の前には、座間と本間の両陣営が向かい合って設営された巨大な木戸がある。煌々と燃える篝火が雨を弾き、数十人の郎等たちが辻を固めていた。
「何者だ!」
鋭い声が飛ぶ。
「こんな夜更けに、その物々しい格好……。怪しい。通すわけにはいかないな」
十郎は一歩前へ出た。その表情には、焦りも殺気も微塵もない。
「お騒がせして申し訳ない。不審に思われるのも無理はないが、我らは土屋殿から愛甲殿への使いの者だ。急ぎの案件ゆえ、通してはいただけまいか」
衛兵たちは顔を見合わせ、その落ち着いた態度に毒気を抜かれた。
「……土屋殿の使いか。ならば仕方あるまい。通れ」
まずは一つ目。十郎の「嘘」が鮮やかに決まった。
しかし、試練は続く。次に立ちはだかったのは、名門・千葉介の陣屋前。ここにはさらに強固な木戸が築かれ、重装備の警固兵たちが目を光らせていた。
「止まれ! 夜五つを過ぎての通行は禁じられている。いかなる理由があろうと通さん!」
ここで、弟の五郎時致の堪忍袋の緒が切れた。もともと直情径行で剛力を誇る彼にとって、復讐を前にした足止めほど屈辱的なものはない。
「……うるさい。俺たちは身内の者だ。どけ!」
五郎は強引に木戸を押し開けようとする。
「なんだと!? 控えろ! 我らが知らぬ身内などいるか! 名字を名乗れ!」
「名字などない! 通せと言ったら通すんだ!」
五郎の怒号。衛兵たちは一斉に太刀を抜いた。
「狼藉者だ! 出会い、出会え! この不届き者を叩き斬れ!」
五郎もまた、父の形見の太刀を握り直す。
「ほう、止めるというのか。ならば力ずくで通るまで。俺に組み付きたい奴からかかってこい。一人も生かしては帰さんぞ!」
一触即発。十七年の計画が、ここで瓦解しようとしていた――。
「――待て待て! 皆の衆、武器を収めてくれ!」
そこへ、十郎が割って入った。彼はあえて大きな声で笑い、五郎の肩を叩いた。
「……いやはや、申し訳ない。この若造は、庁南殿の配下の者なのですが、見ての通りの酒乱でして。北条殿への届け物を取りに行く途中、酒を煽ってこのザマです。どうか、この祐成に免じて許してやってほしい」
だが、衛兵たちは容易には引き下がらない。
「庁南殿だと? ならば確認する。ここで待て!」
(……不味いな。確認されたら終わりだ)
十郎の脳細胞が超高速で回転する。彼は即座に、相手の記憶を混乱させる「偽の共通認識」を構築し始めた。
「おやおや、お忘れですか? 我らは庁南殿の馬屋で働く兄弟、弥源次と弥源太ですよ。ほら、いつぞや宇都宮殿が北山へお出ましになった際、酒席でお会いしたではありませんか」
十郎は松明を少し脇へやり、あえて目をすがめて、親しげな表情を作った。すると、一人のベテラン雑色が、十郎の顔をじっと見つめて声を上げた。
「……ああ! 思い出したぞ。片瀬からの帰り道、一緒に飲んだあの時の!」
十郎は心の中でガッツポーズを作った。
「そうでございますよ! あの時はこの弟が、酔っ払ってひどい絡み酒をした……」
「はっはっは! 確かにあの時の酔っ払いに似ているな! おい、通してやれ。庁南殿の使いなら間違いない」
「待てよ、弥源太殿」
別の男がニヤリと笑って十郎を呼び止めた。
「あんた、あの時『二王舞』を踊って盛り上げてくれたじゃないか。これから大事な使いだろうが、景気付けに一番だけ見せてくれないか?」
(……二王舞だと!?)
十郎の背中に冷や汗が流れる。だが、彼は一瞬の迷いも見せず、優雅に頭を下げた。
「それは心残りですが……。生憎、今は大事な届け物の最中。もし遅れれば、庁南殿の首が飛びます。……この仕事が終われば、必ずや戻ってきて、最高の一番をお見せしましょう。濁り酒の一桶も用意しておいてくだされ!」
「ははは! 違いねえ。よし、早く行け!」
激しい音を立てて木戸が開く。兄弟は深々と一礼し、闇の中へと消えていった。虎の口を逃れたような、生きた心地のしない数分間だった。
「――五郎。お前のあの態度はなんだ」
警固の目が届かぬ場所まで来たところで、十郎が厳しく弟を咎めた。
「……兄上。ですが、あんな下っ端どもに馬鹿にされるのは……」
「孔子の言葉を知らないのか。『大事を成さんとする者は、少事にこだわらず』だ。俺たちの目的は、あの木戸を壊すことではなく、祐経の首を獲ることだろう。……お前の大力は、敵の喉笛を断つために使え。くだらない意地で浪費するな」
十郎の冷徹な正論に、五郎は黙って項垂れた。
「……すまなかった、兄上。俺が未熟だった」
「分かればいい。……俺の弁舌も、いつまで持つかわからない。行くぞ、次がいよいよ本命の屋形だ」
建久四年五月二十八日、深夜。雨はさらに激しさを増し、富士の裾野を白く染め上げる。
二人の「死神」は、今度こそ迷いなく、工藤祐経の寝所へと足を踏み入れた。十七年の怨念。その一太刀を振り下ろすまで、あと――数分。
曾我物語 巻第九(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔屋形屋形にて咎められし事〕
此処に、座間と本間と、屋形数十間、向かひ合ひてぞ打ちたりける。彼の両人が郎等、篝を数多所にたかせ、木戸をゆひ重ね、辻を固め、通るべき様こそ無かりけれ。如何せんとやすらふを見て、「何者ぞや。是程に夜ふけて通るは。殊に其の体事がましく出で立ちたり。あやしや。通すまじ」とぞ咎めける。「苦しからぬ者也。是も用心の形、人をこそ咎むべけれ」「いや、誰にても坐しませ。五つ以後の通ひ、適ふべからずとの御掟なり。通すまじき」とぞ支へける。十郎打ち向かひて、「御咎め有るまじき物なり。是は、土屋殿より愛甲殿への御使ひ也。通し給へ」と言ひければ、「然らば通せ」と許しけり。此処をば過ぎぬれど、未だ幾つの木戸、幾重の関、警固をか通るべき。事むつかしき折節かなと、足早に行きけるに、千葉介が屋形の前をぞ通りける。此処にも、木戸をきぶくたてて、半装束の警固の者数十人、是も、篝をたきてぞ固めける。「何物なれば、是程夜ふけて通るらん。遣るまじき」とぞ咎めける。五郎打ち寄りて、「御内方の者なり。苦しからず」とて打ち寄り、木戸を押し開く。「抑へて通るは、様有り。我等が知らぬ人有るまじ。御内方とは誰なるらん。名字を名乗れ」とぞ咎めける。「我等は、名字も無き者なり。通し給へ」と言ひければ、「御内方へとは、大様也。やはか通る」と広言して、木戸をあらくぞ押したてたる。五郎は、木戸をたてられて、大きにいかつて言ひけるは、「苦しからねば、通る也。苦しき者の振舞ひを見よ。是こそ、然る所へ強盗に入る者よ。止めんと思はん奴原は、組み止めよ。手には掛けまじき物を」と言ひければ、番の者共、是を聞き、「夜番の兵士は、何の用ぞや、斯様の狼藉鎮めん為也。打ち止めよ」と追ひ掛けたり。五郎も、「心得たりや、ことことし。かかりて見よ」と言ふ儘に、太刀取り直し、待ち掛けたり。十郎、少しも騒がず、しづしづと立ち帰り、「是は、更に苦しからぬ者にて候ふ。庁南殿より北条殿へ、大事の御物の具の候ふ、取りに参り候ふが、夜ぶかに候ふ間、人をつれて候へば、若き者にて、酒に酔ひ候ひて、雑言申し候ふ。只某に御免候へ」と、打ち笑ひてぞ言ひたりける。御免と言ふに、勝つに乗り、「然ればこそとよ、不審也。其の儀ならば、事安し。庁南殿へ尋ね申すべし。其の程待ち給へ」とぞ怒りける。十郎聞きて、斯かる勝事こそ無けれ、さりながら、陳じて見んと思ひければ、此の者共、怒りける其の中へ、ながながと立ち交はり、「御分達、我々をば見知り給はずや。庁南殿の御内に、弥源次・弥源太とて、兄弟の馬屋の者也。いつぞや、宇都宮殿、北山への御出の時、見参に入り候ひしをば、忘れ給ひ候ふや」と言ふ。其の中に、おとなしき雑色歩み出でて、十郎が顔をつくづくと守りけり。祐成、こはしと思へば、松明少し脇へまはし、眼を少しすがめて居たりけり。此の者共、よくよく守りて、「誠に思ひ出だしたり、片瀬よりせきとのへ御帰りに、寄り合ひたる様に覚ゆるぞや」。十郎、事こそよけれと思ひければ、「さぞかし、殿原、其の時の酒盛には、座敷の狂ひ人ぞかし。忘れ給ふか」と言ひければ、「実に、其の人にて坐しましけり。わ殿は、人をば宣へども、二王舞をばし給はぬか」。側なりける男が、「是程の知音にて坐しましけるや。御使ひなるに、急ぎ通し給へ」と言ふ。「哀れ、濁り酒一桶あらば、如何なる御使ひなりとも、得手の二王舞を所望申さぬか。一番見たし」と言ひければ、十郎聞きて、「同じ御心也。さりながら、後日に参り合はん」とて、余所目に懸けてぞ通りけり。此の者共打ち寄りて、「過ちしたりけん。通り給へや、人々(ひとびと)」とて、木戸を開きて押し出だす。兄弟の人々(ひとびと)は、鰐の口を逃れたる心地して、十郎言ひけるは、「斯様の所にては、如何にも、降をこふべきに、御分の雑言心得ず。孔子の言葉をば聞き給はずや。「事を見ては、いさむ事無かれ。大事の前に、少事無し」とこそ見え候へ。身ながらも、よくこそ陳じぬれ。是や、富楼那の弁舌にて、くわうの憤りを止めけるも、今に知られたり」とぞ申しける。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




