9-4 松明の残照 ――兄上、あなたの顔を忘れない
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年五月二十八日、深夜。降りしきる五月雨と轟く雷鳴。富士の裾野で、十七年越しの復讐を完遂しようとする兄弟――曾我十郎祐成と曾我五郎時致。
「……本当に行ってしまったな」
闇の中、遠ざかる馬の足音を聴きながら、曾我十郎祐成はぽつりと呟いた。
形見を抱え、空の馬を引いて曾我の里へと戻る鬼王と道三郎。その姿は、かつて悉達太子と呼ばれた若き日のブッダが十九歳で悟りを求めて出家した際、その愛馬と従者を王宮へ追い返した時の悲しみに似ていた。
主人のいない鞍を揺らし、涙と共に歩む従者たちの心の内は、もはや言葉では語り尽くせない。五月雨の雲に隠れた月のように、彼らの未来は真っ暗闇に閉ざされていた。
だが、残された兄弟に、もはや感傷に浸る時間は一秒も残されていなかった。
「……五郎。郎党たちは帰した。これで、この世に思い残すことは何一つない」
「はい、兄上。……いざ、最後の出陣といきましょう」
二人は静かに、しかし流れるような手際で「最終装備」を身に纏い始めた。
二人が選んだのは、これまでの浪人生活を象徴するような質素な、しかし誇り高い戦装束だった。
兄・曾我十郎祐成の装備は 白い帷子。脇を深く切り込み、動きやすさを確保。『村千鳥』の模様が染められた直垂。袖を結び、肩に掛ける。 斑模様の烏帽子を、激しい動きでも落ちぬよう強く結ぶ。武器は 黒鞘巻、赤銅造りの太刀。
弟・曾我五郎時致の装備は袷の小袖。狩場での実戦を想定したタフな造り。数多の『蝶』が舞う刺繍が施されていた『唐貲布』の直垂。紺地の袴。裾をゆるやかに絞り、俊敏なフットワークを可能にする。武器は源氏重代の魔剣『友切』。赤木の柄を握りしめ、肩に担ぐ。
その姿は、まるでいにしえの武神・不空が地上に降り立ったかのようであった。復讐という名の「聖戦」に挑む二人のステータスは、今、極限まで引き上げられていた。
準備を終えた十郎は、足元に置いていた松明を高く振り上げた。揺らめくオレンジ色の炎が、降りしきる雨のヴェールを裂き、二人の顔を照らし出す。
「……こっちを向け、時致。最後にお前の顔を……飽きるまで見ておきたい」
五郎はその言葉に従い、兄の瞳を真っ直ぐに見つめた。これから敵陣に飛び込めば、そこにあるのは血飛沫と怒号の世界だ。相手と刃を交えれば、もはやコンマ一秒の油断も許されない。
次に目を合わせた時、どちらかが、あるいは二人が、冷たい骸になっている可能性は……限りなく一〇〇%に近い。
(……この人が、俺の兄上だ。十七年、俺の道標だった人だ)
五郎は、兄の頬を伝う雨水が、一筋の涙のように見えるのを黙って見つめていた。
十郎もまた、弟の逞しくなった肩、そして決意に満ちた若々しい顔立ちを、脳細胞の一一つに焼き付けるようにして見守った。
「……もう、いいな」
「……はい。十分です、兄上」
十郎は松明を消した。世界は再び、完全な闇へと沈んだ。
「……行くぞ」
五郎が先頭に立って駆け出そうとしたその時。十郎がその袖を強く引き、足を止めさせた。
「待て。一つだけ、約束しろ」
「……何ですか、兄上」
「これから向かう工藤祐経の陣屋には、女たちが大勢いるはずだ。酒宴の最中だろうからな。……いいか、五郎。太刀を振り回す時は、心しろ。罪のない女性たちを、決して傷つけるな」
五郎は、兄の言葉に少し驚いた顔をした。復讐の鬼と化したはずの兄が、死の直前まで「武士の品格」を捨てていなかったからだ。
「女たちを手に掛ければ、それはただの『罪作り』だ。後世の世間に、曾我の兄弟は卑怯な人殺しだったと揶揄されるのも癪だからな。……分かったな?」
五郎は、暗闇の中で力強く頷いた。
「――仰る通りです。余計な心配は無用ですよ、兄上。俺たちの獲物は、あの祐経の首……ただ一つです!」
「よし。……急ぐぞ!」
二人は同時に地を蹴った。叩きつけるような雨の中、兄弟は足早に、しかし音もなくターゲットの寝所へと迫る。
雷光が走るたび、二人の影が地上の巨大な亀裂のように現れては消える。
建久四年五月二十八日、深夜三時。ついに、復讐の実行――「富士の夜襲」が始まる。ターゲット、工藤祐経の屋形まで、あと十歩。
曾我物語 巻第九(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔悉達太子の事〕
是や、悉題太子の、十九にて、菩提の志を起こし、檀特山に入り給ひしに、車匿舎人、犍陟駒を賜はり、王宮へ帰りし思ひ、今更に思ひ知られたり。鞍の上空しき駒の口を引き、古里へとは急げども、心は後にぞ止まりける。五月雨の雲間も知らぬ夕暮に、何処を其処とも知らねども、そなたばかりを顧みて、涙と共に歩みける、心の内ぞ、無慙なる。さても、此の人々は、「郎等共はこしらへ返しぬ、今は、思ひ置く事も無し。いざや、最後の出立せん」「然るべし」とて、十郎が其の夜の衣裳に、白き帷子の腋深くかきたるに、村千鳥の直垂の袖を結びて、肩に掛け、一寸斑の烏帽子懸を強く掛け、黒鞘巻・赤銅づくりの太刀をぞ持ちたる。同じく五郎が衣裳には、袷の小袖の腋深くかきたるを、狩場の用にやしたるらん、唐貲布の直垂に、蝶を三つ二つ所々に書きたるに、紺地の袴のくくりゆるらかに寄せさせ、袖をば結びて、肩に掛け、平紋の烏帽子懸を強く掛け、赤木の柄の刀を差し、源氏重代の友切肩に打ち掛け、誠にすすめる姿、ふきうが昔とも言ひつべし。頼もしとも余り有り。十郎、松明振り上げて、「此方へ向き候へや、時致。あかぬ顔ばせ見参せん」と言ふ。五郎聞きて、敵にあひ、刹那の隙も有るまじければ、是こそ、最後の見参の為なるべし。誠に、祐成を兄と見奉らんも、今計かと思ひければ、兄が顔をつくづくと守りけり。十郎も又、弟を見んも、是を限りと思ひければ、松明差し上げ、つくづく見、涙ぐみけり。互ひの心の内、推し量られて哀れなり。「今は是まで候ふ。御急ぎ候へ」とて、五郎、「先にすすみけるを、十郎、袖をひかへて、「女共数多有るべきぞ。太刀の振りまはし心得候へ。罪作りに、手ばしかくるな。後日の沙汰も、憚り有り」と言ひければ、「左右にや及び給ふ」とて、足早にこそ急ぎける
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




