7-5 弟の正論が兄の未練をぶち壊す 「未練の涙」vs「殺意の逢瀬」
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年(1193年)。鎌倉殿・源頼朝が主催する軍事イベント「富士の巻狩り」の決行当日。
復讐の刃を研ぎ澄ませ、十七年という気の遠くなるような時間を耐え抜いてきた兄弟、曾我十郎祐成と曾我五郎時致。母との涙の和解を終え、いよいよ彼らは「死地」へと足を踏み出す。
しかし、その道中には、思い出という名の「罠」がいくつも仕掛けられていた。かつて遊んだ川、育った山。それらすべてに別れを告げ、二人は現世の地図を「冥土の地図」へと書き換えていく。
曾我の里を出て、馬を走らせる兄弟。ふと、弟の五郎時致が、沈痛な面持ちで口を開いた。
「……兄上。私は今、かつて修行していた箱根の寺を思い出しています。あそこを忍び出た時、権現様に最後のご挨拶もせず、ましてや育ててくださった師匠にも、何も告げずにここまで来てしまった。……そのことだけが、今も恐ろしく、心残りなのです」
五郎は、暴力的なまでの執念を持つ一方で、誰よりも純粋に「因果」を信じる男だった。兄の十郎祐成は、馬上で頷いた。
「……そうだな。だが、俺たちの選んだ道は、神仏に褒められたものではない。だからこそ、黙って去るしかなかったのだ。……さあ、箱根の道にかかるぞ」
一行は、箱根路の入り口、鞠子川のほとりに辿り着いた。十郎は手綱を握り直し、濁った川の流れを見つめながら呟いた。
「五郎、覚えているか。お前が三歳、俺が五歳の時から、この川を月に何度も渡ってきた。あれから二十年だ。……今日、この川を渡り終えたら、もう二度と戻ることはない。そう思うと、いつになく川の水が濁って、不吉に見えるな……」
十郎の感傷的な言葉。だが、五郎の返答は、十郎の予想を遥かに超える「修羅の解釈」だった。
「兄上、それは当たり前のことです。人が冥土へ向かう時、目に映るすべての色は変わるのです。……いいですか、今の俺たちの景色はこう書き換わっています」
「曾我の里は娑婆の境界線。鞠子川は三途の川。湯坂峠は死出の山。鎌倉殿は閻魔大王。取り巻きは牛頭馬頭の鬼ども。
そして工藤祐経は俺たちを浄土へ導く善知識。箱根の師匠は地蔵菩薩といったところ。
――だから、この川が濁って見えるのは当然です。俺たちは今、生きながらにして『地獄の巡礼路』を歩んでいるのですから」
五郎は、ためらうことなく濁流に馬を打ち入れた。川の中ほどで、十郎は一首の和歌を詠み上げた。
「五月雨に 浅瀬も知らぬ 鞠子川 波に争う 我が涙かな」
(雨で増水し、どこが浅いかもわからぬこの川。押し寄せる波と同じように、俺の目からは止めどなく涙が溢れてくるよ……)
情緒あふれる、いかにも十郎らしい歌だ。だが、それを聴いた五郎は、馬上の革製の行縢をポンと叩き、あざ笑うように即座に言い返した。
「兄上、歌の体が悪すぎます。俺ならこう詠みますね」
「渡るより 深くぞ頼む 鞠子川 親の敵に 逢瀬と思えば」
(川の深さなどどうでもいい。この流れを越えれば、父上の仇との逢瀬が待っているのだから、俺は喜んでこの川を信頼するぜ!)
十郎は、弟の狂気に満ちた力強さに圧倒され、苦笑いするしかなかった。
箱根を越え、一行は湯坂峠に差し掛かった。十郎は馬を止め、弓を杖にして、遠く広がる相模の空を眺めた。
「……不思議なものだ。俺は伊豆で生まれ、相模で育ち、そして駿河の富士の裾野で露と消える。……三つの国を渡り歩いて、二十二年の人生が終わるのだな」
十郎は、雲の合間に見える一筋の煙を見つけた。
「あれは……曾我の里の火の煙だろうか。あそこに母上がいるのだろうか……」
従者の道三郎が、そっと進み出て訂正した。
「……いえ、殿。あちらの煙は別の場所です。……あの南にある、黒い森に雲がかかっているあたり。あそこが、曾我の里でございます」
十郎は、正された方角をじっと見つめ、またしても歌を口ずさむ。
「曾我林 霞なかけそ 今朝ばかり 今を限りの 道と思えば」
(曾我の林よ。せめて今朝だけは、霞で姿を隠さないでおくれ。これが俺にとって最後の景色なのだから)
「――兄上ッ!!」
五郎の怒鳴り声が響いた。
「いつまで大磯や小磯、故郷の景色に浸っているのですか! 私は今、どうやって祐経の首を獲るか、そのシミュレーションで忙しいのです! そんなに未練があるなら、お一人で大磯へ帰ればいい!」
五郎は馬に鞭を当て、猛スピードで200mほど駆け抜けてしまった。十郎は「興が醒めた」と思いつつも、慌てて後を追った。五郎は馬を止め、振り返って詰め寄った。
「いいですか、兄上。俺たちは死に行く身です。残された者への名残を惜しむのは、人間として当然でしょう。
……ですが、連れている鬼王や道三郎のことも考えてください!もし、俺たちがこんなところで和歌やら詩やらにうつつを抜かした挙句、本番でしくじったら、どうなりますか?
こいつら従者は曾我に帰り、『若旦那たちは道中ずっと歌を詠んでただけで、肝心なところでヘマしましたよ』と一生あざ笑われますよ! そんな恥をかきたくないなら、今すぐ前だけを見てください!!」
「…………っ。……分かった、五郎。お前の言う通りだ」
十郎は、ついに観念した。弟の「正論」に屈した十郎は、それ以後、一言も和歌を詠まず、脇目も振らずに馬を飛ばした。
感情を殺し、ただの「復讐のマシーン」となった曾我兄弟。彼らはついに、駿河の国・大崩に到着した。そこは、山が海に崩れ落ちるような険しい難所。
まるで彼らのこれからの運命を暗示するかのような、荒々しい光景。
建久四年五月二十八日、午後。ターゲット、工藤祐経の屋敷まで、あとわずか。
曾我物語 巻第七(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔鞠子川の事〕
「寺を忍び出で候ひし時、権現に御暇をも申さず、まして、師匠にかくとも申さざりし事、今に其の恐れ残りて覚え候ふ」と申したりければ、十郎も、「さこそ」とて、箱根路にぞかかりける。鞠子河渡りけるが、手網かいくり申しけるは、「わ殿三つ、祐成 五つの年より、二十余の今まで、此の川を一月に四五度づつも渡りつらん。如何なる日なれば、今渡りはてん事の哀れさよ。などや覧、いつよりも、此の川の水濁りて候ふ。心許無し」と言ひければ、五郎申す様、「皆人の冥途におもむく時は、物の色変はり候ふ。我等が行くべき道、曾我を出づるは、娑婆を別るるにて候ふ。此の川は、三途川、湯坂峠は、死出の山、鎌倉殿は、閻魔王、御前祗候の侍共は、獄卒阿防羅刹、左衛門の尉は、善知識、箱根の別当は、六道能化地蔵菩薩と念じ奉る。此の川の水、色変はると見えてこそ候へ」とて、駒打ち入れけるが、やや有りて、十郎、五月雨に浅瀬も知らぬ鞠子川波に争ふ我が涙かな五郎聞きて、歌の体悪しくや思ひけん、行縢鼓打ちならし、かくぞ詠じける、渡るより深くぞ頼む鞠子川親の敵に逢瀬と思へば斯様に思ひ連ね、通る所は阿弥陀のいんしゆ、かさまてら、湯本の宿を打ち過ぎ、湯坂峠に駒をひかへ、弓杖つきて、申しけるは、「人生まれて、三ケ国にてはつるとは、理也。我生まるる所は伊豆の国、育つ所は、相模の国、最後所は駿河の国富士野裾野の露と消えなん不思議さよ」。五郎聞きて、「其の最後所が大事にて候ふぞ。心得給へ」といさむれば、古里の名残や惜しかりけん、我が方の空をはるばるとながむれば、只雲のみうすけぶり、何処を其処共知らねども、「煙少し見えたるは、もし曾我にてや候ふらん」。道三郎、是を顧みて、「煙は余所にて候ふ。其れよりも南のくろき森に、雲のかかりて候ふこそ、曾我にて候へ」と申しければ、古き事共の思ひ出られて、曾我林霞なかけそ今朝ばかり今を限りの道と思へば と打ちながめ、涙ぐみけり。五郎、此の有様を見て、此の心に同心しては、はかばかしきことあらじ、いさめばやと思ひければ、しかり声に成りて、「殿こそ、大磯・小磯や古里をもながめ給へ。時宗におきては、思ふ事こそ、忙はしく候へ」とて、駒引き寄せ、掛け出だし、二町計掛け通りぬ。十郎、興さめて思ひながら、駒掛け出だし、追ひ付きけり。五郎又、引き下がりくどきけるは、「人界に生をうくる者、誰かは後の名残惜しからで候ふべき。鬼王・道三郎が心をも、御兼ね候へかし。彼等をば、曾我へ返し候ふべし。此の事適ひて候はば、申すに及ばず。し損ずる物ならば、此の人々(ひとびと)が、此処にて歌を詠み、彼処にては詩を詠じて、しもたてぬ事なんどあざけらんも、口惜し。如何ばかりとか思し召し候ふ」と申しければ、理に攻められて、其の後、歌をも読まず、横目をもせで、打ちける程に、大崩にこそ付きけれ。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




