7-3 母の愛はどこまでも残酷で、温かい
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年五月。鎌倉殿・源頼朝が主催する軍事イベント「富士の巻狩り」の決行当日。復讐の刃を研ぎ澄ませ、十七年という気の遠くなるような時間を耐え抜いてきた兄弟、曾我十郎祐成と曾我五郎時致。
「……時致、許しが出たぞ。こちらへ参れ」
十郎の声に導かれ、五郎時致が恐る恐る部屋に入った。三年の間、一目会うことさえ叶わなかった母。五郎は溢れる涙を袖で拭い、顔を上げることができない。十郎もまた、その光景に胸を打たれ、兄弟で言葉もなく泣き崩れた。
「……本当にお前たちは……」
母もまた、涙を流していた。
「親子というものは、これほどまでに切ないものなのですね。年老い、身も貧しく、取るに足らない私の言葉一つに、これほど泣き沈むお前たちの姿を見ていると……。親というものは、たとえ出来の悪い子であっても、その幸せを願わずにはいられないものなのです」
母は二人を近くに招き、まるで幼子を愛でるように、その身なりを見つめた。
「十郎の袴の着こなし、五郎の烏帽子の被り方……。ふとした仕草が、亡き父(河津三郎)を思い出させます。……さあ、座りなさい。今夜は、不孝の許しの証として、親子で盃を交わしましょう」
運ばれてきたのは、豪華な肴と酒。母が飲み、その盃を十郎が受ける。十郎が飲み、それを五郎が三度飲み干す。
「五郎。お前は箱根にいた頃、舞の名手だと聞いていました。……最後に、私に見せてはくれませんか?」
母の願いに、十郎が即座に腰から横笛を取り出した。十郎が奏でる「平調」の調べ。静まり返った夜の館に、澄んだ笛の音が響き渡る。五郎は扇を広げ、ゆっくりと立ち上がった。
「君が代は 千代に一度いる 塵の白雲 かかる山となるまで……」
五郎は、父を殺され、母に疎まれた十七年間のすべてをぶつけるように舞った。笛の音と、足拍子の音。母はそれを、ただの「門出の祝い」として微笑みながら見ていた。だが、兄弟にとっては、これがこの世で最後に見せる親孝行だった。
「……素晴らしい舞でした。これで思い残すことはありません」
母は満足げに頷き、一着の美しい小袖を取り出した。白地に「鶴の丸」が刺繍された唐綾の小袖だ。
「これは、十郎に貸しましょう。……十郎、お前はいつも私の小袖を借りては、誰か他の女性(虎など)にプレゼントして返さないけれど、これだけは絶対に返してちょうだいね。曾我殿(継父)もお気に入りの品なのだから。……必ず、生きて帰ってきて返すと、約束して」
「…………っ。はい。……承知いたしました。必ず、お返しします」
十郎は、嘘をついた。その小袖が、数日後には「返せぬ形見」になることを知りながら。
母の元を辞した兄弟は、自らの部屋に戻った。そこには、母から授かった小袖が置かれている。二人は無言で墨をすり、筆を走らせた。
「今日出でて めぐり逢わずは 小車の この輪の内に 無しと知れ君」
(今日出て行って、もし二度と会えなかったら、私はもうこの世にはいないと思ってください)
――曾我十郎祐成、二十二歳。後の世の形見として。
「秩父山 下ろす嵐の 激しさに 枝散り果てて 葉はいかにせん」
(父という枝を失い、俺たちという葉も今、嵐の中に散ろうとしている。母上、あなたはどうかお元気で)
――曾我五郎時致、二十歳。浄土にて必ずお会いしましょう。
二人は、自らの死を確信した文を書き終えると、それを丁寧に箱に収めた。さらに彼らは、自分たちが死んだ後に母が泣き崩れるであろう場所――部屋の隅の畳を綺麗に敷き直し、塵を払い、母が真っ先に文を見つけられるよう、障子の際に箱を置いた。
「……五郎。俺たちはもう、死んでいるも同然だ」
「ええ。死人は、正規の門からは出られませんね」
二人は、立派な表門を避け、馬屋の壊れた隙間から、ひっそりと外へ出た。それが、復讐者としての、そしてこの世との「訣別」の作法だった。
「……いざ、富士へ!」
馬に跨った兄弟だったが、十郎が「最後にもう一度だけ、母上の顔を見よう」と言い出した。二人は再び母の元へ駆け寄り、最後の暇乞をした。
「母上。行って参ります。……どうか、御達者で」
「ええ、気をつけて。……五郎、お前は血気盛んだから、他人と喧嘩してはいけませんよ。狩りでも、他人の獲物を横取りしたり、無茶をして頼朝様に睨まれないように……」
母の、ありふれた、しかし愛に満ちた小言。五郎はそれを黙って聞いていたが、部屋を出ようとしたその時――。
ガクッ!!
五郎は敷居につまづき、派手に前のめりに倒れ込んでしまった。
「…………っ!」
母の顔が引きつる。「門出のつまづき」は、武士にとって最悪の凶兆だ。
「時致……! 今日の出発は止めなさい! 縁起が悪すぎます!」
だが、五郎は強引に笑ってみせた。
「……ははは! 母上、見てください。東から西の枝へ渡る珍しい小鳥に見惚れて、不覚にも足元を疎かにしてしまいました。……馬に乗る者が落ち、道を歩く者が転ぶのは世の常。これで止まっていては、目的地には着けませんよ」
五郎はそのまま立ち去ろうとしたが、庭まで出て、またしても足を止めた。
「……兄上。……扇が。……扇が汚らしいので、母上のものを借りてきます」
五郎は再び母の元へ戻った。本当は扇などどうでもよかった。彼はただ、もう一度だけ、母の姿をその目に焼き付けておきたかったのだ。事情を知らぬ母は「適当なものしかないけれど」と、霞に雁の絵が描かれた扇を五郎に手渡した。
「……。ありがとうございます。……行って参ります」
十郎の供には道三郎。五郎の供には鬼王。数人の従者を引き連れ、兄弟はついに曾我の里を後にした。母は広縁に立ち、二人の後ろ姿をいつまでも、いつまでも、見送っていた。
「……十郎は、馬の乗り方や手綱の裁きが、父上にそっくり。でも、お顔の良さは父上には及ばないわね。五郎は山寺育ちで色が黒くて少し野暮ったいけれど、烏帽子の被り方がやはり父上に似ている……」
母は乳母の肩に手を置き、涙を流しながら微笑んだ。
「ああ。……もし、夫(河津三郎)が生きていて、成長したあの子たちの姿を一緒に見られたなら、どんなに幸せだったかしら。……きっとあの二人は、今回の巻狩りで手柄を立てて、領地を取り戻して、晴れやかな顔で帰ってくるわ。……そうでしょう?」
母は、急いで館の内へと入っていった。息子たちが戻った時に出す、最高のご馳走の準備を始めるために。その背後で。兄弟の馬の足音は、五月雨の煙る富士の裾野へと、静かに消えていった。
曾我物語 巻第七(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔勘当許す事〕
やや有りて、十郎、座敷を立ち、「御許し有るぞ、時致。此方へ参り候へ」。五郎は、しをるる袖に忍び兼ね、しばしは出でこそかねたりけれ。暫く有りて、時致、袖打ち払ひ、顔押しのごひ、出でければ、十郎も嬉しく、哀れにて、打ち傾き居たり。兄弟共に、物をも言はで、さめざめと泣き居たり。母、此の有様を見て、「実にや、親子の中程、哀れなる事無し。年おい、身貧にして、人数ならぬ童が言葉一つを重くして、泣きしをるる無慙さよ。かたはなる子をだにも、親は悲しむ習ひぞかし。如何でにくかるべき。只よかれと思ふ故なり」と言ひもわかで、母も涙を流しけり。其の後、兄弟の者共、畏まり居たるを、母、つくづくと守り、いつしかの心地して、「汝、自らを愚かにや思ひけん。十郎が有り所をみするに、五郎有りと言ふ時は、心安し。無しと聞けば、心許無くて、童も立ちて見しぞとよ。此の三年が程、打ち添はで、恨めしく思はれ、つくづく見るに、直垂の衣紋、袴の着際、烏帽子の座敷に至るまで、父の思ひ出だされ、昔に袖ぞしをれける。さても、五郎は、箱根にても聞きつらん。十郎は、如何にして、経文をば知りけるぞや」。祐成承りて、「馬やせて、毛長く、いばゆるに力無し。人貧にして、智短く、言葉賎し。何に依りてか、たふとくも候ふべき」。女房達聞きて、「勧学院の雀とかや」と申しければ、打ちゑみて、「それそれ、酒をのませよ」と有りければ、種々(しゆじゆ)の肴、盃取り添へて、二人の前にぞ置きたりける。母取り寄せ、のみ給ひて、其の盃、十郎のむ。其の盃を、五郎三度ほして置きければ、其の盃、母取り上げて、「此の三年、不孝の事、只今許したる証に、此の盃、思ひどりにせん。但し、親と師匠に盃さすは、必ず肴の添ふなるぞ。当時、鎌倉には、秩父の六郎が今様、梶原源太横笛と聞く。然れども、他人なれば、見もし、聞きもせらればこそ。わ殿は、箱根に有りし時、舞の上手と聞きしなり。忘れずは、舞ひ候へかし」。十郎、腰より横笛取り出だし、平調に音取り、「如何に如何に、遅し」と攻めければ、しばし辞退に及びけるを、十郎、はやしたてて待ちければ、五郎、扇を開き、かうこそうたひて、舞ひたりけれ。君が代は千代に一度ゐる塵の白雲斯かる山と成るまでと、押し返し押し返し、三返踏みてぞ舞ひたりける。其の儘、拍子を踏みかへて、別れのことさら悲しきは親の別れと子の歎きふうふの思ひ今兄弟いづれを思ふべき袖に余れる忍び音を返して止むる関もがなと、二返攻めにぞ踏みたりける。母は、昔を思ひいづれば、彼等は、さても憂き命近き限りの涙の露、思はぬ余所目に取り成して、袖の返しにまぎらかし、しばし舞ひてぞ入りたりける。かくて、酒も過ぎければ、十郎畏まつて、「今度、御狩に罷り出で、兄弟中に、如何なる高名をも仕り、思はず御恩にも預かり候はば、率塔婆の一本をも心安くきざみ、父聖霊にそなへ奉らばやと存じ候ふ」。母聞き給ひて、「などやらん、此の度の道心、心許無く覚ゆるぞや。よき程にも候はば、思ひ止まり給へかし。さりながら、もしやののぞみも哀れなり。女房達」と宣へば、白き唐綾に鶴の丸所々(ところどころ)にぬひたる小袖一つ取り出だし、「十郎にもとらせぬるぞ。失はで返し候へ。十郎は、つねに小袖をかりて返さず。是は、曾我殿の見たる小袖也。二度とも見えずは、又例の子供にとらせたりと思はれんも恥づかし。小袖をしたためておくべし。構へて構へて、とく帰り給へ」と有りければ、「承り候ふ」とて、練貫の損じたるに脱ぎかへ、「見苦しく候へども、人にたび候へ」とて、帰りにけり。小袖の用はあらねども、互ひの形見のかへ衣、袖なつかしく打ち置きける。さても、兄弟、座敷を立ちければ、母見送り、宣ひけるは、「過ぎにし頃、十郎、小袖をかり、二度とも見せず、如何なる遊び者にもとらせぬるよと思ひしに、さは無くして、弟の五郎にきせけるや。又近き頃、大口・直垂したててとらせしを、是も二度とも見せざりしが、道三郎にきせたりと思へば、是も弟にきせけるぞや。兄弟をば、野の末、山の奥にももつべかりけるぞや。父には、幼くしておくれ、一人の母には、不孝せられ、貧なれば、親しきにもうとく、有るか無きかに世に無し者、誰やの人か哀れむべき」とて、涙をはらはらと流し給ひければ、其の座に有りし女房達、袖をぞ濡らしける。さて、兄弟の人々は、我が方に帰り、此の小袖を中におき、「嬉しくも推参しつる物かな。只今許されずしては、多生をふる共適ふまじ。いきて二度帰る様に、小袖返せと仰せられつるこそ、愚かなれ。何しに返せとは言ひつらん、神ならぬ身の悲しさよと、後悔し給はん事、今の様に覚えたり」とて、打ち傾きて泣き居たり。「我等、世に有りて、心の儘に、親の孝養をも致さば、是程まで思はぬ事も有りなまし。此の三年こそ、不孝の身にては候へ。其れさへ恋しく思ひ奉る。或る時は、物ごしにも見奉りて慰みしに、只今御許しを蒙り、一日だにも無くて、出でん事こそ悲しけれ。死に給へる父を思ひて、孝養せんとすれば、いき給へる母に、物を思はせ奉る。然れば、我等程、親に縁無き物は無し。後の世まで尽きせぬ、手跡に過ぎたる形見無し。いざや、我等一筆づつ、忘れ形見残さん」とて、墨すり流し、かくばかり、「今日出でてめぐり合はずは小車のこのわの内に無しと知れ君祐成年二十二、後の世の形見」とぞ書ける。「ちちぶ山下ろす嵐のはげしさに枝ちりはてて葉は如何にせん五郎時致、生年二十、親は一世と申せ共、必ず、浄土にて参りあふべし」とこそかきたりける。各々、箱に入れて、「我等打たれぬと聞き給はば、母、此の所にまろび入りて、伏し鎮み給ふべし。いざや、御まうけせん」とて、畳しき直し、めんらうの塵打ち払ひ、先づ見給ふ様にとて、さし入りの障子の際にぞ置きたりける。「空しき人をば、常の所よりは出ださず。我等、死人に同じ」とて、馬屋のあれ間より出でたりける。最後の文にこそ、斯様の事まで書きにける。かくて出でけるが、「いざや、今一度、母を見奉らん」とて、暇乞にぞ出でける。母宣ひけるは、「構へて、人といさかひし給ふな。世に有る人は、貧なる者をば、をこがましく思ひあなづるべし。然様なりとも、咎むべからず。三浦・土肥の人々は、然様にはあらじ。其の人々に交はり、歩き給へ。心のはやる儘に、人の相付けたる鹿、射給ふべからず。公方の御許しも無きに、弓矢持たずとも、出で給ふべし。謀叛の者の末とて、咎めらるる事もやあらん。如何にも、事過ごし給ふな。年頃、にくまれずして養ぜられたる曾我殿に、大事掛けて、恨み受け給ふな」と、こまごまとぞ教へける。五郎は、聞きても色に出ださず、十郎は、斯様の教へも、今を限りと思ひ、心の色の現れて、涙ぐみければ、急ぎ座敷を立ちにけり。五郎も、名残の涙抑へ兼ね、余所目にもてなしけるが、妻戸の閾につまづきて、うつぶしに倒れけれども、人目にもらさじとて、「色有る小鳥の、東より、西の梢に伝ひしを、目に懸け、思はずの不覚なり」とて、打ち笑ひける。母、是を見給ひて、「今日の道、思ひ止まり候へ。門出悪しし」と有りければ、五郎立ち帰り、「馬に乗る者は落ち、道行く者は倒る。皆人ごとの事也。是はとて、止まり候はんには、道行く者候はじ」と、打ちつれてこそ出でにけれ。五郎は、猶母の名残をしたひ兼ね、今一度とや思ひけん、「扇の見苦しく候ふ」とて、帰りにければ、母、是をば夢にも知らずして、「折節、扇こそ無けれ、わろけれ共」とて、たびにけり。時致、是も形見の数と思ひ、母の賜はるよと思へば、扇さへなつかしくて、開きて見れば、霞に雁がねをぞ書きたりける。折にふれなば、夏山の、しげる梢の松の風、五月雨雲の晴間より、遠里小野の里つづき、我等が道の行く末も、現るべきに、さはあらで、其の色違ふも、理なり。憂き身の故と案ずれば、同じくは空に霞の関もりて雲路の雁をしばし止めん是は、為世卿の詠みし歌ぞかし。我が限りの道を歎け共、誰一たん止むる者も無きに、扇心の有るやらん、「しばし」と言ふ言の葉の読まれたり。十郎が、供には道三郎、五郎が供には、鬼王、其の外四五人召し具して、打ち出でける有様、母は、乳母引きつれ、広縁に立ち出で、見送り、様々にぞ言ひける。「直垂のき様、行縢の引き合はせ、馬乗り姿、手綱の取り様、十郎は、父に似たれども、器量は、遙かの劣りなり。五郎は、烏帽子の座敷、矢のおひ様、弓の持ち様に至るまで、父には少し似たれども、是も、遙かの劣り也。山寺にて育ちたれども、色くろく、下種しくみゆる。十郎は、里に住みしかととも、色白く、尋常なり。我が子と思ふ故にや、いづれも清げなる者共かな。如何なる大将軍と言ふ共、恥づかしからじ物を。哀れ、世にあらば、誰にかは劣るべき。同じくは、彼等を父諸共に見るならば、如何に嬉しく有りなん」と、さめざめと泣きけり。女房達、是を見て、「物への御門出に、御涙いまはし」と申しければ、「誠に、彼等貧なる出で立ち、すずろなる事共思ひ連ねられて、袖のみ昔にぬれ侍ふぞや。げにげに千秋万歳とさかふべき子供の門出、嬉しくも言ひ出だし給ふ物かな。此の度、御狩より帰りなば、上の御免蒙り、本領ことごとく安堵して、思ひの儘なるかへるさをまつべき」とて、急ぎ内にぞ入りにける。後に思ひ合はすれば、是ぞ最後の別れなりけりと、思ひ出でられて哀れなり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
https://share.google/uMQE6XFcSP1zbLr1W
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




