7-2 十郎の地獄の説得術
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年(1193年)。鎌倉殿・源頼朝が主催する軍事イベント「富士の巻狩り」の決行当日。復讐の刃を研ぎ澄ませ、十七年という気の遠くなるような時間を耐え抜いてきた兄弟、曾我十郎祐成と曾我五郎時致。
母からの完全な拒絶を受けた五郎。しかし、復讐という名の死を前にして、どうしても母の許しが必要だった。兄・十郎は、絶望する弟のために、知略と教養、そして最後には「狂気の芝居」を武器に「実の母」との最終交渉に挑む。
「……兄上。もう、無理です。母上の心は氷よりも冷たい」
曾我の館。広縁に泣き崩れる弟・五郎を見て、兄の十郎祐成は静かに障子を開けた。
中には、背を向けたままピクリとも動かない母の姿がある。十郎は、単に情に訴えるだけではこの局面を打開できないと悟っていた。彼は、仏典から、ある伝説を引き出した。
「――母上。『仁王経』の教えをご存知でしょうか」
「……何です。今は、お説教を聴く気分ではありませんよ」
「昔、天羅国に斑足王という王子がいました。彼は邪悪な師に唆され、一千人の王の首を神に捧げようと企みました。彼は数万の鬼王を率いて、すでに九百九十九人の王を捕らえたのです。あと一人……最後に捕らえられたのが、普明王でした」
十郎の声が、静まり返った館に響く。
「普明王は死を前にして、斑足王に一日だけの猶予を請いました。彼は故郷に帰り、百人の僧を招いて『般若波羅蜜』の教えを講じたのです。そこで僧はこう説きました。
『劫焼終訖、乾坤洞然……』
(世界が滅びる時、天地は燃え尽き、海も山もすべては灰となる。この世に永遠のものなど何一つない)
これを聞いた普明王は、万物は空であると悟りました。そして約束通り斑足王の元へ戻り、その悟りを語ったのです。するとどうでしょう。あの大悪党だった斑足王までもが、その真理に触れて涙を流し、捕らえていた千人の王をすべて解放し、自らも仏道に入ったというではありませんか」
十郎は母を真っ直ぐに見つめた。
「母上。千人の王を殺そうとした殺人鬼でさえ、一日だけの猶予と、真理を語る言葉で救われました。……ならば、たった一人の実の息子、五郎の過ちを許してはいただけませんか」
だが、母もまた、鎌倉武士の妻として、並外れた意志の持ち主だった。彼女は冷徹に、儒教と歴史のアーカイブから反論を繰り出した。
「……十郎。お前の言葉は美しいけれど、道理が抜けています。『家が貧しく、親が老いた時は、仕事を選ばず仕えよ』。それが人の子の道です。五郎は何をしましたか? 私の言葉を無視し、法師になることを拒み、ただ自分の執念に生きている。それは『愚か者』のすることです」
母は畳み掛ける。
「中国の偉人たちを見なさい。雪の中でタケノコを見つけた孟宗、氷の上で魚を獲った王祥。彼らは親のために、自分の目や耳、足や舌さえも犠牲にして仕えた。それが『孝行』というものです。……親の言葉を聞かぬ者に、何の価値がありますか。不孝者とは同じ道を歩むことさえ汚らわしい。十郎、お前もさっさとその五郎を連れて出て行きなさい!」
話合いは平行線だった。十郎は、五郎が箱根で毎日六万遍の念仏を唱え、父の供養を続けてきたことを訴えた。
「大地を支える神でさえ、不孝者の足音を悲しむ。だが、五郎は不孝ではない。彼は父を愛しすぎただけなのです」と。
それでも、母の心は動かない。
(――もう、普通の方法ではダメだ。母上の心の奥にある『本能』を叩き起こすしかない)
十郎は、突如として立ち上がった。
その瞳には、今まで見たこともないような凶暴な光が宿っていた。
「――分かった!! 母上がどうしても許さぬというのなら、これ以上、曾我の名を汚すわけにはいかん!」
十郎はバッと扇を開き、地響きのような大声を上げた。
「――おい! 五郎! 前へ出ろ!母上に許されず、生きる価値もない不覚者め。……他人の手にかけられるくらいなら、今ここで、この兄である祐成が貴様の首を叩き落として、母上への手土産にしてくれるわ!!」
「…………っ!!?」
十郎は、腰に差した伊東家重代の太刀に手をかけ、一気に抜き放とうとした。板敷を激しく踏み鳴らし、殺気全開で五郎に迫る。
「兄上……!? 本当に……?」
あまりの迫真の演技――いや、もはや演技を超えた狂気に、侍女たちは悲鳴を上げ、五郎も言葉を失った。
「――やめなさい!! 祐成!!」
その時だった。今まで背を向けていた母が、脱兎のごとく十郎に飛びつき、その腕を必死に抑え込んだ。
「何を狂ったことをしているのです! 十郎!! いくら不孝者だといっても、自分の弟を……目の前で殺す親がどこにいるというのですか!!」
母は十郎の直垂を掴み、泣きながら絶叫した。
「そんなことは望んでいません! やめなさい! 祐成、太刀を収めなさい!!」
「……母上。では、五郎を許してくださるのですか?」
十郎の鋭い眼光が、母を射抜く。母は、震える声で、ついにその言葉を口にした。
「……許します。許しますから……! だから、二人とも生きて……。殺し合いなんて、もう見たくない……!」
十郎は、ゆっくりと太刀の柄から手を離した。彼もまた、堪えていた涙が溢れ出し、膝をついた。
「……ありがとうございます。母上」
五郎もまた、嬉しさと悲しさが混じり合った、ぐちゃぐちゃな顔で母の足元にひれ伏した。
「許し」は得られた。だが、それは同時に「死ぬことの許可」でもあった。母は、息子たちがこの許しを得て、晴れやかな顔で富士の裾野へと消えていくことを悟り、声も出さずに泣き続けた。
「行くぞ、五郎」
「はい、兄上。……もう、何も思い残すことはありません」
兄弟は母から授かった小袖を纏い、富士へと馬を走らせた。
曾我物語 巻第七(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔斑足王が事〕
「仁王経の文をば御覧じ候はずや。昔、天羅国に、王一人坐します。太子有り、名をば斑足王と言ふ。外道羅陀の教訓に付きて、千人の王の首を取り、塚の神にまつり、其の位を奪ひ、大王にならんとて、数万の力士・鬼王を集めて、東西南北、遠国近国の王城に、押し寄せ押し寄せ搦め取り、既に九百九十九人の王を取り、今一人たらで、「如何せん」と言ふ。或る外道教へて曰く、「是より北へ一万里 行きて、王有り、名を普明王と言ふ。是を取りて、一 千人にたすべし」と言ふ。やがて、力士を差し遣はし、彼の王を取りぬ。今は、千人にみちぬれば、一度に首を切らんとす。此処に、普明王、合掌して曰く、「願はくは、我に一日の暇をえさせよ。古里帰り、三宝を頂戴し、沙門を供養して、闇路の頼りにせん」と言ふ。安き間の事とて、一日の暇を取らす。其の時、王宮に帰り、百人の僧を請じて、過去七仏の法より、般若波羅蜜を講読せしかば、其の第一の僧、普明王の為に偈をとく。「劫焼終訖、乾坤洞然、須弥巨海、都為灰煬」と述べ給ふ。普明王、此の文を聞きて、四諦十二因縁をえたり。ほんけむくうを悟る。然ればにや、斑足王、諸法皆空の道理を聴聞して、忽ちに悪心を翻して、取りこむる千人の王に曰く、「面々の科にはあらず。我外道にすすめられ、悪心をおこす。不思議の至りなり。今は、助け奉るべし。急ぎ本国に帰り、般若を修行して、仏道をなし給へ」とて、即ち、道心おこし、無生法忍をえたりと見えたり。是も、普明王を許してこそ、共に仏果をえ給ひしか」。母聞きて、「其の如く、仏果を証して、多くの人を助くべき。汝、などや法師に成りて、童をばすくはぬぞ。誠や、「重きに従つて、道遠ければ、やすむ事、地を選ばず。家貧にして、親おいたる時は、官を選ばずして、仕へよ」とこそ、古き言葉にも見えたれ。何とて、童が言ふ事を聞かざるぞ」。五郎も、思ひ切りたる事なれば、居なほり畏まつて、「只御許し候へ」とのみぞ申し居たりけれ。十郎は、我が所にて、五郎をまて共、見えざりけり。余りに遅くて、又母の方へ行きて見れば、五郎、内までは入り得ず、広縁に泣きしをれて居たり。余りに無慙に覚えて、障子を引きあけ、畏まつて、五郎が申す理、つくづくと聞き居たり。やや有りて、「某、兄弟数多候へ共、身の貧なるに依りて、所々の住まひ仕る。只、あの殿一人こそ、つれ添ひては候へ。祐成を不便に思し召され候はば、御慈悲を以て、御許し候へかし。御子とても、御身に添ふ者、我等二人ならでは候はぬぞかし」。母聞きて、「意にあふ時は、胡越もらんていたり。あはざる時は、骨肉もてきしやうたり。智者の敵とは成るとも、愚者の友とは成るべからず。位の高からぬを歎かざれ、知のひろからぬをば歎くべし」とは、漢書の言葉ならずや」。十郎承りて、「其れは、然る事にて候へ共、観経の文を見るに、「諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、子不念父母」ととかれて候ふ。此の文を釈すれば、「仏は衆生を思し召さるれども、衆生は、仏を思はず」とこそ見えて候へ。親として、子を思はぬは無き物をや」。母聞きて、「汝等は、親のよきを申しあつむるかや。出で又、自ら、子の孝行なる事を言ひて聞かせん。孟宗は、雪の内に筍をえ、王祥は、氷の上に魚をえ、くわけんは、眼を抜き、おんせうは、耳をやき、ちそくは、足を切る、せんめむは、舌を抜き、くわそくは、歯を施し、くはふめいは、身をあたへ、めうしき、子を殺す。これ皆、孝行の為ならずや。「扁鵲も、鍼薬をしやうぜざる病を治せず。けんしやう王も、善言の聞かざる君をば用ひず」とこそ申せ。人の言葉を聞かざる者、何の用にか立つべき。其の上、不孝の者をば、同じ道をも行くべからず。急ぎ出でよ」と言ひける。祐成、重ねて申しけるは、「一旦の御心を背き、法師にならざるは、不孝ににて候へ共、父母に志の深き事、法師によるべからず、僧俗の形にはよるべからず。時致、箱根に候ひし時、法華経を一部読み覚え、父の御為に、はや二百六十 部読誦す、毎日、六万返の念仏怠らずし、父に回向申すと承り候へば、大地を頂き給ふ堅牢地神も、地の重き事は無し。不孝の者の踏む跡、骨髄に通りて、悲しみ給ふ也。一つは、彼の御跡を弔ひ、一つは、御 慈悲を以て、祐成に御許し候へかし。父に幼少よりおくれ、親しき者は、身貧に候へば、目も懸けず、母ならずして、誰か哀れみ給ふべきに、斯様に御心強く坐しませば、立ち寄る陰も無き儘に、乞食とならん事、不便に覚え候ふぞや」。哀れ、実に今を限りと申すならば、如何安かるべきを、申す事ならねば、忍びの涙に目もくれて、暫くは物も言はざりけり。猶も、「許す」と宣はねば、十郎、怒りて見ばやと思ひて、持ちたる扇をさつと開き、大きに目を見出だし、「とてもかくても、いきがひ無き冠者、有りても何にかあふべき。御前に召し出だし、細首打ち落として、見参に入れん」と、大声を捧げ、座敷を立つ。女房達驚き、「いかにや」とて、取り付く袖に引かれて、板敷あらく踏みならし、怒りければ、母も驚き、すがり付き、「物に狂ふか、や、殿。身貧にして、思ふ事適はねばとて、現在の弟の首を切る事や有る。其れ程までは思はぬぞ。しばし、や、殿」とて、取り付き給ふ。事こそよけれと思ひければ、「助け候はん。御許し候へ」と言ふ。母、「然らば、許す。止まり候へ」と宣へば、其の時、十郎、怒りを止めて、声をやはらかにして、座敷になほり畏まり居たりけり。然れども、忍びの涙のすすみければ、とかく物をも言はざりけり。五郎も、恨みの涙の引きかへて、嬉しさの忍びの涙しきりにして、前後を更にわきまへず。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




