7-1 夢の浮世、最後の中庭
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
復讐の刃を研ぎ澄ませ、十七年という気の遠くなるような時間を耐え抜いてきた兄弟、曾我十郎祐成と曾我五郎時致。これから向かうのは、成功しても失敗しても「死」が待つ片道切符の戦場。
だが、その前に彼らには、どうしても済ませておかなければならないことがあった。それは、自分たちを育ててくれた母への別れ。
「――ああ。綺麗だな、五郎」
曾我の館。初夏の光が降り注ぐ庭で、兄の十郎祐成はぽつりと呟いた。そこには、兄弟が手入れをしてきた千草が、生命の輝きを放ちながら咲き誇っていた。
だが、十郎の瞳に映っているのは、花の美しさではない。その奥にある「終わり」だ。
「迷いの前の『正しい』も『間違い』も、すべては間違いだ。夢の中で見る『有る』も『無い』も、目覚めればすべては無。……俺たちがこうして生きているのも、夢のような幻に過ぎないのかもしれないな」
十郎は、草を分けて咲く卯の花を見つめた。ふと見ると、一房の白い蕾が、開花することなく地面に落ちている。
「見てくれ、五郎。……蕾のまま散る花がある。まるで、老いた母を残して先に死んでいく、俺たちのようじゃないか」
五郎時致は、その花を拾い上げ、唇を噛みしめた。
「……草木に心がないなんて、誰が言ったんでしょうね。お釈迦様が亡くなった時、庭の木々までが嘆き悲しんだという伝説があります。この花も、俺たちの最後を悟って、身代わりに散ってくれたのかもしれません」
二人はさらに庭の奥へ進む。
そこには、二十日ほどしか咲かないことからその名がついた二十日草が、今を盛りと咲き誇っていた。
「卯の花は蕾で散り、牡丹は豪華に咲いてすぐ消える。……どちらにせよ、花の命に限りがあるのは同じ。……そして俺たちの命もな。……五郎、行くぞ。母上に、最後の挨拶だ」
十郎は、母の部屋の前に座した。母は、愛息の突然の訪問を喜んだが、同時に胸を騒がせていた。
「母上。祐成でございます。……実は今日、富士野の巻狩りの御供に加わることにいたしました。浪人の身とはいえ、末代までの思い出に、鎌倉殿の行列に加わりたいのです」
十郎の言葉は、完璧な「嘘」だった。母は、不安そうに眉をひそめる。
「……祐成。巻狩りなんて、不吉ですよ。お前の父上、河津殿も狩場で討たれた。祖父の伊東殿も狩場で病を得て亡くなった。曾我の男にとって、狩場は呪われた場所。……行かないでおくれ」
「……。ですが、もう決めたのです。母上、お願いです。最後に……いえ、今日のために、あなたの小袖を一着、貸してはいただけませんか。それを着て、曾我の嫡男としての意地を見せてやりたいのです」
十郎の決意が固いことを知り、母は諦めたように一着の小袖を取り出した。それは、秋の野に萩や女郎花が刺繍された、美しい「練貫の小袖」だった。
「……これを着ていきなさい。そして、必ず、生きて戻るのですよ」
「……はい。ありがたく頂戴します」
十郎は障子の影で、自らが着ていた小袖を脱ぎ、母の小袖に袖を通した。脱ぎ捨てた自分の小袖を、そっとその場に置いていく。それが、自分が死んだ後の「形見」になることを、母はまだ知らない。
十郎が部屋を出ると、そこには不孝の身として勘当されている弟、五郎が立っていた。五郎は震える声で兄に頼んだ。
「兄上……。俺も、母上に一目だけ会いたい。勘当されたまま死ぬのは、あまりにも無念です」
十郎は頷き、母を説得しようとした。だが、母の反応は氷のように冷たかった。
「……誰が来たというのです。私には、十郎という息子しかおりません。京都にいる小二郎は仕事に励み、二宮の娘も立派にやっている。越後にいる禅師法師も叔父が育てている。……ですが、『箱王』なんて名前のろくでなしは、とうの昔に勘当しました。行方も知りません。
……そこにいるのは、どこの貧乏な餓鬼ですか? 人を呼びますよ。さっさと門の外へ出しなさい!」
「…………っ!!」
五郎は、障子ごしに広縁にひれ伏した。
「……母上! 箱王です! 時致が参りました! どうか……最後のお願いです。兄上と同じように、俺にも着替えの小袖を一着ください! それを鎧の下に着て、父上の仇討ちを……!」
「――聞きません! 七代先まで親不孝を続けるがいい! 私は、お前のような不吉な子と、顔を合わせるつもりなど毛頭ないわ!」
母の絶叫。曾我五郎という最強の武者が、その一言に、子供のように肩を震わせて泣き崩れた。
五郎は、涙を拭い、声を低くした。彼は仏教の深い知識を用い、母の頑なな心を溶かそうと「最後の賭け」に出た。
「……母上。どうか聞いてください。昔、天竺に『しょうめつ婆羅門』という、世にも恐ろしい男がいました。彼は千人の命を奪うという誓いを立て、九百九十九人を殺しました。最後に、彼は自分の父の命日にもかかわらず、一匹の亀を殺そうとしました」
五郎の声が、静まり返った館に響く。
「母がそれを止め、『その亀は逃がしなさい、父上の命日ですよ』と言いました。男は亀を逃がしましたが、逆上して実の母に剣を向けたのです。……その瞬間、大地が裂け、彼は地獄へ落ちました。……ですが、たった一匹の亀を助けた功徳により、彼は後に仏として救われたのです。……母上。どんなに悪逆な子であっても、親だけは慈悲をかけるのが道理ではありませんか!」
母は沈黙している。五郎はさらに畳み掛けた。
「もう一つ、物語を。ある国の王妃が、三年経っても生まれない太子のために、自らの腹を裂いて子を救いました。王妃は十九歳の若さで亡くなりましたが、救われた太子は後に千間の御堂を建てて母を弔った。それが今の慈恩寺の始まりです。……母の慈悲とは、己の命を捨ててでも子を想うものでしょう! なぜ、俺をそこまで拒むのですか!」
五郎の魂の叫び。だが、その努力は、最悪の形で裏目に出た。
「――うるさい! 黙りなさい!!」
母の声は、怒りで裏返っていた。
「私に向かって、腹を裂いて死ねというのですか!? お前は、どこまで私を呪えば気が済むの! 仏教の教えを盾に、親を脅すなんて……! さっきの言葉、一生忘れませんよ。十郎! さっさとこの男を連れて行きなさい! 二度と……二度と私の前に姿を見せないで!!」
ピシャリ!!激しい音と共に、障子が閉められた。そこには、もはや言葉を届ける隙間さえなかった。
「…………。終わったな、五郎」
十郎が、静かに弟の肩を叩く。五郎は、真っ赤な目で地面を見つめたまま、一言も発することができなかった。母の愛を得られぬまま、死地へ向かう。それは、復讐者として完成するための、最後で最大の「絶縁」の儀式だったのかもしれない。
「……行きましょう、兄上。……俺には、もう、これしかありません」
五郎が腰の太刀の柄を握る。その指先には、白くなるほどに力が入っていた。
曾我物語 巻第七(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔千草の花見し事〕
「夫れ、迷ひの前の是非は、是非共に非なり。夢の内の有無は、有無共に無也。然れば、我等が身の有様、あれば有るが間也。夢の浮き世に、何をか現と定むべき。然れば、刹那の栄華にも、心をのぶる理を思へば、無為の快楽に同じ。いざや、最後のながめして、しばしの思ひを慰まん」とて、兄弟共に庭に下りて、うゑ置きし千草のさかえたるを見るにも、名残ぞ惜しかりける。「心のあらば、草も木も、如何で哀れを知らざるべき」と、彼方此方にやすらひけり。是によそへ、古き歌を見るに、故郷の花のもの言ふ世なりせば如何に昔の事を問はまし今更思ひ出でられて、情を残し、哀れを掛けずと言ふ事無し。五郎きいて、「草木も、心無しとは申すべからず。釈迦如来、涅槃に入らせ給ひし時は、心無き植木の枝葉に至るまでも、歎きの色を現しけり。我等が別れを惜しみ候ふやらん。如何でか知り候ふべき」とて、草を分けければ、卯の花のつぼみたる、一房落ちたりけり。十郎、是を取り上げて、「如何に、見給へ、五郎殿。老少不定の習ひ、今に始めぬ事なれ共、おいたる母は止まり、若き我等が先立ち申さん事、是にひとしき物を。開きたるは止まり、つぼみたるはちりたるとや。名にしおふ忘草ならば、名残を忘れてやちりつらん。其れは、昔、住吉に、諸神影向なりける事有り。御帰りを止め奉らんとて、此の花をうゑて、忘草と名づけ給ひけるなり。歌にも、紅葉ぢては花さく色を忘草一つ秋ながら二まちの頃其の忘れ草は、紫苑とこそ聞きて候へ」とて、猶草むらに分け入りければ、ふかみ草のさかりさきたるを見て、「卯の花は、つぼみてだにもちるに、此の花の思ふ事無げにさかりなるや。如何にさくとも、二十日草、さかりも日数の有るなれば、花の命も限り有り。哀れ、身に知る心かな」と涙ぐみければ、五郎聞きて、「此の草の事は、花開き落ちて同じく、一城の人たぶらかすが如しと見えたり。是は、楽府の言葉なり。又、歌にも、名ばかりはさかでも色のふかみ草花さくならば如何で見てましと口ずさみければ、十郎聞きて、「此の歌は、未ださかざる時も、色深き草とこそ詠みたれ。さかりの花にも、心や違ふべからん」とたはぶれけるにも、哀れ残さぬ言の葉は無かりけり。無慙なりし志共なり。「さても、我等が思ひ立つ事、母に露程も知らせ奉るべきか。はからひ候へ」と言ひければ、時致聞き、「思ひもよらぬ御事なり。是程思ひ定めざる前は知らず、今は如何でか変じ候ふべき。其の上、人の子が謀叛起こして出で候はんに、其の親聞きて、急ぎしにて、もの思はせよとて、喜ぶ母や候ふべき。某は、只御形見を賜はりて、最後まで身に添へ、此方よりも又参らせて、罷り出でんとこそ存じ候へ」。十郎聞きて、「誠に此の儀然るべし。然らば、其のついでに、御分が勘当をも申し許して見ん」とて、母の方へぞ出でたりける。 十郎、御前に畏まり、扇笏に取り、申しけるは、「奉公を致し、御恩蒙るべき身にては候はね共、末代の物語に、富士野御狩の御供に思ひ立ちて候ふ。恐れ入りたる申事にて候へ共、御小袖を一つかし賜はり候へ」と申しければ、母聞きて、「「君臣を使ふに、礼を以てし、臣君に使ふるに、忠を以てす」と、論語の内に候ふぞや。何の忠に依つてか、御感も有るべき。御恩無くは、無益なり。哀れ、此の度の御供は、思ひ止まり給へかし。如何にと言ふに、伊東殿父、奥野の狩場より、病づきて帰り、幾程無くて、死に給ひぬ。御分の父、河津殿、狩場にて打たれ給ひ、斯かる事共を思ひ続くるに、狩場程憂き所無し。しかも、謀叛の者の末、上にも御許し無きぞかし。又、馬鞍見苦しくて、物を見れば、帰りて人にみらるる物を。思ひ止まりて、親しき人々の方にて慰み給へ。斯様に申せば、小袖を惜しむに似たり。よくは無けれ共、紋柄面白ければ」とて、秋の野にすりつくしぬひたる練貫の小袖一つ取り出だしてたびにけり。畏まつて、障子の内にてきかへ、我が小袖をば打ち置きて出でぬ。なき後の形見にとぞ思ひ置きたりける。五郎は不孝の身にて、兄が方に、空しく泣き居たり。よくよく物を案ずるに、母の不幸を許されずして、死なん事こそ無念なれ。推参して見ばや。いきたる程こそ仰せらるるとも、死して後、くやみ給はん事、疑ひ無し。思ひ切り申して見んとて、母の方へは出でたれども、さすがに内へは入りえず、広縁に畏まり、障子を隔てて、「そも、誰が御子にて候はん、時致にも、召しかへの御小袖一つ賜はりて、狩場のはれにき候はん」。母聞きて、「誰そや、来たりて小袖一つと言ふべき子こそ持たね。十郎は、只今取りて出でぬ。京の小二郎は、奉公の者なり。二宮の女房、又斯様に言ふべからず。禅師法師とて、乳の内より捨てし子は、叔父養育して、越後に有り。又、箱王とて、わろ者の有りしは、勘当して、行く末知らず。是は只、武蔵・相模の若殿原の貧なる童を笑はんとて、かく宣ふと覚えたり。しかも、留守居の体見苦し。はや門の外へ出で候へ」と、殊の外にぞ言ひける。時致思ひ切りたる事なれば、「其の箱王が参りて候ふ」「其れは、誰が許し置きたるぞ。女親とて、賎しみ候ふか、然様には候ふまじ。とても、斯様にあなづらるる身、七代まで不孝するぞ。対面思ひもよらず」とぞ言ひける。五郎は、許さるる事は適はで、結句、後の世までと、深く勘当せられて、前後を失ひ、物思ひはててぞ居たりけり。やや有りて、小声に成りて申しけるは、「斯様の身に罷り成りて、重ねて申し入るべき事、上までも恐れにて候へば、女房達、心有る人あらば、聞こし召せ。人の親の習ひ、盗みする子はにくからで、縄作る者を恨むるは、常の親の習ひにて候ふぞや」。母聞きて、「然様ならん者を、わ殿が母にして、童が様なる者をば、親とな思ひそとよ。人の言葉を重くせず、言葉を返す、憂き子かとよ」「御言葉を重くして、御返事を申さじとてこそ、御前の人々には申し候へ」「然様に申せば、返事にては無きか。一念の瞋恚に、倶胝劫のせんこをやき、刹那の怨害には、無量の苦報を招く。聞けば、いよいよ腹ぞ立つ。其の座敷立ちて」と宣ふ。「恐れながら、普門品をば遊ばし候はずや」「如何なる観音の誓ひにも、背く者許し候へとはとき給はぬぞ」。「聞こし召され候へ。昔、天竺に、しやうめつ婆羅門と言ふ人有り。物の命を千日千殺して、悪王に生まれんと言ふ願を起こし、はや九百九十日に、九百九十九の生物を殺し、千日に満ずる日、西山に上りて見れ共無し。玉江に下り、船に乗り、海中に出でて、比翼の亀を一つ取りて、害せんとす。母、是を悲しみて、渚に出でて見れば、波風高くして、雲の雷電おびたたしく、其の中に、婆羅門、亀を害せんとす。母是を見て、「其の亀はなせ。汝が父の命日ぞ」。婆羅門聞きて、「忌日ならば、沙門をこそ供養せめ」と言ひて、抑へて殺さんとす。亀涙を流して、我が八十年後、我不堕地獄、大慈大悲故、必生安楽国」とぞ鳴きける。母、是を聞き、「汝、亀の言葉聞き知れりや」「知らず」と答ふ。「亀は、罪深き物にて、万劫の罪障をへて、成仏すべきに、今剣に従はば、又劫をへ返すべき悲しさよと也。願はくは、其の亀をはなして、自らを殺し候へ」と言ふ。「誠に亀の命に代はり給ふべきにや」と言ひもはてず、亀を海上に投げ入れ、即ち剣を抜き、母に向かふ時、天神地神も、是を捨て給へば、大地さけわれて、奈落に沈む。母を殺さんとする子の命を悲しみて、心ならずに母走り向かひ、婆羅門が髻を取り給へば、即ち頭はぬけて、母の手に止まり、其の身は無間に沈みけり。され共、亀をはなせし力に依りて、仏果をえ、法華経の普門品を、婆羅門身ととかれたる。斯様の子をだにも、親は哀れむ習ひにて候ふ物を」。母聞きて、「や、殿、其れも、母が言ふ事を聞きて、亀をはなちてこそ、成仏はし給へ。汝、何と無く我らはが教へを聞かざるぞ」「わろき子を思ふこそ、誠の親の御慈悲にては候へ。又、母の哀れみの深きには、事長く候へ共、或る国の王、一人の太子の無き事を歎き、天に祈りし感応にや、后懐妊し給ふ。国王の喜びなのめならず。され共、三年まで生まれ給はず。公卿僉議有りて、博士を召して尋ね給ふ。勘文に曰く、「御位は転輪聖王たるべし。但し、御産はたひらかなるまじ」と申す。后聞き給ひて、「賢王の太子、如何で空しくすべき。自らが腹をさき破りて、王子をつつがなく取り出だすべし」と宣ふ。大王、大きに歎きて、許し給はず。后、「然らば、干死にせん」とて、食事を止め給ひしかば、力無く、大臣に仰せ付けて、御腹をさかれにけり。其の半ばに、后仰せられけるは、「太子の誕生は如何に」と問はせ給ふ。「御つつがなし」と申せば、喜び給ふ色見えて、打ちゑみたる儘、御年十九にて、はかなくなり給ひぬ。さて、此の太子、御位につき給ひしが、母の御志を悲しみ、御菩提の為、三年胎内にして苦しめ奉りし日数千日にあてて、千間に御堂をたて給ひけり。今の慈恩寺是也。日本には、西の寺なり。然ればにや、后即ち成仏し給ふ時に、こん蓮台を傾け、来迎し給ふ。其のしこんになぞらへて、藤を多くうゑられたり。さてこそ、藤の名所には入りたりけれ。母親の慈悲は、斯様にぞ候へ」。母聞きて、「おいたる自ら、あはぬ教へのむつかくして、腹をもさきて、死に失せよと。汝も、母と見ず、童も、子とも思はぬまで」とて、障子あららかにたて給ふ。只今はてずは、永劫をふる共、適ふまじければ、五郎打ちふてて、
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




