6-5 死地へ消える背中、残された者の絶望
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年(1193年)。復讐の舞台となる「富士の巻狩り」へ、死を覚悟して馬を走らせる曾我十郎祐成。その背後には、山彦山の峠で泣き崩れる最愛の女性、大磯の虎の姿があった。
しかし、この「二人の別れ」は、単なる男女の悲恋ではない。それは、遥か神話の時代、この日本の聖地・比叡山が誕生した時に、二人の仏が交わした「運命の別離」の再現でもあった。
時間を巻き戻そう。天地が分かたれたばかりの神話の時代。人の寿命が二万歳だった頃の話だ。西の天で悟りを開いた大聖釈尊は、自分の教えを広めるための最高の霊地を探していた。彼は空中を飛行し、人の住む世界、南閻浮洲をくまなく見渡した。すると、遥か十万里の波濤の向こうから、不思議な歌が聞こえてきた。
「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」
(すべての生き物には仏の心が宿っている。仏の力は永遠であり、変わることはない)
釈尊はその声に導かれ、大海原の上を飛んだ。すると、荒れ狂う波の中に、たった一枚の「葦の葉」が浮かんでいるのを見つけた。不思議なことに、激しい海流はその葦の葉の周りでピタリと止まり、穏やかな土となった。
「ここだ。こここそが、私の法を広めるべき霊地となるだろう」
その場所こそが、今の比叡山の麓。この「一葉の葦」から国が始まったため、日本は「葦原の中つ国」と呼ばれるようになった……という、壮大なスケールの創生神話である。
釈尊がその地に降り立つと、湖(琵琶湖)のほとりで釣りをしている一人の老翁に出会った。
「翁よ。もしお前がこの場所の主なら、この地を私に譲ってほしい。ここに仏法の結界を築きたいのだ」
だが、その老人は首を横に振った。
「冗談じゃない。わしはな、人の寿命が六万歳だった頃からここを治めている。この湖が七回も葦原に変わるのを見てきた本物の主だ。ここに結界なんて作られたら、わしの釣り場がなくなってしまうわい」
釈尊ほどの仏であっても、地元の頑固な地権者には勝てない。彼が諦めて立ち去ろうとしたその時。
東の方角から、瑠璃色の光を放つ尊者が現れた。薬師如来である。
「釈尊よ、案ずるな。……老翁よ、お前はわしのことを知らぬようだが、わしは寿命八万歳の頃からこの地の王だ。お前の権利など、わしの前では無に等しい。さあ、この地を釈尊に明け渡せ」
圧倒的な上位存在である薬師如来の介入により、老人はついに降参した。釈尊と薬師如来は、それぞれ「西」と「東」の守護者として、比叡山という名の巨大な霊地を創り上げた。
そして、役目を終えた二人の仏は、東と西へと、再び分かれて去っていった。この「仏の別離」こそが、日本の歴史に刻まれた「運命的な別れ」の原型だったのである。
物語は再び、曾我十郎と虎の別れに戻る。山彦山の峠。東の富士へ向かう十郎と、西の大磯へ戻る虎。釈尊と薬師如来が分かたれたように、二人の進む道はもう二度と交わらない。十郎の姿が山影に消えるまで、虎は見送るのをやめなかった。
「……ああ。本当に、行ってしまわれた」
虎は大磯の宿へ帰り着くと、馬から下りるなり、着ていた衣を頭から被って泣き崩れた。迎えた仲間の遊女たちが、「どうしたの? 十郎さんに捨てられたの?」と冷やかしにくるが、虎は返事もできない。
今の彼女にとって、世界は色を失っていた。十郎の直垂の奥に隠された「復讐」という名の死の決意。それを知っているのは、この広い世界で、自分と弟の五郎だけなのだから。
そこへ、十郎を富士まで送り届ける任務を帯びた従者・道三郎がやってきた。彼は十郎の馬を引くために、虎に最後の手暇を告げにきたのだ。
「虎御前。……殿も、今朝は決死の覚悟で旅立たれました。私もお供いたします。……おさらばでございます」
虎は道三郎を呼び寄せ、震える声で言った。
「道三郎……。三年の間、あなたにも本当にお世話になりました。……あなたとさえも、もうお別れなのですね。悲しくてたまらないわ」
道三郎は言葉を詰まらせた。本来、武士の従者にとって、主人の愛人は直接の主ではない。だが、十郎と虎が命を削り合うように愛し合っていた姿を、彼は一番近くで見てきた。
「……虎様。安心してください。主従の縁というものは、一度結べば死んでも、来世まで続くものです。私は最後まで殿をお守りし、もしもの時はお側で果てます。ですが、心は決してあなたを忘れません」
道三郎は、力強く、しかし悲しげに頭を下げると、土煙を上げて去っていった。
「二世までも縁は朽ちせぬもの」
その言葉だけが、静まり返った大磯の宿に、重く響いていた。
十郎は、富士の裾野で弟・五郎と合流した。虎は、大磯で尼になる準備を始めた。道三郎は、十郎の太刀を研ぎ澄ませた。比叡山が誕生した時に仏たちが分かれたように、曾我兄弟の周囲の人々もまた、それぞれの運命へと散っていく。
曾我物語 巻第六(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔比叡山の始まりの事〕
昔を思ふに、天地既にわかち、国未だ定まらざる時は、人寿二万歳を保ちける。迦葉尊者は、西天に出世し給ふ。大聖釈尊は、其の教義をえて、都率天に住し給ふ。「我、八相成道の後、遺教流布の地、何れの所にか有るべき」と、此の南閻浮洲をあまねく飛行して御覧じけるに、遠々たる大海の上に、「一切衆生、悉有仏生、如来常住、無有変易」。立つ波の声有り。此の波の止まらん所、一つの国と成りて、我、仏性をひろめ通ずべき霊地たるべし」とて、遙かの十万里の滄海をしのぎて行くに、葦の葉一つうかみたる所に、此の波流れ止まりぬ、今の比叡山の麓、大宮権現の坐します波止土濃是なり。然ればにや、「波止まり、土こまやかなり」と書けり。かく御覧じ置きて、釈尊、天に上がり給ふ。然れば、葦原の中国と申し習はせるは、此の一葉の葦の故とかや。日本我が朝は、葦の葉を表するとぞ申し習はせる。其の後、人寿百歳の時、悉達太子と生じて、八十年の春の頃、頭北面西右きうくわ、跋提の波と消え給ふ。され共、仏は、常住にして、むゑん法界の妙体なれば、昔、葦の葉の島となりし中国を御覧じける時、鵜葺草葺不合尊の御世なれば、仏法の名字を人知らず。此処に、さざなみや志賀の浦の辺に、釣をする老翁有り。釈尊、彼に向かひて、「翁、もし此の所の主たらば、此の地を我にえさせよ。仏法結界の地となすべし」と宣へば、翁、答へて申さく、「我、人寿六万歳の始めより、此の所の主として、此の湖の七度まで、葦原に変ぜしをも、まさに見たりし翁也。然れば、此の地結界と成るならば、釣する所失せぬべし」と、深く惜しみ申せば、釈尊、力無くして、今は、寂光土に帰らんとし給ふ時に、東方より、浄瑠璃世界の薬師、忽然と出で給ひて、「よきかな、はや仏法をひろめ給へ。我、人寿八万歳の始めより、此の所の主たれど、老翁、未だ我を知らず。何ぞ此の山を惜しみ申すべき。はやし給へ。我も、此の山の王と成りて、共に後五百歳まで仏法をひろむべし」とて、二仏東西にさり給ふ。其の時の老翁は、今の白髭の明神にて坐しましける。東方よりの如来は、中堂の薬師にてぞ坐しましける。釈迦、薬師の東西に帰り給ひき。今の十郎と虎が行き別るるには、違ひぬる心なるをや、「蝸牛の角の上に、何事をか争ふ。石火の光の内、此の身を寄せつらん。名残の道つくべからず、後世には、参り合はん」と、「道三郎が心も恥づかし」とて、思ひ切りてぞ別れける。虎は、峠にひかへて、祐成の後姿、かくるるまで見送りける。さてしもあらねば、泣く泣く大磯にぞ帰りける。母のもとに入りしかば、友の遊君共、広縁に出でて、「思ひ掛けざる今の御入かな。いつと無き山路の寂しさ、推し量りて」などとたはぶれけれ共、虎は、馬よりおるると同じく、衣引きかづき、打ち伏しぬ。君共集まりて、「何とて、是程御歎き候ふやらん。十郎殿に捨てられ御座しますか」と、様々 慰めけれども、かくと言ふべき事ならねば、只打ち伏し泣き居たり。人々 打たれて後にこそ、かくとは申し聞かせけれ。道三郎申しけるは、「殿も、今朝は物へ御出有るべきにて候ふ。急ぎ御暇を申さん」と言ふ。虎は、彼を近く呼び寄せて、「三年が程、なれにし汝にさへ、別れなん事の悲しさよ」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、道三郎、返事にも及ばず、涙を流しける。「昔が今に至るまで、主従の縁浅からぬ事ぞ。構へて思ひ忘るな。二世までも縁はくちせぬ物ぞ」と言へば、道三郎、暇こひて出でにけり。志は、二世までも尽きせじと覚えけり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




