6-4 愛する女の手を離した時、修羅になる
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年(1193年)。復讐の舞台となる「富士の巻狩り」へ向かう、最後の日。昨夜、最愛の女性・大磯の虎と、生きては二度と会えぬ別れを告げた曾我十郎祐成。夜が明け、彼は彼女を送り届けるために馬を並べた。しかし、別れの瞬間は非情にもやってくる。相模と駿河の境、山彦山の峠。そこは、二人の「今世」が終わり、「来世」へと道が分かれる境界線だった。
「……俺が送っていこう」
曾我十郎祐成は、葦毛の馬に重厚な貝鞍を置き、虎を乗せた。自身も馬に跨り、二人は曾我の里を後にする。選んだ道は「中村通り」。多くの武士が行き交う大道を避けた。昨夜、虎と小袖(衣)を交換した。十郎の直垂の奥には、彼女の温もりと紅梅の香りが残っている。だが、今の十郎が纏っているのは、それ以上に重い「死」の気配だった。
「……十郎様」
「ああ」
会話は続かない。言いたいことは昨夜すべて語り尽くしたはずだった。だが、馬の蹄が土を叩くたび、二人の時間は砂時計のように確実に削られていく。村の人々は、この美しい二人が並んで歩く姿を見て「本当にお似合いだ」と微笑んだだろう。しかし、その内実が「死地への出陣」と「永遠の別離」であることを、誰が想像できただろうか。
やがて、一行は曾我と中村の境にある山彦山の峠に差し掛かった。ここを越えれば、大磯への道が続く。そして十郎は、ここで引き返し、弟の五郎が待つ死の戦場へ向かわなければならない。十郎は駒を止めた。
「……ここまでだ、虎。これ以上送れば、俺は決意が鈍ってしまう」
十郎の声は、自分自身を律するように硬かった。
「今日、必ず出発すると五郎と約束したんだ。……名残を惜しめばキリがない。この世で顔を合わせるのは、本当に、これが最後だ」
その瞬間、周囲の景色が滲んだ。霧の深い山中の、どこへ続くかもわからぬ細い道。かつて、愛する人を追って泣き崩れ、そのまま石になったという松浦佐用姫の伝説が、十郎の脳裏をよぎる。
(……石になれるなら、どんなに楽だろうか。だが、俺の体には十七年分の血の掟が流れている)
十郎は隣の馬を寄せ、虎の手を強く握った。温かかった。震えていた。二人は、どちらともなく涙にむせび、声にならない慟哭を山々に響かせた。
「祐成の心の中を、推し量ってくれ」
十郎は、繋いでいた手を無理やり引き剥がした。
「俺はこの世で、お前と年を送ることはできない。……だが、忘れるな。俺たちの縁は、浄土で結び直される。来世で、必ずまた会おう」
十郎は、縋り付こうとする彼女の袖を振り切り、馬に鞭を当てた。一度も振り返らず、坂を下る。視界から彼女の姿が消える。あとに残るのは、草を分ける風の音だけ――。
「――待ってください!!」
突然、後ろから従者・道三郎の声が響いた。十郎が驚いて馬を返すと、そこには、馬を止めて泣き崩れている虎の姿があった。道三郎が、困り果てた顔で十郎に告げる。
「……十郎様。虎御前が、どうしても。……涙で言葉が詰まって、一番言いたかったお別れが言えなかったと。せめて、最後にもう一言だけ、お話しさせてやってはいただけませんか」
十郎は、苦渋の表情を浮かべた。ここで戻れば、せっかく断ち切ったはずの未練が、再び自分の心を蝕む。だが……。
「……分かった」
十郎は、吸い寄せられるように峠の頂へと戻っていった。
再び対面した二人の間に、沈黙が流れる。虎は、鞍の前輪に突っ伏したまま、消え入るような声で語り始めた。
「……十郎様。……約束もない夕暮れ、馬の足音や轡の音が聞こえるたびに、『もしや、あの方ではないか』と胸を躍らせて生きてきました。……あなたが通り過ぎていく夜は、独り枕を濡らし、夜明けの鳥の声にさえ絶望を感じて……」
虎は、顔を上げ、十郎を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、執念にも似た深い愛が宿っていた。
「……夕暮れの鐘の音を待つ日々。乾く暇のない私の袖。……そんな三年の月日が、まるで一瞬の夢のように終わってしまうのですね。これからは、どの世界であなたを待てばいいのですか。こんな悲しい思いをするために、私はあなたに出会ったのですか……」
十郎は、何も言わなかった。否、何も言えなかった。ただ、彼女の言葉を、一文字一文字、心臓に刻みつけるようにして聞いていた。
「……虎。俺の人生は、罪深きものだった。幼くして父を失い、領地も奪われ、母に育てられながらも、何一つ報いることができなかった。……そんな俺の空っぽの人生に、この三年間、お前だけが温かな光を灯してくれたんだ」
十郎は、天を見上げた。
「……娑婆は、仮の宿りだ。春の花も、秋の紅葉も、いつかは散って土に還る。お前も、この露のような俺の命を、どうか後世で弔ってほしい。……それが、俺の最後の願いだ」
今度こそ、本当の別れだった。十郎は、再び馬を中村の方角へと向けた。虎の馬を引く道三郎は、彼女を大磯へと導く。東へ向かう者。西へ向かう者。背中合わせに離れていく二人の距離は、もう二度と縮まることはない。
十郎の頬を伝う涙は、馬のタテガミに吸い込まれていった。峠の頂に一人残った虎は、見えなくなった十郎の背中を、いつまでも、いつまでも、空を見つめるようにして追い続けていた。曾我十郎祐成、これにて「人」としての生を終わらせる。次に彼が手に取るのは、愛する女の手ではない。仇・工藤祐経を討つための、一振りの太刀だ。
曾我物語 巻第六(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔山彦山にての事〕
「祐成も送るべし」とて、馬に鞍置かせ、打ち乗りて、「中村どほりに行くべし。大道は、馬鞍見苦し。君を祐成が思ふとは、皆人知られたり。供の者共も、かひがひしからず」とて、打ちつれてこそ送りけれ。曾我と中村の境なる山彦山の峠まで送り来て、十郎、此処に駒をひかへ、今少しも送りたくは候へ共、必ず今朝より出でんと定めしかば、定めて五郎も来たらん。名残はつくべきにあらず、此の世にて相見ん事も、今計ぞと思へば、遣る方無くして、涙にむせぶばかりなり。をちこちのたつき知らぬ山中の、道もさやかに見えわかず。彼の松浦佐用姫がひれ伏し姿は、石になりける、其れは昔の事ぞかし。今の別れの悲しさよ。駒近々と打ち寄せ、手に手を取り組み、涙にむせぶばかりなり。やや有りて、「祐成が心の中、推し量り給へ。是にて、年を送るべきにもあらず。只一筋に浄土の縁を結ばん。来世を深く頼むぞ」と、心強くも思ひ切り、ひかふる袖を引き分けて、泣く泣く立ち別れけり。実にや、かんかんの床の上には、遙かに契りを千年の鶴に結び、沈麝の筵の上には、遠く齢を万劫の亀に期して、契りしかども、逃れぬ別れの道は、力に及ばず。互ひに心を顧み、坂中にやすらひひかへたり。かすかに見えし姿も見えずなりければ、そなたの空のみ帰り見る。あしびきの山のあなたの恋しさは、何れも同じ心にて、現とも無き涙の袖、夢の如くに打ち別れにけり。思ひの余りに、虎が馬の口ひかへたる道三郎に、泣く泣く言ひけるは、「祐成を見奉らんも、今ばかりの名残なり。何事も、こまごまと言ひたかりつるを、涙にくれて言ひもせず、取り分け暇こひ給へるに、返事せざりし心許無ければ、今一度呼び奉りてたび候へ。物一言申さん」と言ひければ、道三郎、「只世の常の出家遁世にても無し」とて、さしても騒がざりけるが、なのめならざる互ひの歎きを見て、哀れに思ひ、急ぎ走り帰り、遙かに行きたりける十郎呼び帰し、もとの峠に打ち上がり、駒をひかへ、「何事ぞ」と問ひければ、虎は、涙に目もくれて、思ひ設けし言の葉の、いつしか今は失せはてて、鞍の前輪に打ちかかり、消え入る様に見えしかば、十郎も、わきたる事は無くて、泣く計にてぞ有りける。やや有りて、虎、息の下に言ひける、「いつと無く、さぞと契らぬ夕暮も、駒の足なみ、轡の音のする時は、もしやと思ふ折々の、其の人と無く過ぎ行けば、其の夜は、空しく床に伏し、鳥の音にたたへつつ、我が涙落つる枕の上より、明くる思ひをさへられ、夕の鐘の声には、くるる便りを待ちなれて、ほされぬ袖の其の儘に、はかなかりける契りかな。三年の夢の程も無く、別るる現になりにけり。さて、いつの世にめぐり合ひ、斯かる思ひの又もや」と、声も惜しまず泣き居たり。「祐成、身の上をつくづく思ふに、罪の深きぞ知られたる。幼くして、父におくれ、本領だにあたりつかず、母一人のはぐくみにて、身命を過ぐすと雖も、有る甲斐も無し。此の三年、御身にだにも相なれて、あかぬ別れの悲しさ、歎きの中の歎きなれ。五欲の無常は、春の花、娑婆は、かりの宿りなり。秋の紅葉の影ちりて、草葉にすがる露の身の、後生弔ひてたび給へ」とて、東西へ打ち別れけるにて、
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




