6-3 死を覚悟した復讐者が、最愛の彼女に遺した最後の形見
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
建久四年(1193年)。鎌倉殿・源頼朝が主催する軍事イベント「富士の巻狩り」の決行前夜。
大磯での和田義盛との一触即発の修羅場を終え、曾我十郎祐成は虎を伴って曾我の里へと戻っていた。母の住む本館から少し離れた、静かな離れ。そこが、二人の最後の夜を過ごす場所だった。
「……虎。少し、俺の髪を整えてくれないか」
十郎は、虎の膝に頭を預けて横になった。虎は少し驚きながらも、数々の櫛を並べ、十郎の黒髪を丁寧に梳き始めた。
「どうされたのです、十郎様。いつになく神妙な……」
「……いや。明日は富士の山へ打ち出す日だ。山を越える矢に当たって果てることもあるだろう。死んで野ざらしになった時、髪が乱れて塵まみれでは、曾我の嫡男として情けないからな」
十郎の言葉は冗談のようだったが、その声はひどく静かだった。虎の指先が止まる。彼女の大きな瞳から、一雫の涙が十郎の頬に落ちた。
「……十郎様。その涙は、何なのですか。あなたがそんな不吉なことを仰るから、私も胸が締め付けられるのです。お願いです……今回の御狩り、行くのを止めてはいただけませんか。頼朝様からの直接の呼び出しではないのでしょう? 浪人の身、行かなくても誰も咎めはしません……」
十郎は、虎の膝の上で目を閉じた。彼女の温もり。櫛の音。本当なら、このまま彼女を抱いて逃げ出し、どこか遠くで静かに暮らしたい。だが、彼の中の「十七年の執念」が、それを許さなかった。
(俺はもう、決めたんだ。五郎も待っている。……だが、何も言わずに出て行けば、彼女は一生、俺を恨むだろうか)
十郎は、一度ついた「嘘」を重ねようとした。
「……分かった。虎、そう泣くな。実はな、今回の巻狩りから戻ったら、俺は出家しようと思っているんだ。墨染めの衣に身を包んで、頭陀袋を下げて、各地の霊仏を巡り、亡き父の供養をしたい。だから、今回の狩りが、武士としての俺の見納めなんだ」
それは、十郎なりの「優しい嘘」だった。戦死するのではなく、僧になるのだと。だが、虎は賢すぎた。
「……十郎様。嘘はいけません。出家なさるなら、なぜ私がついて行ってはいけないのですか? あなたが庵を結ぶなら、私はその隣で衣を洗い、花を摘み、薪を拾って仕えます。あなたがそれを拒むというなら、私は今すぐ身を投げて死にます。あなたと離れるくらいなら、一日たりとも生きる意味がないからです!」
虎の悲痛な叫び。十郎の膝の上に、彼女の涙が水たまりのように溜まっていく。十郎は、ついに観念した。本当の、本当のことを話す時が来たのだ。十郎は体を起こし、虎の両肩を強く掴んだ。その瞳には、嘘偽りのない「死」の覚悟が宿っていた。
「……虎。よく聞け。今の言葉を、誰にも、母上にも漏らすな。俺は……俺たちは、出家などしない。……工藤祐経を討つ。あいつを殺すために、俺たちは生きてきた。そして、復讐を遂げれば、生きて帰る道はない。明日、俺がここを出れば、二度と戻ることはない。俺とお前がこうして顔を合わせるのも……今宵が最後だ」
虎は息を呑み、言葉を失った。予感はしていた。だが、はっきりと突きつけられた現実は、彼女の魂を砕くほどに重かった。
「……三年だ。お前と出会って三年の月日が流れた。俺のような貧乏な浪人に、お前のような絶世の美女が尽くしてくれたこと、本当にありがたく思っている。恩賞も、地位も、何も与えられない俺を、お前はただの男として愛してくれた。……済まない。俺は、愛よりも復讐を選んだ」
十郎は、自分の「鬢の髪」を自ら切り落とし、虎の手のひらに載せた。
「――これを、俺だと思って持っていてくれ。もし俺が果てたら、この髪を抱いて、せめて一度だけ、念仏を唱えてやってほしい」
虎は震える手でその髪を受け取り、懐深くに押し込んだ。
「……分かりました。……分かりました、十郎様。……行かせたくはないけれど、それがあなたの選んだ『命の使い道』だというのなら、私は尼となって、あなたの後世を一生、祈り続けます……」
五月の夜は短い。夜明けを知らせる鶏の声が響く。有明の月が東の空に白く浮かんでいた。十郎は、自分が着ていた「目結の小袖」を脱いだ。そして、虎が着ていた「紅梅の小袖」を代わりに受け取った。
「虎。……衣を替えよう。お前の香りが染み付いたこの紅梅を、俺は死に装束の内に着ていく。お前は、俺のこの目結を、俺の魂だと思って着ていてくれ」
「……はい。あなたの香りが残っている間は、あなたが側にいると思えます。……ああ、夜が明けてしまう。空が恨めしい……」
二人は最後の最後まで抱き合った。言葉にできない想いを、互いの肌に刻みつけるように。
門の外では、従者の道三郎が「葦毛の馬」を引いて待っていた。十郎は虎をその馬に乗せた。彼女を大磯へ、あるいは彼女の住処へと送り届けるためだ。
「……虎。最後に一つ、これを遺す」
十郎は馬に置かれた「貝鞍」を指差した。
「この三年間、俺はお前の元へ通い続けた。乗る馬は死に、あるいは取り替えられ、何度も変わった。……だが、この『鞍』だけは、三年前から一度も変えていない。馬は変われど、鞍は変わらず。世は変われど、お前への俺の想いも変わらず。この鞍を、俺からの最後の形見として持っていてくれ。……馬はいつか死ぬが、この鞍だけは、お前の元に残り続けるだろう」
馬上の虎は、もはや涙も出ないほどに泣き腫らした顔で、十郎を見下ろした。十郎の手が離れる。
「――行け」
馬が歩み出す。一度も振り返ることなく、十郎は曾我の館へと背を向けた。その背中には、復讐者としての冷徹な光と、一人の男としての、あまりにも深い愛の残り香が漂っていた。
大磯の虎を送り出し、すべての未練を断ち切った十郎。館に戻った彼は、待っていた弟の五郎と合流した。
「兄上。……お疲れ様でした。良い顔をしていますね」
「ああ、五郎。……準備は整った。俺たちの十七年を、富士の裾野で完成させるぞ」
建久四年五月二十八日。富士の裾野には、不吉な暗雲が立ち込め、激しい雷雨が降り始めていた。
曾我物語 巻第六(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔曾我にて虎が名残惜しみし事〕
是や、名翼は、昊天に遊べ共、小沢に移り、九そうの愁へにあひ、げんだは、深淵の底を保て共、浅渚に出でて、ほこうの愁へにあそふと見えたり。十郎も、身に思ひの有る物ぞかし、由無き女のもとにて、思はずの難にあはんとしけるぞ、口惜しき。人ごとに心得べき事也。祐成は、虎を具して、曾我に帰り、つねに住みける所に隠しおき、いつよりもこまごまと物語しけり。「此の度、御狩の御供申し、思はずの峰ごしの矢にもあたり、くち木、むもれ木共成るならば、身こそ貧に生まれめ、鬢なる塵の見苦しさよと、人の言はんも口惜し。髪けづりてたび候へ」と言ひければ、虎は、何としも思はで、数の櫛を取り散らし、暫く髪をぞけづりける。十郎は、女の膝に伏しながら、虎が顔をつくづく見て、祐成を睦ましと見んも、是ぞ限りなるべきと思へば、流るる涙を見て、「例ならぬ御涙、心許無さよ。何なるらん」と問ひければ、「今に始めぬ事とは言ひながら、憂き世の中の定め無さよ。此の程の万あぢきなく、何事も心細く覚ゆれば、あだに契り、同じ世の、名の立つ程も、如何にやと思へば、心に涙のこぼるるぞ。実にや、頼まぬ身の習ひ、かこつ命も、露の間も、いまはしくこそ思はるれ」「実にも、さ様に思ひ給はば、此の度の御狩、思し召し止まり給へかし。君に知らるる宮づかひの隙無きわざにも候はず。止まり給へ」と言ひければ、「思ひ立つ御供なり。何事かは」と言ひながら、か程深く思ふ中、思ひ知らせず出でなば、情の色も絶えぬべし。せめて夢程、此の事を知らせばやと思へども、女は、甲斐無き者なれば、あかぬ別れの悲しさに、止めん為に、母にもや語りひろめん。此の度は、思ひ定めたるもの故に、適はぬ事を母聞きて、思ひの種ともなりぬべし。又は、五郎も恨みなん。思ひ切りたる一大事、女にさぞと言はん事、悪しかるべしと思ひ切り、何としも無くたはぶれけり。忍ぶとすれど、其の色のあやしく思ひ奉り、「覚束無し」と問ひければ、深き思ひの切なるに、束の間も、思ひ合はする事無くて、はてぬる物ならば、後の恨みも深かるべし。由、思ひ出に、一はしを言ひてや、心をやすむると、「身の有様を思ふには、憂きが住まひの詮無くて、世には住まじの其の故を、如何にと言ひて知らすべき。然ればにや、祖父人道の謀叛に依りて、切られ参らせし孫なれば、君にも召し使はれ、御恩蒙る事も無し。まして、先祖の本領は、年月余所にみなす上、馬の一匹もなだらかにかはず、又、父の為とて、経巻の一部もかかず、有りとしも無き憂き身の仕儀、人にみゆるも恥づかしく、面並ぶる便りも無し。然れば、此の度、御狩よりも帰りなば、出家を遂げ、墨の衣に染めかへて、頭陀乞食して、霊仏霊社に参り、父の後世をも弔ひ、我が身をも助からんと思ひ候ふ也。世に有りとも、夢幻の如く、はう心を残すべきにあらず。花山法皇だにも、万乗の位をさりて、山林に交はり給ふぞかし。ましてや、貧道無縁の祐成が、何に命も惜しかるべき。今度の御供を最後に、二度返らじと思へば、あかぬ別れの道捨て難くて」と申しければ、虎聞きも敢へず、十郎が膝に泣きかかり、しばしは物も言はざりけり。やや有りて、「恨めしや、問はずは知らせじと思し召すかや。誠、童は大磯の君、あさましき者の子なれば、誠の道をも思し召さじなれ共、女の身のはかなさ、身にかへてもとこそ思ひ奉れ。見えそめしより、などやらん、思ひの色の深草や、忍ぶの袖にすり衣、忘れ奉る便り無し。御志は知らねども、御かねことの違ふをば、偽りに又成るらんと、心をつくし待たれしに、然様に思ひ立ち給はば、我らはも、同じく髪を下ろし、墨染の衣に身をやつし、一つ庵にあらばこそ、別に庵室引き結び、衣をすすぎて参らせん。香をそなへ給はば、花をつみ、薪をひろひ給はば、水を結び、一蓮の縁をも願はん。其のむつびをも、いなと宣はば、山寺に修行して、余所ながら見奉らん。其れも、憚り思し召さば、聞き給へ、身をなげ、一日片時も別れ奉る事あらじ」とて、涙にむせびけり。十郎が膝の上も、虎が涙にうくばかりなり。袖も所狭くぞ覚えし。十郎、つくづくと案ずるに、是程思ひ入りたる志、露程も知らせずして、心強く隠し遂げぬる物ならば、長き恨みとなりぬべし。もし立ち帰らぬ習ひあらば、思ひ出だして、念仏をも申すべし。然ればとて、人にもらすなと言はん事を、あだにやすべき。其の上、日数無ければ、知らせばやと思ひ、「此の事、母にだにも知らせ奉らで、今まで過ぎしかど、御身の志切にして、知らせ奉るぞ。もらし給ふべからず。誠の道心にもあらず、出家遁世にても無し。年頃、祐成が身に思ひ有りとは知り給ひぬらん。其の本意を遂げんと思へば、此の度出でて後、二度返るまじければ、相見ん事も、今宵計也。さてしも、何と無く申し契りて、時の間と思へ共、三年に成りぬ。思ひ出も無くて、はてん事こそ、無念なれ。御志の程こそ、有り難く思ひ奉れ。面々 如きの人は、祐成風情の貧者、頼む所無し。何に依りてか、露の情も有るべきに、三年の間の顔ばせの、変はらぬ色は常磐山、己泣きてや、憂きを知る。情に引かれて、身の程を、恥ぢず忘れし中なれば、前世の事と言ふ計りにて、過ぎにし事の恥づかしさよ。奉公の身ならねば、御恩の時とも言はず、廻船の身ならねば、利のあらん折とも言はず、思ひ出無き事を思ひ出だし給はん事よ」とて、さめざめと泣きけり。虎も、此の言葉を聞きて、又打ち伏して、泣くより外の事ぞ無き。やや有りて、おきなほり、「そも、是は、何と成り行く事共ぞや。是程の大事、はかなき女の身なり共、如何でか人にもらすべき。一人坐します母にだにも聞かせ奉らず、振り捨てて、心強く思ひ立ち給はん事、数ならぬ童申すとも、止まり給ふべきか。何に付けても、あかぬ別れの道こそ、悲しみても余りあれ。斯様の大事、心置かず、しらさせ給ふこそ、返す返すも嬉しけれ。さても、此の年月の御なじみ、いつの世にかは忘るべき。思ふに適はぬ事なれ共、御物の具の見苦しきを見参らする折節は、人々しき身なりせば、などや頼りにもなり奉らざらんと、しづ心をつくし、明かしくらしつるに、世を捨てて、何処とも無くならんと仰せらるるをこそ、身の置き所無かりしに、思ひもよらぬ長き別れ路とならん悲しさよ」とて、声も惜しまず泣き居たり。十郎も、せん方無くして、「余りな歎き給ひそ。人々 聞き候ふべし。名残は誰も同じ心ぞ」と慰めつつ、「是を形見に」とて、「祐成に添ふと思し召せ」とて、鬢の髪を切りてとらせぬ。虎は、涙諸共に受け取り、膚の守りに深くおさめ、物をも言はで伏し鎮みぬ。十郎も、同じ枕に打ち傾き、涙にむせぶ計也。日も既に暮れければ、今宵ばかりの名残ぞと、思ひ遣るこそ悲しけれ。千代を一夜に重ねても、明けざれかしと思はるる。頃さへ、五月の短夜の有明なれば、宵の間の、待たるる程も無ければや、出づると見れば、其の儘に、傾く空も恨めし、八声と言ふも、鶏の、夜や知りふると明け安く、夢見る程も微睡まで、東にたなびく横雲の、東雲しらむうき枕、又睦言のつきなくに、きぬぎぬに成る曉の、涙に床もうきぬべし。互ひの名残、心の中、さこそと思ひ知られたれ。猶しも、虎は打ち伏して、消え入る様に見えしかば、十郎、彼をいさめんとて、「暇申して、祐成は、後生にて参り合はん」とて驚かせば、おきなほりたるばかりにて、もの言ふまでは無かりけり。今を限りの別れなり。後の世までの形見とて、十郎来たりける目結の小袖に、虎が紅梅の小袖にきかへて、「心のあらば、移り香よ、しばし残りて、憂き別れ、慰む程も、面影の、きかへし衣にとまれかし。互ひの名残尽きせず」と、又諸共に打ち伏しぬ。「幾万代を重ねても、名残つくべきにあらず。祐成も、途まで送り奉るべし。日こそたけ候へ」とて、葦毛なる馬に貝鞍置かせ、道三郎、門の辺にひかへたり。「此の馬鞍、返し給ふべからず。此の三年通ひしに、馬は変はれど、鞍変はらず。鞍は変はれども、馬変はらず。今日を最後の別れなれば、止め置きて、長き形見とも思ひ給ふべし。但し、馬は生有る物にて、変はる事有り、鞍をば失はで持ち給へ」と言ふ言ふ、馬にぞ乗せたりける
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




