5-11 究極の忍耐 ―― 奴隷となった王
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
物語の舞台は建久四年(1193年)、富士の裾野。復讐の刃を研ぎ澄ませた曾我五郎 時致が、捕らわれの身でありながら言い放った言葉。「俺は今、『会稽の恥』を清めたのだ」この「会稽の恥」とは一体何なのか?
昔々、大陸には「呉」と「越」という、隣り合う強国があった。呉王・夫差と、越王・勾践。この二人は代々の仇同士。ある時、勾践は軍師・范蠡の「今は時期尚早です」という忠告を無視して呉に攻め込んだ。だが、呉には伝説の軍師・伍子胥がいた。越軍はボロ負けし、勾践はわずかな手勢と共に会稽山に追い詰められた。周囲は二十万の呉軍。食料もなく、矢も尽きた。
「――おのれ、天は俺を見捨てたか!」
絶望した勾践は、愛する妻や幼い子供を刺し殺し、自分も腹を切ろうとした。だが、その時、もう一人の臣下・大夫種が泣きながら止めた。
「王よ! 死ぬのは簡単です。ですが、生きて恥を忍び、いつかこの雪辱を晴らすことこそが、真の王の道ではございませんか!」
勾践はプライドを捨てた。彼は白装束を纏い、首に紐をかけ、呉王・夫差の軍門に降った。かつての王は、今や呉王の馬を引く「奴隷」へと転落したのだ。呉王・夫差は、ひれ伏す勾践を見てあざ笑った。
「あんなに威張っていた越王が、今や私の馬の世話係か。愉快、愉快!」
勾践は、暗い土牢に閉じ込められた。窓もなく、日差しも届かない冥暗の中、彼は毎日泣きながら、ただ一点を見つめていた。そんなある日、商人に化けて潜入した范蠡が、魚の腹の中に一通の手紙を隠して勾践に届けた。
「西伯は捕らわれ、幽里の牢で恥を忍んだ。だが、後に天下を獲った。王よ、死を急いではなりません」
この一言が、勾践の魂を再び燃え上がらせた。
(――そうだ。俺は死なない。この恥を、いつか必ず血で洗ってやる……!)
ある時、呉王・夫差が重い病(石淋:尿路結石の激痛)に倒れた。どんな名医も治せない。そこで他国の医者が言った。
「この病の味(……!)を舐めて、その性質を知る者がいれば、適切な治療ができます」
側近たちはドン引きして誰も名乗り出ない。チャンスだ。勾践は自ら進み出た。
「――私が舐めましょう。上様の厚恩を思えば、私の舌など汚れても構いません!」
勾践は、敵王の排泄物(病の元)を自らの舌で味わい、その性質を医者に伝えた。
これに感激した(というか、完全に騙された)呉王は言った。
「これほどの忠誠心を持つ男が、私に背くはずがない! 勾践よ、お前を許す。本国へ帰り、再び越の国を治めるがいい!」
軍師・伍子胥が「罠です! 虎を野に放つようなものです!」と必死に止めたが、呉王は聞く耳を持たなかった。
越に帰った勾践が最初に行ったのは、最高級の「贈り物」を夫差に送ることだった。それが、歴史上もっとも有名な美女・西施である。
「西施を呉王の側に置けば、奴は女に溺れ、政治を忘れる」
勾践の読みは完璧だった。呉王は西施に狂い、夜通し遊宴にふけり、国費を使い果たし、防衛を疎かにした。忠臣・伍子胥が「西施こそ国を滅ぼす大敵です! 殺すべきです!」と抗議したが、呉王は激怒して逆に伍子胥に「自害」を命じた。伍子胥は死ぬ間際、呪いの言葉を遺した。
「――我が両眼をえぐり、呉の東門に掛けろ。俺の目が腐らぬうちに、越の軍勢が呉を滅ぼすのを見届けてやる!」
二十年。勾践が土を噛み、恥を忍んでから二十年の歳月が流れた。ついに、越の二十万の大軍が呉を包囲した。呉王・夫差は、わずかな家臣と共に山へと逃げ込んだ。奇しくもそこは、かつて勾践を追い詰めた「会稽山」の麓だった。
「勾践よ……。昔、私がお前を助けたことを忘れたか。今度は、お前が私の死を助けてくれ……」
夫差の哀願に、勾践は一瞬、心が揺れた。だが、軍師・范蠡が割って入った。
「王よ! この二十年の苦しみを忘れたのですか! 天が与えたチャンスを逃せば、今度は我らが滅びます! 君主が誤った慈悲を見せる時、従わないのが真の忠臣です!」
范蠡は自ら太鼓を叩いて全軍を突撃させた。捕らえられた呉王・夫差は、縄で縛られ、屈辱の中で東門を通り過ぎる。その時、門の上に掛けられていた伍子胥の腐らぬ両眼が、カッと見開かれ、自分を見捨てた王をあざ笑ったという。夫差は袖で顔を隠し、泣きながら首を撥ねられた。
復讐を終えた勾践は、その後、中国の覇者となった。立役者の范蠡は、「王は苦労を共にできても、成功を分かち合うことはできない」と悟り、名前を変えて姿を消し、伝説の商人「陶朱公」となった。この物語を聞いた人々は、二つの意見に分かれた。現実派は「勾践は国を取り戻して栄えたが、曾我兄弟は復讐しても命を失う。これじゃあ例えにならない」対して理想派は「いや。命を賭けた覇気、執念。曾我兄弟の振舞いは、あの呉越の戦いすら凌駕している」と言う。
曾我五郎時致にとって、勾践の二十年は「忍耐」の象徴だった。化粧坂の女に笑われ、エリート景季に馬鹿にされ、母に勘当されても彼が耐え抜いたのは、「いつか必ず、会稽の恥・十七年の屈辱を、富士の裾野で清めてやる」という、この伝説的な確信があったからだ。
「会稽」から「富士」へ。復讐のバトンは、ついに渡される。
曾我物語 巻第五 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔呉越の戦ひの事〕
抑、五郎が富士野にて、会稽の恥を清むと言ひける由来を詳しく尋ぬるに、昔、異朝に、呉国・越国とて、並びの国有り。呉国王をば、闔閭の子にて、呉王夫差と言ひ、越国の王をば、大帝の子にて、越王勾踐とぞ言ひける。然るに、彼の両王、国を争ひ、戦ひをなす事絶えず。或る時は、呉王を滅ぼし、或る時は、越王を退治し、或る時は、親の敵と成り、或る時は、子の仇と成り、義勢はなはだしく、累年に及ぶ。此処に、越王の臣下に、范蠡と言ふ武勇の達者有り、彼を招き寄せて曰く、「今の呉王は、まさしき親の敵也。是を打たずして、徒らに年を送りて、あざけりを天下に残す事、父祖の恥を九泉苔の下に恥づかしむる事、恨みつくし難し。然れば、越国の兵催し、呉国へ打ち越え、呉王を打ち滅ぼし、父祖の恨みを報ぜんと思ふなり。汝は、しばし国に止まりて、社稷を守るべし」と宣ひければ、范蠡申しけるは、「暫く愚意を以て事をはかるに、今越の力にて、呉王を滅ぼさん事、すこぶるかたかるべし。其の故は、先づ両国の兵をかぞふるに、呉国には、二十万騎有り、はつか十万騎也、小を以て、大きに敵せざれとなり。其の上、呉王の臣下に、伍子胥とて、智深うして才高き、人を付くる勇士有り。彼があらん程は、呉王を滅ぼさん事、適ふべからず。麒麟は、角に肉有りて、猛き形を現さず、潛竜、三冬にうづくまつて、一陽来復の天をまつ。暫く兵を伏して、武を隠し、時を待ち給へ」といさめければ、越王、是を用ひず、大きにいかつて、「軍の勝負は、勢の多少によらず、只時の運に依り、又は大将の謀によるなり。然れば、呉と越との戦ひ、度々に及び、雌雄を決する事、汝ことごとく知れり。次に、伍子胥があらん程は、適はじと言はば、我遂に父祖の敵を打たずして、恨みを謝せん事有るべからず。徒らに伍子胥が死ぬるを待たば、生死限り有り、老少定まらず、伍子胥と我と、いづれをか先と知らん。是、しかしながら、汝が愚心なり。我又、兵を催す事、定めて呉国へ聞こゆらん。事のびば、かへつて呉王に滅ぼされなん時に、くゆとも、益有るまじ」とて、越王十一年二月上旬の頃、十万騎の兵を率して、呉国へぞ寄せたりける。呉王、是を聞き、「小敵あざむくべきにあらず」とて、自ら二十万騎の勢を率して、呉と越との境、夫椒県と言ふ所に馳せ向かうて、後ろには会稽山をあて、前にはこせんと言ふ大川を隔てて、陣を取り、敵をはからんが為に、三万騎を出だして、残る十万騎をば、後ろの山に隠し置きけり。越王、夫椒県にのぞみて、敵を見るに、はつか二三万騎には過ぎざりけり。思はず小勢なりとて、十万騎の兵を同心に掛け出ださせ、筏を組みて、馬打ち渡す。呉の兵、予てより敵を難所にをびき入れて、残さず打たむと定めし事なれば、わざと一戦にも及ばずして、夫椒県の陣を引き、会稽山に引き籠る。越の兵、勝つに乗り、逃ぐるをおふ事、三十余里。ついの陣を一陣に合はせて、馬の息切るる程ぞ、おうたりけり。次に、呉の兵、思ふ程、敵を難所にをびき入れて、二十万騎の兵、四方の山より打つていづ。越王勾踐を中に取り込め、一人ももらさじと攻め戦ふ。越の兵は、今朝の戦ひにとほがけをし、馬人共に疲れたる上、小勢なりければ、呉国の大勢にかこまれて、一所に打ち寄り、ひかへたり。すすみてかからんとすれば、敵嶮岨にささへて、矢じりを揃へて、待ち掛けたり。退いて払はんとすれば、鉾先にはまれり。され共、越王践は、敵を破り、敵を砕く事、大勢に越えたる人なりければ、事ともせず、彼の大勢の中に掛け入りて、十文字に掛け破り、追ひまはして、一所に合はせて、三所に別る、四方を払ひ、八方にあたり、百度千度の戦ひに、勝劣無し。然りとは雖も、多勢に無勢なれば、遂に越王打ち負けて、三万騎に打ちなされけり。然れば、越王こらへずして、会稽山に打ち上りて、打ち残されたる勢を見るに、わづかに三万騎に成りにけり。馬に離れ、矢種ことごとくつき、鉾をれければ、一戦にも及び難し。隣国の諸侯は、勝つ事を両方に窺ひて、いづかたとも見えず、ひかへたりしが、呉王の軍に利有りと見て、ことごとく呉王の勢にぞくははりける。今は三十万騎に成りて、彼の山をかこむ事、稲麻竹葦の如く、越王適はじとや思ひけん、油幕の内に入り、兵を集めて曰く、「我、運命既につきて、今此のかこみにて、腹を切るべし。是、まつたく軍の科にあらず、天、我を滅ぼせり。恨むべきにあらず。只范蠡がいさめこそ恥づかしけれ。従ひて、臣が御志を報ぜざるこそ、無念なれ。さりながら、重恩、生々世々に報じ難し。とても、是程の志なれば、明けなば、諸共にかこみを出でて、呉王の陣に掛け入りて、屍を軍門にさらし、再生に報ずべし」とて、鎧の袖を濡らし給へば、兵も、一途に思ひ定まる勢を見て、「今までの旧好、余儀無し」とぞ同じける。さて、王石与とて、八歳に成る最愛の太子有りけり。呼び出だして、「汝、未だ幼稚なり。敵に生捕られて、憂き目を見ん事、口惜し。汝を先立てて、心安く討死して、九泉の苔の下、三途の露の底までも、父子の恩愛、捨てじと思ふなり。急ぎ殺すべし」と言ひければ、太子、何心も無くてぞ有りにける。又、随身の重器をつみ重ねて、ことごとくやき失はんとす。時に、越王の左将軍に、大夫種と言ふ臣下有り、すすみ出でて申しけるは、「生をまつたくして、命をまつ事、遠くしてかたし。死をかろくして、節をのぞむ事は、近くして安し。暫く重器をやき、太子を殺さん事を止め給へ。我、無骨なりと雖も、呉王をあざむきて、君王の死をすくひ、本国に帰り、二度、大軍を起こし、此の恥をすすがんと存ずるなり。然るに、今、此の山をかこみ、一陣をはる左将軍は、太宰喜と言ふ臣下なり。彼は、我が古の朋友なり。誠に血気の勇士と言ひながら、心に欲有り。又、呉王も、智浅くして、謀短し。色に婬して、道に暗し。然れば、君臣共に、あざむくに安き所なり。今、此の戦ひにまくる事も、范蠡がいさめを用ひ給はぬに依りて也。願はくは、君王、暫く臣下に謀を許して、敗軍数万の死をすくひ給へ」と、涙を流して、申しければ、越王、差しあたる理に下りて、「今より後、大夫種が言葉に従ふ」とて、重器をもやかず、太子をも殺さざりけり。大夫種喜びて、兜を脱ぎ、旗をまき、会稽山より下り、「越王の勢、既につきて、呉の軍門に下る」と呼ばはりければ、呉の兵三十万騎、勝鬨を作りて、万歳の喜びをぞ唱へける。大夫種は、即ち、此のゑ門に入りて、「つつしんで、呉上将軍のけしゆつことに属す」と言ひて、膝行頓首して、太宰喜が前にひざまづく。太宰喜哀れに思ひ、顔色とけて、「越王の命をば申しなだむべし」とて、大夫種をつれて、呉王の陣に渡り、此の由かくと言ふ。呉王、彼等を見て、大きに怒りて曰く、「呉と越との戦ひ、今に限らずと雖も、時にいたりて、勾踐とらはれ、僻事となれり。是、天の我に与へたるにあらずや。汝、知りながら、彼を助けよと言ふ。敢へて忠烈の臣にはあらず」とて、更に用ひ給はず。太宰喜、重ねて申しけるは、「臣、不肖なりと雖も、忝くも、将軍の号を許されて、此の戦ひにも一陣たり。然れば、謀をめぐらし、大敵を破り、命をかろんじて、勝つ事を決せり。是、偏に臣が大臣の功とも言ひつべし。君王の為に、天下の太平をはかるに、あに一日も忠をつくす心を現さざらんや」。時に、呉王、「つらつら、せいをはかるに、越王、戦ひ負けて、力つきぬとは雖も、残る兵、未だ三万騎有り。これ皆、こへいてつきの勇士なり。御方は、多しと雖も、昨日の軍に疲れて、前後を失ひ、敵は、小勢也と雖も、志を一つにして、しかも、逃れぬ所を知れり。是や、窮鼠返りて猫をくらひ、闘雀人を恐れずと言ふべきにや。もし重ねて戦はば、御方には、あやしみ多かるべし」と宣へば、太宰喜が、「只越王を助けて、一天の地を与へ、此の下臣となすべし。しからば、呉越両国のみならず、斉・楚・趙の三が国、ことごとく朝せずと言ふこと有るべからず。是ぞ、根は深うして、葉をかたくする道也」と、理をつくしければ、呉王聞きをはりて、欲にふける心をたくましくして、「然らば、会稽山のかこみをとき、越王を助くべし」とぞ定めける。太宰喜、急ぎ大夫種に語る。大きに喜びて、越王に告げければ、士卒色を直し、「万事を出で、一生にあふ事、偏に大夫種が智謀によれり」とぞ喜びける。然る程に、兵共、皆国に帰る。太子の王石与には、大夫種を付けて、本国へ返し、我は、素車に乗りて、越の国の璽綬を首に掛け、いやしくも呉王の下臣と称して、軍門に下り給ひにけり。あさましかりし次第なり。然れども、なほし呉王心許しや無かりけん。「君子、刑人に近付かず」とて、敢へて勾踐に面をまみえ給はず。剰へ、典獄の官に下されて、きやうこうゑききうして、枯蘇城へ入り給ふ。其の姿見る人、袖を濡らさぬは無かりけり。実にや、昨日までは、越国の大王として、何か心を携へし。弓矢を帯する身とて、今日は、斯かる目にあふべしとは、誰か知るべきとて、涙を流さぬは無かりけり。越王、彼の所に入りぬれば、手械足枷を入れ、首に綱を差し、土の籠にぞ込められける。夜明、日暮れども、日月の光をも見ず、冥暗の内に、年月を送り向かへし涙の露、さこそは袖に積もるらめ、思ひ遣られて哀れ也。然る程に、国に止め置きし范蠡、此の事を聞き、恨み骨髄に通りて、忍び難し。哀れ、如何にもして、我が君を本国に返し奉りて、諸共に謀をめぐらし、会稽の恥を清めばやと、肺肝を砕きてぞ、悲しみける。或る時、范蠡、謀を以て、身をやつし、籠に魚を入れて、自ら是をになひ、商人のまねをして、呉国をぞめぐりける。城の辺にて、勾踐の御所を秘かに問ひければ、人是を詳しく教へけり。范蠡嬉しくて、彼の獄近く行きけれ共、警固隙も無かりければ、魚あきなふ由にて、近付き寄りて、一行の書を魚の腹の中に入れて、獄中に入れたり。勾踐、あやしみ思ひて、魚の腹を開きて見れば、書有り。言葉に曰く、「西伯とらはれ遊里。てうてうしははしかしよに。皆王覇たる。敵に死を許す事無かれ」とぞ書きたりけれ。筆勢、文章の体、まがはぬ范蠡がわざなり。然ればにや、未だ浮き世にながらへて、我が為に肺肝しけりと、志の程、哀れにも、又頼もしくもぞ思ひける。一日片時のながらへも、恨めしかりつるに、范蠡がいさめを受けて、今更、命をも惜しく思はれけり。斯かる所に、敵の呉王、俄に石淋と言ふ病を受けて、心身とこしなへに悩乱す。巫覡祈れ共、験無く、医師治すれども、いえずして、露命既に危ふかりけり、此処に、他国より名医来たりて、「此の病、誠に重しと雖も、医術及び難きにあらず。もし此の石淋をなめて、五味の様を知る人あらば、其の心を受けて療治せんに、即ちいゆべし」と申しければ、「誰か、此の石淋をなめて、あぢはひの様を知るべきか」と問ふに、左右の近臣、皆相顧みて、なむる者無し。勾踐、是を聞き給ひ、「我、会稽山にかこまれ、既に誅せらるべかりしを、今まで助け置かれて、天下の赦をまつ事、偏に君王の厚恩なり。今、我、是を以て報ぜずは、いつの日をか期せん」とて、秘かに石淋の取りてなめ、其のあぢはひを医師に告げければ、医師即ちあぢはひを聞きて、療治をくはふるに、呉王の病、忽ちに平癒す。呉王、大きに喜びて、「人、心有り、死を助けずは、如何でか今謝心あらん」とて、越王を土の籠より出だし、剰へ越の国を与へ、「本国に返し給ふべし」と宣下せられけり。此処に、呉王の臣下に、伍子胥と言ふ者有り、呉王の前にて申しけるは、「天の与へを取らざるは、かへつて、其の咎をうると見えたり。此の時、越の国を取らずして、勾踐を返し給はん事、千里の野辺に、虎をはなつが如し」といさめける。呉王用ひずして、勾踐を本国に帰されけるぞ、運の極めと覚えける。越王喜びて、車の轅をめぐらし、急ぎ国にぞ帰りける。道の辺に、蛙多く集まりて、路頭をふさぐ。勾踐、是を見て、「勇士をえて、素懐を達すべき瑞相、めでたし」とて、車より下りて、是を拝みて通られけるが、果たして言ふ如く、本意を遂げ給ひにけり。不思議なる奇瑞也。さて、越王、国に帰り、故郷を見るに、いつしか三年にあれはてて、鳥、松桂の枝にすくひ、狐、蘭菊の草むらにかくる。払ふ人無き閑庭には、落葉みちて、蕭々たり。越王帰り給ひぬと聞きければ、隠れ居たる范蠡、太子の王石与を宮中に入れ奉る。又、越王の后西施と言ふ美人有り。是ぞ、呉国に聞こゆるなんこく・南威・とうい・西施とて、四人の美人有りける中にも、西施は、頸色世にすぐれ、嬋娟たる頸ばせ、たぐひ無かりしかば、越王、殊に寵愛して、しばしも傍をはなし給はざりき。越王、呉王にとらはれし程は、此の難を逃れんが為に、身をそばめ、隠れ居給ひしが、越王帰り給ふと聞き、喜びて故宮に参り給ふ。此の三年を待ちわびし思ひに、雪の膚、しはしは衰へたる御容、いとどわり無く覚えたり。余所の袂までも、しをるる計なり。越王、此の頸ばせに、いよいよ心を添へ給ひけり。理とぞ見えける。此処に、呉王より使ひ有り。越王驚きて、范蠡を出だして聞くに、「我が君、婬の好み、色を重くして、美人を尋ぬる事、天下にあまねし。然れども、西施が如くの顔色をえず。越王の古、会稽山を出でし時、一言の約束有り、忘れ給ふべきにあらず。はやはや西施を呉のこきゆうへ冊入し奉り、貴妃の位にそなへん」との使ひなり。越王聞き、「我、呉王にとらはれ、恥を忘れ、石淋をなめて、命を助かりし事も、只彼の西施に偕老の契りを結びし故なり。然れば、西施を他国へ遣はさん事、適ふべからず」と言ふ。范蠡申しけるは、「誠に君王の展したる思ひをはるるに、臣か心成し増さるにはあらね共、もし西施を惜しみ給はば、呉越のへいき、二度破れて、此の国を取らるるのみならず。西施をも奪はれ、社稷をも傾けらるべし。つらつら、是をはかるに、呉王、婬の好み、色に迷ふ事、疑ひ無し。国つひえ、民背かん時に及びて、兵を起こし、呉を攻められんに、勝つ事、立所なるべし。然らば、夫人の御契、長久ならん」と、涙を流してくどきければ、越王、「我、前に范蠡がいさめを用ひずして、呉王にかこまれ、命つきなんとす。今又、彼のいさめ聞かずは、定めて天の照覧にも背きなん」とて、西施を呉国へぞ送られける。互ひの別れの袖、愁歎に残ると言ふも余り有り。され共、范蠡がいさめを違へず、一人の太子をも振り捨て出で給ふ御心も、只末の世を思ひ給ふ故なり。さりながら、一方ならぬ別れの悲しさ、例へん方も無し。さて、彼の西施は、一度ゑめば、百の媚有り、一度宮中に入りぬれば、呉王、心を惑はす。呉王は、思ひよりも心あくがれて、婬楽を好みて、夜とも知らず、遊宴をもつぱらとして、国の危ふきをも顧みず、誠に范蠡がいさめ違はずと見えける。此処に、呉王の臣下伍子胥、是を歎き、呉王をいさめて曰く、「君見ずや、殷の紂王は、妲己に迷ひて、世を乱し、周の幽王は、褒姒を愛して、国を傾けられし事、遠きにあらず」と、度々いさめけれ共、敢へて、是を聞かず。或る時、呉王、西施に宴せんとて、群臣を集め、枯蘇台にして、花に酔をすすめけるが、さしも玉をしき、金を大うする瑶階を上るとて、裙を高く掲げて、深き水を渡る時の如くにせり。人是をあやしみ、其の故を問へば、「此の枯蘇台、今越王に滅ぼされ、草深く、露繁き地とならん事遠からず。我、もし其れまで命あらば、昔の跡見んに、袖より余る荊棘の露深かるべき行末の秋、思へば、斯様にして渡らん」とぞ申しける。君王を始めて、聞く者、奇異の思ひをなせり。果たして思ひ合はせられけり。又、或る時、伍子胥、青蛇の如くなる剣を抜きて、呉王の前に置きて、言ふ様、「此の剣をとぐ事、邪を退け、敵を払はん為なり。つらつら、国の傾くべき基を尋ぬるに、皆西施より起これり。然れば、是に過ぎたる大敵無し。願はくは、西施が首をはねて、社稷の危ふきを助けん」と言ひて、歯がみをしてぞ、立つたりける。実にや、忠言は、耳にさかふ習ひなれば、呉王、大きに怒り、眼の前に置きて、国傾くと言ふとも、かろく我をや背かん。まして、今邪路に入る事、其の数ならず。是、偏に怨敵の語らひを受けたりと覚えたり。さあらんにおいては、是非ををかさざる先に、伍子胥を誅せらるべきにぞ定めける。伍子胥、敢へて是をいたまず、「我、君臣の朝恩を捨つべきにあらず。国乱れば、一番に出でて、呉王の為に、屍をさらすべき身也。越王の兵の手にかからんより、君王の手にかかり、死なん事、恨むべきにあらず。但し、君、臣がいさめを聞かずして、怒りをひろくして、我に死を与ふる事、天既に君を捨つる始めなり。君、越王に滅ぼされて、刑戮の罪にふせられん事、三ケ年を過ぐべからず。願はくは、我が両眼をうがちて、此の東門に掛けて、其の後、首をはね給へ。一双眼枯れずして、待ち申すべし。君、勾踐に滅ぼされんを見て、笑はん」と申しければ、呉王、いよいよ怒りをなして、遂に伍子胥を切られけり。無慙なりし有様也。然れ共、呉王、後悔先に立たざる理、思ひ合はせられけり、伍子胥願ひし如く、二つの眼を抜きて、東門に掛け置きたり。しかうして後、悪事いよいよ積もれ共、伍子胥が果を見て、敢へていさむる臣下も無し。あさましかりし有様なり。越国の范蠡、是を聞き、時既にいたりぬと喜びて、自ら二十万騎の兵を率して向かひけり。折節、呉王は、晋の国背くと聞きて、兵を率し、彼の国へ向かはれたる隙なりしかば、防ぐ兵、一人も無し。范蠡、先づ王宮へ乱れ入り、西施を取り返し、越の王宮へ返し入れ奉り、即ち、枯蘇城をやき払ふ。斉・楚の両国も、越王に志を通ずる子細有りければ、三十万騎の兵を出だし、范蠡が勢に力をぞ合はせける。呉王、是を聞き、大きに驚き、晋の国の戦ひを差し置きて、此の国に引き返し、越王に戦ひをなす。然れども、越・斉・楚の兵雲霞の如く、前よりきほへば、後ろよりは、晋の国の強敵、勝つに乗りて、追つ掛けたり。呉王、大敵に前後を包まれて、逃るべき方無かりければ、死をかろうして戦ふ事、三日三夜也。即ち、范蠡、あら手を入れかへて、息をもつがせず、攻めける程に、呉王の兵、三万余人打たれしかば、はつかに百余人になりにけり。呉王、自ら相戦ふ事、三十二ケ度也。夜半に及びて、百余人の兵、六十騎に成り、枯蘇山に上りて、越王の方へ使ひを立てて、「君王、昔、会稽山に苦しめおき、越王勾踐が命を助けし事、忘れべきにあらず。自らが臣下と成り、今、此の乱の起こす事、偏に助けし重恩にあらずや。我も、今より後、越王の如く、又君王の玉趾を頂かん。君、もし会稽の恩を忘れずは、今日の死を助け給へ」と、言葉をつくしけり。越王、是を聞きて、古の我が思ひ、今の人の悲しみこそ思ひ知られて、呉王を殺すに及ばず、其の死をすくはん事を思ひわづらひ給へり。范蠡、是を聞き、大きに怒り、越王の前に来たり、面ををかして申しけるは、古は、天、越を呉に与へたり。然るに、今は、又呉を越に施す。過ぎにし方の与へを、呉王取らずして、此の害にあひ、越又、かくの如く害に哀れむ事。君臣共に肝を砕きて、呉王をうる事、二十ケ年の春秋、あに思ひ知らざんや。君非を行ふ時、従はざるは忠臣なり」と言ひ捨てて、呉王の使ひ未だ帰らざるに、范蠡、自ら攻め鼓を打ちて、兵をすすめ、遂に呉王を生捕りにして、軍門の前に引き出だす。范蠡が年月ののぞみ、憤り、さこそと思ひ遣られたれ。呉王は、既に面縛せられて、呉の東門を通り給ひけるに、呉王の忠臣伍子胥がいさめ適はずして、首をはねられし時の両眼、幢に掛けたりしが、呉王の果を見んとして、三年まで枯れずして、見開きて有りしが、呉王面縛せられ、彼の一双の眼の前を渡りけるを見て、自ら動き働きて、笑ふ気色見えけり。執情の程ぞ恐ろしき。呉王、彼に面を合はせん事、さすが恥づかしくや思ひけん、袖を顔に押し当て、首を傾けて、通り給ふぞ、いたはしき。数万の兵、是を見て、唇を返さぬは無かりけり。さて、彼の伍子胥が眼、呉王の果を見送りて、霜の日影にとくるが如く、時の間に消えて失せにけるぞ、無慙なる。即ち、呉王夫差をば、典獄の官に下されて、会稽山の麓にて、遂に首をはね奉る。哀れなりし例とぞ申し伝へける。然れば、古より今に至るまで、俗の諺に、「会稽の恥を清む」とは、此の事を言ふなるべし。さて、越王は、呉国を取るのみならず、隣国まで従へ、いしやのちしゆとなりしかば、其の功を賞じて、范蠡をば、万戸の首領になさんとし給ひしか共、范蠡、かつて禄を受けず、「大名の下には、久居すべからず。功なり名遂げて、身退くは、天の道也」とて、遂に、名をかへ、陶朱公と言はれて、五湖と言ふ所に身を隠し、世を逃れて、釣して、白頭の翁と成りて、後には、行方知らずとぞ申し伝へける。或る人の曰く、「越王は、会稽の恥をすすぎ、運の開き、世にさかふ也。今の時宗は、恥をすすぐと雖も、一命を失ふ也。例へにも成るべからず」とぞ申しける。又、或る者の曰く、「此の人々(ひとびと)、弓矢を取つての勢、打物を取つての振舞ひ、呉越の戦ひには勝れる物かな」と感ずる人も多かりけり。聞く人、「理」とぞ申しける。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




