4-11 不条理な冤罪と、屈辱の果て
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
物語の舞台は、鎌倉幕府が盤石の態勢を整えつつあった建久年間。源頼朝の冷徹な統治下で、牙を剥く機会をじっと待つ曾我兄弟。
しかし、復讐という宿願を完遂するためには、時に泥水をすすり、誇りを捨ててでも生き延びなければならない瞬間がある。
兄・曾我十郎 祐成は、身内に仕掛けられた「最悪の冤罪」という理不尽なイベントに巻き込まれることになる。
三浦の地に、三浦の別当と呼ばれる男がいた。曾我兄弟にとっては叔父に当たる有力者だ。この別当、身の回りの世話をさせるために片貝という名の絶世の美女を召し使っていた。
別当が彼女にちょっかいを出しているという噂を聞きつけ、安らかでいられなかったのが、彼の正妻――すなわち十郎の叔母である。
「あの女さえいなければ……! 淵川に沈めてやりたいほど憎い!」
そんな嫉妬に狂う彼女が思いついたのは、甥である十郎を利用した「厄介払い」だった。彼女は十郎を呼び寄せ、猫なで声で語りかけた。
「十郎、お前にいい話があるわ。ここに片貝という、気立ても容姿も最高な娘がいるの。お前のような独り身の武士にこそふさわしいわ。曾我の里へ連れて帰って、お前の側におきなさいな」
十郎は、叔母の心の奥に渦巻くドロドロとした嫉妬など知る由もない。
「……はぁ。叔母上がそこまで仰るなら、承知いたしました」
生返事で承諾した十郎だったが、彼は復讐の準備で忙しい身だ。女を連れて帰るどころか、その日のうちにさっさと一人で帰路についてしまった。
一方、別当の郎党たちは、歪められた情報を掴んでいた。
「大変です! 曾我の十郎が、別当様のお気に入りである片貝を強引に奪って、曾我へ逃げ帰りました!」
これを聞いて激怒したのは、伊沢平内、深瀬源八、難波太郎といった血気盛んな三浦の武士たちだ。
「あの没落した曾我の小倅が、我らの主君の女に手を出すとは、舐められたものだ。奪い返して、首を跳ねてやる!」
七、八騎の精鋭が馬を飛ばし、十郎を追撃する。彼らが十郎に追いついたのは、淵川のほとり。
「逃がさぬぞ、祐成! 矢を番えろ、一人も通すな!」
殺気立った一団に包囲され、十郎は馬を止めた。
「……何事だ、一体」
十郎が馬を下り、弓を握り直す。
郎党たちが詰め寄って確認するが、どこを探しても女の姿はない。しかし、一度振り上げた拳を下ろせないのが武士の性。
「女がいないからといって、無罪放免とはいかん。お前の不届きな振舞い、ここで精算させてもらうぞ!」
十郎の指が、弦にかかる。本来の彼なら、ここで三浦の郎党どもを皆殺しにして突き進むだろう。だが、彼は冷静だった。
(ここでこいつらと戦えば、叔母上の一族と殺し合いになる。そうなれば、鎌倉殿に目をつけられ、工藤祐経を討つ前に俺の命は尽きる……)
十郎は、静かに、そしてゆっくりと。武士の魂である弓を、地面に投げ捨てた。
「――待て。私に言い分はあるが、今はあえて『降伏』しよう。何と言われようと構わない。今は、騒ぎを沈めてくれ」
「……何だと? 曾我の十郎が、戦わずに弓を捨てたのか?」
郎党たちはあざ笑った。「意気地なしめ」「命が惜しいか」罵声を浴びせられながらも、十郎は唇を噛み締めて耐えた。
かつて中国の呉王・夫差に敗れた越王・勾践は、屈辱に耐え、糞を舐めてまで生き延びて復讐を遂げたという。
十郎の心も、それと同じだった。
(笑え……今はいくらでも笑うがいい。俺が守りたいのは、この命ではない。父上の仇を討つという『約束』だけだ)
後日、事の真相を知った三浦の別当は、青ざめて十郎を呼び出した。
「十郎……すまなかった。私の郎党たちが、愚かな勘違いでとんでもない無礼を働いた。……すべては、妻の嫉妬が原因だ。私が命令したことではない。二所大権現にかけて誓う、私は何も知らなかったのだ!」
別当は十郎への詫びとして、問題の美女・片貝をそのまま彼に譲ると言い出した。しかし、十郎の返答は冷ややかだった。
「……お気遣いなく。私に誤りがないことは証明されました。それで十分です。その女性は、別当様のもとへお返しします」
十郎は女を捨て置くと、一度も振り返らずに曾我の里へと帰っていった。その後、別当はあまりの恥辱と妻の醜い嫉妬に呆れ果て、長年連れ添った妻を離別したという。
身内の痴話喧嘩に巻き込まれ、弓を捨ててまで屈辱に耐えた十郎。里へ戻った彼を迎えた五郎は、兄の汚れた直垂を見て、すべてを悟った。
「兄上……。その恥、富士の山で必ず雪ぎましょう」
「ああ。五郎。……無駄な死はいらない。俺たちは、あの男を一人を殺すためだけに、この命を磨き上げるんだ」
嫉妬、冤罪、格差。世の中のあらゆる理不尽を飲み込みながら、復讐者が選んだのは忍耐だった。
曾我物語 巻第四(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔三浦の片貝が事〕
又、此の人々(ひとびと)の伯母聟に、三浦の別当と言ふ者有り。片貝と言ひて、優なる美女を召し使ひけり。別当、折々(をりをり)情を懸けたりしを、女房聞き、安からずに思ひ、淵川にも身を沈めんと言ひければ、「如何でか、彼等体の者に思ひかへ奉るべき。月まつ程の夕まぐれ、風の便りの徒然を慰むにこそ。今より後は、思ひ捨てぬべし。心安く」と言ひけれ共、猶も思ひ止まらで、うづみ火の下に焦がるるたきもののにほひは、余所に現れて、心を此の儘にて、事を限らんと思ひつつ、十郎に言ひ合はせんとて、急ぎ人を遣はし、十郎を呼び寄せけり。いつと無く、行きむつぶる事なれば、伯母は十郎を傍に招き寄せ、「是に、片貝とて、召し使ふ女有り。かたち・心様・品、世に越えたり。一人あれば、如何なる事もこそと覚束無く覚ゆれば、風の便りのおとづれに、まつには音する習ひなり。何かは苦しかるべき。曾我へ具足し給へかし」と語りければ、親方の言ふ事なり、かねても斯様の事とは夢にも知らで、「さ承りぬ」と言ふ。女房、やがて片貝を呼び出だして、しかしかと語る。十郎は、曾我にさして用の事有りければ、其の夜をまつまでも無く、暮れ程に帰りけり。此の事、別当が郎等共、ほの聞きて、片貝を曾我へ取りて行くぞと心得て、伊沢の平蔵、深瀬の源八、難波の太郎を先として、むねとの者七八人寄り合ひて、「不思議を振舞ひ給ふ祐成かな。是程の事、別当に申すまでも有るべからず。いざや行きて、彼の女奪ひ返さん」「然るべし」とて、馬引き寄せ引き寄せ打ち乗りて、三浦を打ち出でつ、ふ川のはたにて、追ひ付きたり。彼等、片手矢をはめて、矢筈を取り、余すまじとて、思ひ掛けたり。十郎、何事とは知らねども、子細有りと心得て、馬より下り立ち、弓取り直し、「何事にや」と問ふ。此の者共、掛け見れば、片貝は無し。然れども、言ひかかりたる事なれば、振舞ひ然るべからず、尋ねて参らん為なりとて、既に事実に見えけり。始めをはりをも知らず、敵は又、伯母の若党なり。打ち違へても、詮無し。如何にもして、逃ればやと思ひければ、自ら弓を投げ出だし、「陳ずるには似たれども、身におきて、事を覚えず。さもあれ、僻事有りとも、斯様には有るまじ。鎮まり給へ。別に思ふ子細有りて、降をこひ申すなり。自然の時、思ひ知るべし」と言ひければ、伊沢の平三、「仰せの如く、人の讒言にてもや有るらん。まさしく片貝を具足して、御こしとこそ聞きつる。さもあらねば、あらたむるに及ばず。其の上、御陳法の上は、重ねて申すべからず」とて、皆三浦に帰りけり。十郎は、ちぢに腹を切り、打ち違へても、あかず思ひけれども、父の為にそなへて置きたる命、思はざる事に、はつべきかと思ひ、自害を逃れけるこそ、無慙なれ。漢朝の呉王夫差は、越王勾踐の為に、みふんみつのみて、命を継ぎ、会稽山に、二度恥を清めるも、今の十郎が心に同じ。無慙と言ふも、言葉に余り、哀れと言ふも、涙に立たざりけり。別当、是を尋ね聞き、涙を流し、宣ひけるは、「思ひ忘るるかと案じつるに、未だ心に懸けらるるや。十郎呼べ」とて、呼ばせけり。過たず帰り来たりぬ。三浦の別当、対面して、「さても、是なる者共の、聞き分けたる事も無くて、不思議の振舞ひしつるらん。まつたく、某は知らず候ふ。もし偽り申さば、二所大権現も、御覧候へ、弓矢の冥加、立所に絶えなんずるに、思ひだによらざる事なり。仮令面々(めんめん)の誤り、十分に有りと言ふとも、如何でか、斯様の沙汰をば致すべき。其れ程の事に、迷ふべき身ならず。予ても知り給ひぬらん。腹い給へ」とて、片貝を呼び出だし、十郎にとらせけり。つつしんで申しけるは、「仰せまでも候はず。御意とは存ぜず。其の上、身に誤り候はねば、無念と申すべきにもあらず。然るに取りては、苦しく候はぬ」とて、片貝をば、別当のもとに捨ておき、曾我の里へぞ帰りにける。彼の郎等共、深く勘当しけるとかや。此の事を詳しく問ひければ、女のわざにてぞ有りける。然れば、嫉妬の女は、前後をわきまへずして、家を失ふ仮令、今に始めずと雖も、か程の大事出で来なんとは知らで、言ひ合はせけるぞ、誠の嫉妬にて有りける。別当は、しかしながら、向顔せざるまでとて、女と離別しける、理とぞ聞こえし。さても、十郎が此処へ逃れけるにて、左伝の言葉を思ふに、「身に思ひのあらん時は、万恥を捨てて、害を逃れよ」となり。相あふ心なるとかや。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




