4-1 隠された元服と、箱根の雪に散る涙
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
物語の舞台は、鎌倉幕府が成立して間もない頃。表舞台では源頼朝が天下を統治し、誰もがその威光にひれ伏していた。
だが、その華やかな影で、歴史の歯車に押し潰されそうになりながら、静かに、しかし熱く「復讐」という名の残り火を絶やさぬ兄弟がいた。光陰矢のごとし。月日は人を待たず、馬が駆け抜けるように過ぎ去っていく。
時は流れ、兄の一万は13歳になった。本来であれば、名門の血を引く若君として盛大な「元服」を挙げるはずの年齢だ。しかし、彼らの立場はあまりにも危うかった。伊東祐親の孫という「反逆者の血筋」であり、常に鎌倉殿の目を憚らねばならない。
そこで一万は、家族だけで密かに儀式を行った。前髪を落とし、烏帽子を被る。名乗ったのは、実父の姓ではない。彼らをここまで育ててくれた継父、曾我太郎祐信の名を借り、「曾我十郎 祐成」と。
(……河津の名を継ぐ日は、まだ先だ。今はただ、曾我の息子として牙を隠し、時を待つ)
少年のあどけなさが消えた十郎の瞳には、かつて月夜に誓った「敵討ち」への執念が、より深く、鋭く宿っていた。
一方、弟の箱王が十一歳になった時、母は彼を呼び寄せて残酷な、しかし愛ゆえの宣告を下した。
「箱王殿。お前は箱根権現の住職のもとへ行き、出家して僧侶になりなさい。学問に励み、亡き父上の菩提を弔うのです」
母の言葉には、迷いがなかった。
「決して、俗世の男たちを羨んではいけません。華やかな絹の袖も、僧侶の衣も、命の重さに変わりはないのです。古の大目連尊者のように、母の教えを胸に刻み、父上の跡を、そして自らの魂を救うのです」
母は、箱王を「復讐」から遠ざけたかった。武士として生きれば、いつか必ず頼朝の刃に触れる。ならば、神仏の世界へ逃がすことで、せめてその命だけは守りたかったのだ。
箱王は、心の中に渦巻く激しい激情を押し殺し、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
箱王が箱根山に上がってから、2年の月日が流れた。
13歳になった箱王は、修行に明け暮れる毎日を過ごしていた。12月下旬。山には雪が降り積もり、新年を迎える準備が始まる。
箱根の坊には、箱王と同じように預けられた稚児たちが20人ほどいた。年の瀬ともなれば、それぞれの親元や親戚から、続々と手紙や贈り物が届く。
「見てくれ、父上から正月の新しい装束と、師匠への贈り物が届いたぞ!」
「私には、母上と叔父上から三通も手紙が来た!」
稚児たちは競うように手紙を読み上げ、自慢し合う。
そんな中、箱王に届いたのは、母からのたった一通の手紙と、質素な装束だけだった。箱王は、手紙を袂に隠すと、人目を避けるように廊下の隅へと移動した。その背中は、寒風に震えていた。
泣き沈む箱王に、一人の稚児が声をかけた。
「どうしたんだい、箱王?」
箱王は涙を拭い、絞り出すように答えた。
「……皆はいいな。父上の手紙がある、親戚の手紙があると喜んでおられる。……私には、母上の手紙しかない。父という人が書く手紙がどのようなものか、私は知らないんだ」
箱王の慟哭は止まらなかった。
「兄の十郎殿からも、近頃は便りがない。曾我の父上も、私には一度も言葉をかけてはくれない。……たとえ一月に一度でもいい。『しっかり学問をしろ、怠けるな』という父上の厳しい手紙が届いたなら、私はどれほど嬉しく、恐ろしく思ったことだろう。……年の瀬に一番見たいものは、父上の手紙だ」
箱王の孤独な叫びに、周囲の稚児たちも、かける言葉が無く、共に泣いたという。
しかし、箱王はただ泣いて終わる少年ではなかった。新年の祝賀も、春の朝拝も、彼にとっては意味をなさなかった。
彼は昼夜を問わず、箱根権現の社へと足を運んだ。神前で跪き、額を地面に擦りつける。
「南無帰命頂礼、箱根権現。願わくは、私に父の仇を討たせ給え……!」
母が願った「安らかな僧侶の道」など、彼の魂には一秒たりとも存在しなかった。父の手紙がないのなら、父の仇の首を、その手紙の代わりに手に入れる。
孤独な修行の日々は、彼の中に眠っていた「復讐の怪物」を、さらに強靭に育て上げていたのである。
箱根の雪を溶かすほどの、少年の激しい執念。その頃、鎌倉の頼朝の側近として、工藤祐経は依然として絶頂の時を過ごしていた。
しかし、神仏は時に残酷な悪戯を仕掛ける。数年後、この箱根の地へ、工藤祐経が「参詣」に訪れることになる。
修行僧の箱王と、傲慢な寵臣・祐経。ついに、二人の運命が再び交差しようとしていた。
曾我物語 巻第四 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔十郎元服の事〕
光陰惜しむべし、時人を待たざる理、隙行く駒、つながぬ月日重なりて、一万は十三 歳になりにける。身の不祥なるに、又、公方を憚る事なれば、秘かに元服して、継父の名を取り、曾我の十郎祐成と名乗りける。
〔箱王、箱根へ上る事〕
母、弟の箱王を呼び寄せて宣ひけるは、「わ殿は、箱根の別当のもとへ行き、法師に成り、学問して、親の後世弔へ。努々(ゆめゆめ)、男羨ましく思ふべからず。世を逃るる身なれば、綾羅錦繍の袖も、衣に同じ。十善帝王も、身を捨て、人に対するに、所無し。憂きもつらきも、世の中は、夢ぞと思ひ定むべし。伝へ聞く大 目連せしは、母の教へ給ひし御言葉を、耳の底に保ち給ひてこそ、五百大 阿羅漢には越え給ひし。構へて法師と成りて、父の跡をも、童が後生をも助け給へ」と申されければ、箱王、身に思ふ事有ると思ひけれども、「承り候ふ」とぞ言ひける。母喜びて、生年十一歳より、箱根に上せ、年月を送りける程に、箱王、十三にぞ成りにける。十二月下 旬の頃、彼の坊の稚児・同宿、二十 余人有りける者共の末まで、親・親しき方より、面々に音信共有りけるに、「下れ」と書きたる文も有り、或いは元三の装束に、師の御坊への贈り物添へたる文も有り、或いは父の文、母の文、伯父・伯母の文などとて、二つ三つよむ稚児も有り、五つ六つよむ稚児も有りける中に、箱王は、只母の文ばかりに、からがら装束添へて送りける。万羨ましくて、文袂に入れ、傍に行き、泣きしをれて、或る稚児にあひて言ひけるは、「人は皆、父母の文、親しき方の御文とて、読み給ふに、我は只、母の御文ばかりにて、父とやらんの御文は知らず。何とかかれたる物ぞや。見せ給へ。十郎殿と二宮殿は、何とやらん、此の程は、かき絶え問ひ給はず。曾我殿は坐しませども、一度のことづてにも預からず、一月に一度也とも、父の御文とて、「学問よくせよ、不用するな」なんどと言はれ奉らば、如何ばかりか、嬉しく恐ろしくも有りなまし。いつよりも恨めしきは、年の暮れ、恋しく見たき物は、父の御文なり」とて、さめざめとぞ泣きける、心無き稚児も、理とや思ひけん、共に涙を流しけり。然れば、箱王は、あらたま年の祝言をも忘れ、あたらしき春の朝拝をも、物ならず思ひ焦がれて、昼夜は、権現に参り、「南無帰命頂礼、願はくは、父の敵を打たしめ給へ」と、歩みを運びけるぞ、無慙なる。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




