2-4 潜龍の脱出、信じられるのは敵の息子だけ
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
かつて源氏と平氏が覇を競い、平家の栄華が頂点に達していた時代。伊豆の地に流された源頼朝の周囲では、一族の執念が絡み合い、歴史を揺るがす「暗殺計画」が実行されようとしていた。
愛する我が子・千鶴を殺され、愛する女性を奪われた頼朝。だが、伊東祐親の怒りはそれだけでは収まらなかった。
伊東祐親という男は、もはや正気ではなかった。平家への恐怖が、彼を「狂気」という名の深淵へと叩き落としていたのだ。
「源氏の種は、根絶やしにせねばならん。千鶴を殺しただけでは足りぬ。……今夜、頼朝を夜討ちにする」
祐親は密かに郎等を招集し、暗殺の準備を進めた。だが、この暴挙に異を唱える者が、身内にいた。祐親の次男、伊東九郎祐清である。
(父上は、取り返しのつかないことをしようとしている……!)
祐清は闇に紛れ、頼朝の居所へと走った。
そこには、何も知らずに静かな夜を過ごしている、かつての義兄――源頼朝の姿があった。
「――佐殿! 今すぐここをお逃げください!」
祐清は息を切らしながら、頼朝の前に平伏した。
「私の父、祐親が……物に狂ったように、貴方様を討とうと兵を催しております。一刻の猶予もありません。どこへでも、お隠れください!」
だが、頼朝は動かなかった。その瞳には、冷徹な疑いの色が浮かんでいる。頼朝は、かつて古典に読んだ『長沙王』の悲劇を思い出していた。
(……歴史は繰り返す。王が害されたのは、微笑みの裏にある刃に気づかなかったからだ。人は、笑いながら刀を抜くもの。ましてや、私を殺そうとしているのは父であり、それを告げに来たのはその息子。……これは、私を誘い出して仕留めるための、巧妙な罠ではないのか?)
頼朝は、祐清をじろりと睨みつけ、静かに言い放った。
「祐清よ。本気で私を殺すつもりなら、どこへ逃げても同じことだ。だが、見苦しく逃げ回って人手にかかるよりは、マシな死に方がある。……いっそ今ここで、お前が私の首を取れ。そして父である入道に見せ、忠義の証とするがいい」
祐清は、頼朝の疑いを聞いて震え上がった。無理もない。この乱世、親子ですら殺し合う時代だ。ましてや敵対する一族の警告など、罠だと思って当然である。
「……仰せの通り、人の心ほど語り難いものはございません。蜂を衣に忍ばせて毒を盛るような、偽りの計略が渦巻くのがこの世の常。貴方様が私を疑うのも、当然の道理です」
祐清は、頼朝の目を真っ直ぐに見据えた。そして、腰の刀を抜き、自らの喉元へ寄せた。
「ならば、私はこの国を統べる伊豆・箱根の大明神にかけて誓いましょう! 弓矢の冥加を長く失い、私は今ここで、貴方様の前で命を絶ちましょう。不忠な偽りがないことを、この祐清の死をもって証明いたします!」
「――よせ、祐清」
頼朝の手が、祐清の腕を掴んだ。祐清の瞳には、打算など微塵もなかった。あるのは、ただ一つの純粋な「誠実」だけだ。頼朝は、ようやくその手を離し、小さく息を吐いた。
「……信じよう。お前のその志、無駄にはせぬ。では、どうすればいい?」
祐清は、素早く頭を回転させた。
「準備はできております。藤九郎 盛長と、弥三郎 成綱の二人は、この館に留めてください。彼らが貴方様のふりをして、しばらく時間を稼ぎます」
「囮を立てるのか」
「はい。貴方様は、名馬『大鹿毛』にお乗りください。従者は鬼武一人のみ。身軽な格好で、北条の館を目指して忍び出すのです。……あそこには、北条時政殿がおります。父の支配が及ばぬ場所は、そこしかありません」
祐清は立ち上がり、最後のアドバイスを口にした。
「……討手が来るまで、私が父を足止めします。事態をできるだけ引き延ばしてみせましょう。さあ、一刻も早く!」
祐清はそう言い残すと、夜の闇へと消えていった。
頼朝は、大鹿毛の背にまたがった。側に控えるのは、忠実な稚児、鬼武。
「主君、行きましょう」
「……ああ。伊東祐清……。お前のこの恩、いつか必ず報いよう」
頼朝は、かつて自分が愛した女性と、愛した子が眠る伊東の地を振り返ることなく、馬の腹を蹴った。闇を切り裂く蹄の音。それは、平家への反旗を翻すための、長い長い「反撃」の第一歩。
背後では、伊東祐親の兵たちが、何も知らずに空っぽの寝所を包囲しようとしていた。そしてその中心には、父の目を欺きながら、主君の無事を祈る祐清の姿がある。
親子でありながら敵対し、敵対しながら守り合う。
坂東武者たちの、あまりにも複雑で、あまりにも熱い「義」の物語。
頼朝が北条の館に辿り着き、そこで運命の女性、北条政子と出会うまで――歴史の秒読みは、もう止まらない。
曾我物語 巻第二 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔頼朝、伊東を出で給ふ事〕
剰へ、佐殿をも、夜討にし奉らんとて、郎等を催しける。此処に、祐親が次男伊東の九郎祐清と言ふもの有り。秘かに佐殿へ参り、申しけるは、「親にて候ふ祐親こそ、物に狂ひ候ひて、君を打ち奉らんと仕り候へ。何処へも御忍び候へ」と申しければ、頼朝聞こし召し、ちやうさい王が、害にあひしも、偽る事は知らでなり、ゑみの内に刀をぬくは、習ひなり、人の心知り難ければ、君臣父子、いを以ておそるべし、況や、打たんとするは、親なり、告げ知らするは、子なり、方々(かたがた)、不審に覚えたり、いかさま、我をたばかるにこそとて、打ちとけ給ふ事も無し。「誠に思ひ掛けられなば、何処へ行きても逃るべきか。然れども、左右無く自害するに及ばず、人手にかからんよりは、汝、早く頼朝が首を取りて、父入道に見せよ」と仰せられければ、祐清承りて、「仰せの如く、語らひ難き人の心にて候ふ。蜂を取りて、衣の首に返して、親子の心に違ひしも、偽るたくみなり。君思し召すも、御理、誠の御志とは思し召さずして、いしやうのはう、もつとも御疑ひ、理なり。忝くも、不忠申し候はば、当国二所大明神の御罰を蒙り、弓矢の冥加長く付き、祐清が命、御前にてはて候ひなん」と申しければ、佐殿聞こし召し、大きに御喜び有りて、「斯様に告げ知らする志ならば、如何にもよき様に相はからひ候へ」と仰せければ、祐清承りて、「藤九郎盛長、弥三郎成綱をば、君御座の様にて、暫く是に置かれ候ふべし。君は、大鹿毛に召されて、鬼武ばかり召し具し、北条へ御忍び候へ」と申し置きて、「御討手もや参り候はん、事をのばし候はん」とて、急ぎ御前を立ちにけり。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




