12-8 絶世の美女から聖女へ
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
大磯の静かな庵、高麗寺の奥深くに集った四人の女性たち。仇討ちを成し遂げた曾我兄弟の母、姉、そして最愛の女性であった虎と少将。
七年の月日を経て再会した彼女たちの対話は、いつしか「いかにして救われるか」という魂の核心へと移り変わる。
「……少将殿。貴女こそ、あの念仏の法門を詳しく知っているはず。どうか、母上とお姉様に聞かせて差し上げてください」
虎は少しだけ微笑み、隣に座る戦友――手越の少将に話を振った。少将は居住まいを正し、少しだけ照れたように、しかし確かな口調で語り始めた。
「……私とて、全てを知り尽くしているわけではありません。けれど、あの日都で法然上人が仰った言葉は、今もこの耳に焼き付いております。……皆さま、聞いてください」
それは、当時の仏教界を根底から覆した、あまりにもシンプルで強力な「救いの公式」だった。
「まず、なぜ私たちがこの苦しい世界に生まれ落ちたのか。その根源を探れば、たった一念の『妄執』……迷いの心によって、真実の都を追い出されたからなのです」
少将の言葉は、まるで世界の理を解き明かすかのようだった。
「私たちは、上は有頂天から下は阿鼻地獄まで、終わりなき転生を繰り返してきました。ですが、前世の功徳がようやく発動し、今、人間に生まれることができた。私たちの内には『仏性』があり、外には『諸仏の願い』がある。……発心さえすれば、救われないはずがないのです」
「しかし……」と少将は言葉を継いだ。
「これまでの修行は、私たちのような凡夫には難易度が高すぎました」
彼女は、法然上人自身の苦悩を例に挙げた。
「法然上人様ほどの方が、七千巻もの経典を読破して導き出した結論は、『自力では無理だ』ということでした。深い瞑想に耽れば心は疲れ、複雑な修行を完璧にこなすことは困難。ましてや、私たち女性には、歴史的な『五障三従』という重い足枷がございます」
当時の宗教界における、残酷なまでの「女性お断り」の現実――。比叡山は真如の月は明るいが、女性の闇までは照らさない。高野山も清らかな水は流れるが、女性の穢れまでは洗わない。金峰山、醍醐、白山、いずれの霊地も、女性が近づくことさえ許されない。
「一部の経典には、『女性は地獄の使いである』『顔は菩薩でも心は夜叉だ』とさえ書かれています。私たちは、あらゆる場所で嫌われていたのです」
「……そんな絶望的な状況で、たった一人。阿弥陀如来だけが、私たちを見捨てなかった」
少将の声に熱がこもる。
「阿弥陀様は誓われました。『極重の悪人、他の手段なき者を救う』と。それが、女人成仏の願です。……これは、例えるなら名医・耆婆が処方した万能薬のようなもの」
「薬を飲むのに、成分を全て知る必要はありません。ただ『信じて服用』すれば、悪業は癒える。逆に、『これだけで治るはずがない』と疑って飲まなければ、どんな名医でも救えません。宝の山に入りながら、手を空にして帰るようなものです」
「南無阿弥陀仏」。
ただこの六文字を唱えるだけで、何年もの修行をショートカットし、死の瞬間には観音・勢至を始めとする聖衆が、歌い踊りながら迎えに来てくれる。
「浄土へ行けば、亡き父母や、あの兄弟……十郎様、五郎様を導く力さえ得られます。例え地獄の業火の中に飛び込もうとも、解脱の衣に守られ、安らかに彼らを救い出すことができるのです。……全ては、信じるか、信じないか。ただそれだけなのです」
少将の、魂を揺さぶるような説法が終わった。庵の中に、清々しい沈黙が流れる。
「……ああ。あああ……!」
曾我兄弟の母は、感涙を抑えきれず、その場に伏した。
「……今まで、ずっと不安でした。女の身で、罪深き私のような者が、どうやってあの子たちの元へ行けるのかと。……でも、今、ようやく分かりました。阿弥陀様は、私を待っていてくださったのですね」
母は、虎と少将を仰ぎ見た。かつては「息子の恋人」だと思っていた彼女たちが、今は自分を浄土へと導く、至高の師に見えた。
「……虎殿、少将殿。今より、私はお二人の弟子となります。どうか、どうか私を、あの子たちのいる世界へ導いてください!」
母は、三度、深く床に額を擦りつけた。その姿に、二宮の姉も、少将も、虎も、共に涙を流しながら手を合わせた。富士の裾野で燃え盛った復讐の炎は、今、大磯の静かな庵で、全ての魂を救う「慈悲の光」へと完全に転換された。
曾我物語 巻第十二(明治四十四年刊 國民文庫本)
〔少将法門の事〕
虎、少将の方を見遣り、少し打ち笑ひ、「あにこそ、念仏の法門共知らせ給ひて候へ。申して聞かせ参らせ給へ」と申しければ、「童も、詳しき事は知り参らせず候ふ。一年、都にて、法然上人仰せしは、「抑、生死の根源を尋ね候へば、只一念の妄執にかどはされて、由無く法性の都を迷ひ出でて、三界六道に生まれ、衆生とはなれり。然れば、地獄の八寒八熱の苦しみ、餓鬼の饑饉の愁へ、畜生残害の思ひ、其の外、天上の五衰、人間の八苦、一つとして受けずと言ふ事無く、上は有頂点を限り、下は阿鼻を際として、出づる期は無きが故に、流転の衆生とは申すなり。然りと雖も、宿善や催しけん、今人間に生まれぬ。内に、本有の仏性有り、外に、諸仏の悲願有り。人木石にあらず、発心せば、などか成仏得脱無からん。其れについて、修行まちまちなりと雖も、我等が如きの衆生は、諸教の徳に適ひ難し。先づ、法然房が如くは、七千余巻の経蔵に入りて、つらつら出離の要義を案ずるに、顕に付け密に付け、開悟安からず、事と言ひ理と言ひ、修行成就し難し。一実円融の窓の前には、即是の妙観に疲れ、三密同体の床の上には、又現世の証入現し難し。然る間、涯分を計りて、浄土を願ひ、他力を頼み、名号を唱ふ。誠に、浄土の経文は、直至道場の目足なり。有智無智、誰の人か帰せざらんや。既に正像早くくれて、戒定慧の三学は名のみ残りて、有教無人、有名無実なり。殊に女人は、五障三従とて、障り有る身なれば、即身成仏は、先づ置きぬ、聞法結縁の為に、霊仏霊社にまうづるさへ、踏まざる霊地有り、拝せざる仏像有り。天台山は、桓武の起願、伝教の建立なり。一乗の峰高うして、真如の月ほがらかなりと雖も、五障の闇をてらす事無し。高野山は、嵯峨天皇の御宇、弘法大師の地を示し、八葉の峰、八の谷、冷々として、水いさぎよしと雖も、三従の垢をばすすがず。其の外、金峰の雲の上、醍醐霞の底、深し、白山、書写の寺、斯様の所々には、女人近付く事も無し。然れば、或る経の文には、『三世の諸仏眼は、大地に落ちてくつとも、女人成仏する事無し』と言へり。又、或る経の文には、『女人は、地獄の使ひなり、よく仏の種をたつ。外の面は、菩薩に似たれども、内の心は、夜叉の如し』と言へり。然れば、内典・外典に嫌はれたる所に、弥陀如来、『極重悪人、無他方便』と誓ひ給ひて、別に又、女人成仏の願有り。か程に、懇ろに哀れみ給ふ事を、信ぜず行ぜずして、又三途に帰らん事、例へば、耆婆が万病をばいやす薬、諸々の薬、何両合はせたりと知らざれども、服すれば、即ちいゆ。病極めて重き者の、薬ばかりにてはと疑ひて、服せずは、耆婆が医術も、扁鵲が医方も、益有るべからず。其の如く、煩悩悪業は、極めて重し。此の名号にては如何と疑ひて、信ぜず行ぜざらんは、弥陀本願も、釈迦の説教も、空しかるべし。抑、薬をえて、服せずして死せんの事、崑崙山に行きて、玉を取らずして帰り、栴檀の林に入りて、梢を待たずしてはてなば、後悔するとも、由無し。其の上、五劫思惟、兆載永劫の万善万行、諸波羅蜜の功徳を三字にをさめ給へり。然れば、『阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八万諸聖教』と言ふ時は、八万教法、諸仏菩薩も、名号たひないの功徳となれり。然れば、天台には、法報王の三身、空仮中の三諦なりと釈し坐しまし候ふ。森羅万象、山河大地、弥陀に漏れたる事無し。是に依りて、只もつぱら弥陀を以て、法門の主とすと釈し給へり。正依の経には、『いとくたり大りそくせんしやうくとく』ととき、傍依の経には、『一万三千仏を高さ十丈に金を以て十度作り、供養せんより、一返の名号はすぐれたり』と言へり。善知識の教へを深く信じて、『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と唱ふれば、三祇百大劫の修行をも越え、塵沙無明の惑をも断ぜず、致使凡夫念即生、不断煩悩得涅槃とて、終焉の時は、一さんいの心を変化して、観音・勢至、無数の聖衆、化仏菩薩、踊躍歓喜して、須臾の間に、無為の報土へ参りなば、無辺の菩薩を同学とし、上界の如来を師として、宝池に遊び、樹下に行きて、鸚鵡・舎利・迦陵頻伽の声を聞き、苦・空・無常・無我の四徳、波羅蜜の悟りを開き給ひなば、過去の恩、所生所生の父母、妻子眷属、有縁の衆生を導かん為に、洞然猛火の焔に交はり、紅蓮大紅蓮の氷に入り給ふ共、解脱の袂は安楽として、済度利生し給ふべし。但し、往生の定不定は、信心の有無によるべし。努々 疑ふ事無かれ」と宣ふを、我々は聴聞申して候ふ」と申しければ、母、感涙を抑へて、言ひけるは、「今の法門、聴聞申し候へば、信心肝に銘じて、有り難く候ふ。今より後は、方々の御弟子にて候ふべし」とて、三度伏し拝み、
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




