12-3 残された女性たちの邂逅
曽我物語は、鎌倉時代に富士野で起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物風の英雄伝記物語。作者・成立年ともに不詳。後年、能や歌舞伎などの演劇や物語・小説の題材となり人気を博し、文芸界に「曽我物」と呼ばれるジャンルを築いた。「日本三大仇討ちもの」の一つとされる 出典:Wikipedia
秋風が墨染めの衣を冷たく揺らす。
虎は、かつて十郎と語り合った思い出の詰まった手越の宿へと辿り着いた。
彼女は一軒の質素な小家に立ち寄り、主である老女に声をかける。
「……旅の者です。少将御前にお伝えください。『折り入ってお話ししたいことがございます』と」
老女は、目の前の尼僧から漂う並外れた気品に圧倒され、すぐさま少将を呼びに走りました。
「少将様、旅の尼公がお目見えです。何やら大切なご様子で……」
奥から現れたのは、かつて工藤祐経の寵愛を受け、十郎とも面識のあった美女、手越の少将。
「……え?」
少将は、目の前に立つ人物を見て、息を飲んだ。
かつて「日本一の美女」と称えられ、華やかな小袖を纏って十郎の隣にいた、あの眩いばかりの虎御前。それが今や、艶やかな黒髪を捨て、質素な黒衣に身を包んだ、やつれ果てた尼僧として立っている。
「……虎、殿……。貴女、なのですか?」
少将の目から、大粒の涙が溢れ出た。あまりの変わり果てた姿に、かけるべき言葉さえ見つからない。
虎は静かに微笑み、震える声で語り始めた。
「少将殿、お久しぶりです。……祐成(十郎)様とあの日々を過ごして、もう三年になります。あの方が亡くなったと聞いた時、私は後を追って死のうと思いました。……けれど、つれなき命はこうして永らえてしまいました」
虎は自らの墨染めの袖を見つめる。
「遊女という身の上ゆえ、思うようにならぬこともありましたが、百箇日の法要を機に箱根で髪を下ろしました。先日、富士の裾野の井出を訪ね、あの方が散った跡を見て参りました。……せめて、この姿を貴女に見せ、あの日の物語を共有したいと思い、ここまで参ったのです」
少将は涙を拭い、虎の手を強く握り締めた。
「……ああ、虎殿。貴女がどれほど嘆かれたか、察するに余りあります。……実は、私もあの日以来、片時もあの夜のことを忘れたことはございません」
少将は、誰も知らない「真実」を語り始めた。
「去る夏の頃……工藤左衛門尉(祐経)に呼ばれ、酒宴の席に侍っていた時。……そこに、十郎殿がいらしたのです。初めてお目にかかったあの方は、祐経のあまりにも卑劣な悪口を、ただ静かに、押し黙って耐えておられました」
少将の瞳に、あの日見た十郎の横顔が浮ぶ。
「あの方の瞳の奥には、凄まじいまでの覚悟の炎が見えました。『ああ、今夜、何かが起きる』。座敷の空気は、凍りつくように冷え切っていた。それなのに、十郎殿はただ静かにお酒を飲み、そのまま席を立たれた。……その時の、あの方の悲しいほどに美しい振る舞いが、今も目に焼き付いています」
虎は息を呑みました。十郎が、敵の前でどれほどの孤独と戦っていたのか。
「……虎殿。私は貴女と親しい仲であることを周囲に知られるのを恐れ、その場では何も言えませんでした。……けれど」
少将の声が、少しだけ熱を帯びました。
「あの夜、祐経が急に寝所を替えた(陣替え)こと……。私は、自分の乳母の童を使いに走らせました。十郎殿に、祐経の居場所を知らせるために。」
「……えっ?」
虎は、自分の耳を疑った。
「貴女が……祐成様に、教えを?」
「はい。……たとえ一夜限りの客として祐経に従っていた身でも、私には武士の情けというものが分かります。……何より、十郎殿に本意を遂げて欲しかった。それは偏に、彼を待ち続ける貴女のためだったのです」
虎の体中を、衝撃が駆け抜けた。あの日、もし少将の密告がなければ。兄弟は陣替えという卑劣な罠に翻弄され、仇の首を獲る前に討ち取られていたかもしれない。
十郎様が、最期の瞬間に抱いたであろう「僥倖」。なぜ、敵の居場所が分かったのか。なぜ、あんなにも鮮やかに討ち入りが成功したのか。その裏には、かつての自分と同じ道を歩む女性の、命懸けの「教え」があった。
「……ああ、祐成様。貴方は、なんて幸せな方だったのでしょう……」
虎は再び涙に咽んだ。知らなかった。あの方が、そんなにも多くの優しさに守られて、あの歴史的な瞬間を駆け抜けたなんて。
手越の宿の小さな家で、二人の女性は抱き合って泣き続けた。
一人は、生涯を捧げて菩提を弔う道を選んだ尼僧。一人は、あの日の一夜の勇気を胸に秘めて生きる遊女。
立場は違えど、二人の心にあるのは、曾我十郎祐成という一人の男への、深い愛と敬意だった。
「少将殿……ありがとうございます。貴女がいたから、あの方は『曾我の十郎』として死ぬことができたのですね」
「いいえ、虎殿。すべては貴女を想うあの方の執念が呼び寄せた奇跡ですわ」
外では、秋の虫が物悲しく鳴き始めた。虎の巡礼は、まだ続く。
この手越で知った「真実」という名の灯火が、これからの長い孤独な旅路を、温かく照らしてゆくだろう。
曾我物語 巻第十二 (明治四十四年刊 國民文庫本)
〔手越の少将にあひし事〕
さて、或る小家に立ち寄りて、主のをうなをやとひて、少将御前を呼び出だして、「旅人の、是にて、申すべき事の候ふと申し給へ」と言ひければ、「安き御事」とて、呼び出だして来たる。少将は、虎が変はれる姿を見て、言ひ出づべき言の葉も無くて、只涙をぞ流しける。やや有りて、虎、泣く泣く申しけるは、「彼の祐成に相なれて、既に三年になり候ふ。宿縁深き故にや、又余の人を見んと思はざりつるなり。此の人失せ給ひぬると聞きし時は、同じ苔の下に、うづもればやと思ひしかども、つれなき命、ながらへて候ふぞや。然れば、世を渡る遊び者の習ひは、心に任せぬ事も侍るべしと思ひて、百ケ日の仏事のついでに、箱根にて、髪を下ろして、只一人迷ひ出で、富士野裾野の井手の辺にて、其の跡ばかりなりとも見え、憂かりし心をも慰みて、ついでに、此の辺近く御座しければ、見参に入り、物語をも申し、此の姿をも見え参らせむと思ひて、是まで来たりて候ふ」と語りければ、少将も、涙を抑へて、「げにげに、如何ばかり御歎き」と思ひ遣られて、泣くより外の事ぞ無き。少将言ひけるは、「過ぎにし夏の頃、工藤左衛門に呼ばれて、酒のみし時、十郎殿をも呼び入れ参らせしかば、始めて見参に入りしなり。工藤左衛門の悪口に、此の殿の思ひ切り給へる色現れ見えて、只今事出で来ぬべしと、座敷もすさまじく候ひしに、何と思はれけん、酒のみ、押し鎮めて立たれし事、只今の心地して、哀れに候ふぞや。立ち出で、かくと申したく候ひしかども、御身と親しき事、人に知られんも、憚り有りしかば、さてのみ過ぎしなり。其の夜、祐経の宿直の事、乳母の童にて、知らせ参らせ候ひし事、不思議に覚え候ふ。仮令一夜の妻なりとも、互ひに情を思ふべきに、如何なる事にや、如何にもして、打たせ参らせんと思ひし事、只偏に御身故ぞかし」と語りければ、虎は、此の事を始めて聞き、十郎殿最後の時、斯かる教へを如何ばかり嬉しく思ひ給ひけん、此の告げ無かりせば、如何でか本意を遂げさせ給ふべきと、いよいよ涙にむせびける。
〜参考記事〜
国民文庫「曾我物語」明治44年 / 菊池眞一研究室
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




