ep008「花嫁の呪いが解けたら、俺が爆発した」
「いい趣味、ねえ」
昨夜のリゼットの言葉を、俺は口の中で転がしていた。
翌朝の居間。手のひらに乗っているのは、磨き上げられた固い契りの縁起物だ。それでいて、どんな想いも宿していない空っぽの胡桃殻。
「で、これがクララさんを五日も黙らせてる元凶ってわけか」
「元凶、というより器です」
リゼットが、昨夜のうちに卓へ広げておいた帳面を指で押さえた。モーガンが厚意で届けさせた、集荷の控えである。
「そして――妙です。この殻は、どこにも載っていません」
「載ってない?」
「町の祝いは、集荷のついでに商会の荷へ相乗せされます。だから全部、この帳面に控えがある」
頁をめくる音が、乾いて響いた。
「贈り主も家ごとに書き分けてあります。偽の一行を足せば、その家に問うだけで露見する」
「……つまり、書き足しでも紛れ込ませられない」
「はい。残る手はひとつです。集荷を通さず、直に山へ差し込む」
俺は帳面を見下ろした。上等な紙。几帳面な字。厚意の塊。
「厚意で貸してくれた帳面が、貸してくれた本人を指してるんだが」
ぼやきの向こうで、テオが茶碗を取り落としそうになった。
「……モーガンさんには、以前、クララを嫁にと望まれたことが」
膝の上で、指が固く組まれる。
「クララが、断ったんです」
部屋の温度が、すこし下がった気がした。
「いいえと言われたくない男が、いいえを封じた」
白猫が卓の隅で伸びをした。
「昨日言ったでしょ。花婿の目を、一度も見なかった男」
「猫の目線、当たってたのかよ」
「私は証言台に立てないの。管轄的に」
テオが深く息を吐いて、俺たちを見た。
「……あなたたちに、来てもらえてよかった」
目の端で、充実度が3%から5%へ動いた。
「感謝が安すぎるんだよ、この町は」
ちなみに俺の朝飯は差し入れの乾物で、給金はいまだ香の現物支給である。
リゼットが殻を受け取り、立ち上がった。
「では、器を解きます」
戸を閉め、窓の板を落とす。居間が薄暗くなった。
香を焚く。糸で吊るした振り子。道具はこれまでと同じだ。
だが、手つきが違った。問診でも、観察でも、検分でもない。
リゼットは殻を布の上に据え、煙をくぐらせて清めてから、そっと掌をかざした。
「……封じられているのは、否です」
低く、平坦な声だった。
「はっきりした想いです。この娘に、否と言わせない。それだけを、繰り返し繰り返し、殻に詰めてある」
壁際で、テオに支えられたクララの肩が震えた。五日のあいだ自分の喉を押さえていたものの正体を、いま初めて見たという顔だった。
「呪いは、想いの結晶です」
リゼットの指が、煙の輪郭をなぞる。
「ならば、別の想いをかけ直して中和できます」
「そんなに簡単に――」
「簡単ではありません」
言い切ってから、リゼットは一拍置いた。
「地元の解呪師では解けないと踏んで施した封です。……見くびられたものです」
鉄面皮の奥で、静かに火が点いた音がした。
俺は小声で白猫にぼやく。
「……人の呪いは、あっさり解けるんだな」
「あんたのは器がないもの。自分が器なのよ」
「慰めが刺さるんだよ」
香の煙が、まっすぐ立った。
リゼットの唇が動く。
「私の術が、通る呪いです」
乾いた音がした。
殻が、ひとりでに割れた。
黒い澱のようなものが煙に混ざって、ゆっくりとほどけていく。
誰も、動かなかった。
クララの喉が、動いた。
震える唇が、五日ぶりに、自分の声を漏らす。
「テオ、さん……」
掠れて、途切れて、それでも確かに、呪いではない声だった。
テオが崩れ落ちた。
膝が抜けて、妻の膝へ顔を埋める。名を呼ぼうとするたび、声が途中で割れた。胡桃を彫る手が、袖を掴んだまま離せずにいる。
クララの泣き方は、逆だった。
五日ぶん張りつめていた糸が切れたみたいに、肩から力が抜けていく。声を上げるでもなく、夫の頭を抱えこんで、長く息を吐いた。その息に、涙が遅れてついてきた。
泣き声と、息の音だけが、部屋いっぱいに満ちる。
五日ぶんの「はい」が、ようやく行き場を見つけたらしかった。
――で、その熱が、まっすぐ俺のゲージに流れ込んできた。
数字が、坂を転げ登りはじめる。
やめろ。俺は突っ立ってただけだ。荷役だ。
クララが濡れた目を上げ、俺とリゼットのほうへ向き直った。
「ありがとう、ございます」
呪いに言わされたのではない、自分で選んだ言葉だった。
伸びてきた両手が、俺の手を包んだ。小さくて、熱くて、まだ震えている手だった。
90%台。
「……そこまでにしてくれ、頼むから」
押し返すわけにもいかない。善意は、殴りかかられるよりよほど厄介だ。
だがクララは、まだ話し足りないという顔で俺を見上げた。
「あの人の申し出は」
声が震えた。
「わたしが、自分の口で……いいえと、はっきり、お断りしました。ずっと前に」
過去形の、小さな声だった。それでも、五日ぶりに解かれた喉から出た「いいえ」だった。
98%。
「また98%か! 俺のゲージ、98で一泊するの好きすぎだろ」
(花嫁の呪いが解けた。めでたい。めでたくて――なんで解けた側じゃなく、突っ立ってた俺が満タンなんだ)
「ここで爆ぜたら、この家ごと消し飛ぶ」
「ミツルさん、外へ」
リゼットの即断は早かった。
戸を蹴り開け、胡桃並木を外れ、畑を抜け、誰もいない川原の荒れ地まで。
息を整える暇もなかった。
(あ、まずい――)
閃光。轟音。降ってくる灰。
0%。
仰向けの視界で、朝の空が白かった。服も肌も無傷である。理不尽なことに。
町へ戻る道すがら、井戸端の声が耳に入った。
「今日も鳴ったねえ」
「また修練かい。精が出るね」
誰も、驚かなかった。
人助けの報酬が爆発。この体、いつになったら黒字になるんだ。
0%で居間に戻ると、卓の上は片づけられ、割れた殻が布に並べられていた。
リゼットは全員の顔を見渡して、静かに言った。
「解呪したと知られれば、犯人は祝言の場で動く理由を失います。逃げられます」
指が、割れた殻をそっと揃える。
「ですから――解呪したことは、伏せます」
「伏せるって」
「クララさんには、祝言まで呪われたままのふりを続けていただきます。はい、としか言えないふりを」
俺は思わず腰を浮かせた。
「おい、それは無茶を――」
言い終わる前に、クララが首を横に振った。
横に。
五日ぶりに戻った喉ではなく、首が、自分の意志で。
「隠します」
テオが息を呑む。その手を、クララが握った。
「……自分の声で、あの人に、言ってやりたいから」
声は小さい。だが、震えていなかった。
俺は座り直した。掛ける言葉は、なかった。
白猫が卓の上で伸びをする。
「爆発を修練で隠せる男がいると、作戦が立てやすいわねえ」
「実務的な評価やめろ」
場がゆるんで、締まった。着地、充実度5%。
「祝言まで、あと一日です」
リゼットは時計も見ずに言い、空になった殻を、元の祝いの山へそっと戻した。
「では、明日。――花嫁は、まだ呪われている。そういうことにしておきましょう」
窓の外では、祝言前夜の町が何も知らずに浮かれている。
明日あの祝いの山に、町の誰より早く、いちばん立派な胡桃を積みにくる男がいる。
モーガン。花嫁がまだ「はい」しか言えないことを、誰よりも確かめたい男だ。
――その祝宴という名の地雷原に、俺は自分の足で突っ込む。




