ep079「欲しかったものを持っている奴に、おめでとうと言ったら、俺のほうが消し飛んだ」
やる相手は、もう決まっている。
決まっているほうを、まだ一度も、頭の中でさえ呼んでいない。
「ミツルさん。そちら、詰めておきました」
場所の話だった。返事はしたが、中身までは聞いていない。
街道は一本きりで、分かれるところが見当たらない。分かれ道が無いと、こっちの言い訳も減る。
荷馬車はもう動きだしている。踏み固められていないところで、揺れが一度大きくなった。
道の土は白く乾いている。踏むたびに細かいのが舞って、こっちの膝から下だけが白い。
言われたほうへ目をやった。
荷は端まで寄せてあって、そこから上には何も足されていない。
空いているのは、そっちではなかった。
空いていたのは、こっちが歩く側だ。
乗れという話ではない。並んで進むぶんの幅が、道の端に残してある。
卑屈な人間は、居場所を用意されると身構える。用意した側に思惑があると決めておけば、後から引っこ抜かれても転ばずに済むからだ。
今日はその身構えが間に合わなかった。間に合う前に、荷のほうが平らになっていた。
しかも、黙ってやられたのではない。荷をいくつ積んだかを告げるときと、同じ調子で言われた。
黙っていられたら、気づかないふりで通せる。通したぶんだけ、こっちは軽くいられる。
口に出されてしまうと、そのふりのできる余地が消える。
充実度59%。
歩く側に居場所があるというのは、要するに荷より下の扱いだ。
下の扱いで上がるのだから、こっちの作りはよほど安い。
幌の内は静かなままだ。兄の呼吸だけが、揺れに合わせて続いている。
そこからこっちへ出てくるものは、何も無い。
言うと決めたことは、まだ口の中にある。口の中にあるうちは、誰のものでもない。
白猫は、俺の歩く高さのままでいる。上へ帰る気配が無い。
「私、この件の担当ではなくなったわ」
いつもの様式だった。決まりごとを言いつけてくるときと、声の高さが変わらない。
「代わりの者は、来ないわよ」
二つとも、事実の形しかしていない。理由も、そのあとの見通しも付いていない。
歩幅が、勝手に短くなった。短くなったぶんは、こっちが飲みこむのに使った。
この猫は査定の側にいる。俺の中身を測って、上がった下がったを言うのが仕事だった。
その仕事が、今日はもう無い。
職がひとつ消えた話を、天気の話と同じ顔のまま言う。
こうなった経緯は聞かされていない。聞かされていないだけで、心当たりのほうは一つしかない。
誰のせいで消えたのかは、訊くまでもなかった。
訊いたところで、それに応じる役の者が、いま横にいない。
横にいるのに、いない。
白猫は前を見て歩いている。俺の顔を見ない。見ないのは、もう見る役ではないからだ。
上を見た。声の降ってくる高さには、いま何も無い。
こいつがいなくなるとは言っていない。言わずに、いなくなる側の話だけを置いた。
代わりの者は来ない、というところだけが、やけにはっきりしていた。来ないものを待たせない言い方だった。
庇う形はすぐに浮かんだ。浮かんだところで、こっちの口が軽くなるだけだと分かる。軽くなったぶんは、向こうへ一つも戻らない。
口のほうは、勝手に短い言葉を作りかけた。作りかけたところで止めた。
言ってしまえば、それで済んだ気になる。済ませてはいけない側に立っているのは俺だ。
受け取るだけにした。受け取るのなら、こっちにもできる。
俺の中では、こういうとき何かを言うのが正しい形になっている。前世の教科書に、そう書いてあった気がする。
書いてあった気がするだけで、実物を見たことは無い。
こういうものがどういう仕組みで消えるのかは知らない。知らないが、俺のせいで一つ減る側に回る者は、そう多くないはずだ。
この猫が俺のために何かを削ったのは、今回だけではないのかもしれない。ほかのぶんは、こっちが気づいていないだけだ。
訊きたいことは、いくつも浮かんだ。浮かんだそばから、口の手前で消えていく。
聞いた声のぶんだけ、腹の中で勝手に何かが積まれていく。
こっちの中身は、優しくされたぶんを大盛りに見積もる作りになっている。作りのほうは、直しようが無い。
充実度89%。
持たされたものに、払う形が無い。
受け取り方は、誰も教えてくれない。教わらないまま、また一つ増えた。
増えたぶんだけ、こっちの番が近づく。
言うつもりの五文字は、口の中で出来上がっている。
出来上がっているのに、出てこない。舌の上まで来て、そこで足を止める。
中身の問題ではない。言う場所の問題でもない。
型が無いのだ。
文句そのものは短い。短いのに、こっちの口はそれを持ち上げられない。
やり方の書いてある紙が、どこかで配られていたのかもしれない。配られた列に、俺は並んでいなかった。
前世の家では、誕生日に何も起きなかった。無かったわけではない。来て、そのまま過ぎた。
過ぎたのに気づいていたのは、たぶん俺だけだった。
祝われたことのない側の人間は、祝い方の型を一つも持っていない。
十四年ぶん、なぞるものが一つも無い。
充実度62%。
口の中の五文字は、持っているだけで重くなっていく。重いものを持って歩くのだけは、こっちの得意分野だ。
型が無い者がやると、たいてい形が崩れる。崩れたものを受け取る側は、受け取ってから困る。
困らせる側に回るのは、こっちのいちばん苦手な仕事だ。
型が無いなら、その場ででっち上げるしかない。でっち上げたものを本人の前で試すのは、たいてい事故になる。
事故になるのは慣れている。慣れているのに、今日はやけに手のひらが冷たい。
白猫が、まぶたを一度だけ下ろした。上げたときには、もう前を見ている。
「……この道は、日陰が無いのよね」
言われてみればそのとおりだった。返す言葉は思いつかない。
日陰が無いのは、この道に入ったときからそうだった。それを今になって言うのが、この猫の間の取り方だ。
白猫は何も訊いてこない。訊かれたら、こっちはたぶん転ぶ。
こっちが下を見ても、道のほうは進む。進んでいるあいだに、止まるところが近づく。
前で、進みがゆるくなった。
やがて、止まった。
揺れが消えて、道のほうが急に広く感じる。
手綱のほうへ回りこむ。回りこんでから、口の中のものが重くなった。
リゼットは御者台にいる。こっちを見下ろす形になって、それでも顔つきは変わらない。
向こうは何かを構えている顔でもない。こっちが口を開くと決めていることを、たぶん知らない。
知らない相手にやるほうが、こっちには楽だった。楽なぶん、卑怯でもある。
腹のほうは、まだうらやましいままだった。減っていない。減らないまま、口だけ動かす。
「……おめでとう」
言った。言ったことは戻らない。
何のことかは、言わない。
言えば、こっちが勝手に見ていたぶんまで表に出る。出れば、話はそっちへ移る。
呼ばないまま言うのは、思ったより難しくなかった。呼べば、そこから要るものが増える。
腹の中では、もっとましな並べ方がいくつもあった。出てきたのは五文字だけだ。
後ろに何か足したくなる。足せば言い訳になる。
五文字は、思っていたより短かった。短いのに、出したあとの息が続かない。
言ったあとで、こっちの腹が裏返るのを待った。裏返らない。裏返らないのが、少し気味悪い。
相手のほうも、何のことか分かっていない顔をしている。分かっていないほうが、こっちには都合がいい。
リゼットの手が、膝の上で一度だけ動いた。
何も言わないまま、体のほうが動いた。
半歩、こちらへ。
それから、口が開いた。
「ミツルさん。それは、私に言うことでは――」
充実度99%。
聞いてしまえば、こっちは何か返さないといけなくなる。返せるものは、いま一つも無い。
そこから先は聞いていない。走った。
まだ誰の足跡もついていないほうへ、道なりにまっすぐ出る。
止まる理由はいくらでもあった。並べているひまが無い。
体が勝手に動いた。……ということにしておく。実際は、逃げただけだ。
「――爆ぜろ、俺」
充実度0%。
体の外側が、ひと息にめくれた。
土の焦げたにおいが、上から降りてくる。
起き上がると、足もとが黒い。灰が、靴の周りに薄く敷いてある。
無傷である。無傷なのは毎度のことで、そろそろ自慢していいのかどうかも分からない。
布のほうは、また持っていかれた。
爆ぜたあとは、いつもこの静けさが長い。
爆ぜる前に決めたことは、爆ぜたあとも残っていた。残っているだけで、何かが済んだわけでもない。
道を戻る。戻る道は、行きより短く感じた。出ていったぶんが、まるごと足に残っている。
戻りながら、自分のやったことが追いついてくる。
追いついてきたものは、思ったより重くない。重くないぶん、あとが怖い。
荷馬車は、出たときのところにいる。
誰も、先へは行っていない。
リゼットの足は、半歩のところにある。
充実度14%。
「……いまので一年ぶん減ったなら、残りはあと十三回だ」




