ep078「呪いのやり方をこっちから聞いたが、うらやましがる相手を間違えていた」
「無いって言ったよな。……あれ、まだ変わってないのか」
白猫は幌の上にいる。この道に入ってから、そこを動いていない。
用があるときは、向こうが先に言う。そういう並びで、ここまで来ている。
その並びは、今日は使わなかった。
荷馬車の脇を進んでいる。土がやわらかく凹んで、小石が靴の底に当たる。
訊いたのはこっちだ。訊いておいて、返事が来ないうちから、来ないほうに賭けている。
こういうとき、卑屈な人間の腹の中では二つのことが同時に起きる。
答えが来たら困る、というのと、来なかったらもっと困る、というのだ。
どっちに転んでも困る。困る準備だけは、いつでもできている。
解かずに済ませた渡り人がいた、というところで手記は途切れていた。
どうしてそうしたのかは書いてない。書いていないものを、読む側で足すわけにはいかない。
読んだところで、こっちへ移ってくるものは何も無かった。書いた人間は解かずに済ませて、それで済んだ側の顔をしている。済んだ理由だけが抜けている。
抜けているところを埋められるのは、たぶん一人しかいない。
足せないので、答えを持っていそうな相手のほうへ、口を利いた。
口を利いてしまえば、あとは待つだけになる。待つのは得意だ。得意になった経緯のほうは、思い出したくない。
うしろでは兄が眠っている。起きる気配は、今日も無い。
上で、白いものが息をしている。答える気があるのかどうかは、ここからでは分からない。
「……一度しか言わないわよ」
声は上にあった。それから、白猫が下りてきた。
俺の歩く高さに来て、そのまま横に付いている。
この猫は、いつも高いところから業務を渡してくる。高さのぶんだけ、こっちが受け取る側なのだと顔に書いてある仕組みだ。
その高さを、向こうが自分で捨てた。
俺のために高さを変える生き物は、そう多くない。多くないというより、いま横にいるのが全部だ。
充実度23%。
「祝えなかったんじゃないのよ。祝う相手を、間違えていたの」
足の運びが、勝手に遅くなった。
「うらやましいと思ったぶんしか、返らないの」
しばらく、意味のほうが入ってこなかった。
言葉としては短い。短いのに、置かれた場所が悪い。ちょうど柔らかいところへ、正確に置いてある。
もう一度言ってもらう手が浮かんで、消えた。一度しか言わないと先に言われている。
立て続けにやったぶんを、頭のなかへ戻す。
道の脇の一団。街道からそれた一軒。並んで歩いた男。
並べ直しても、出てくる顔ぶれは変わらない。
どれも、うらやましいと思ったことが一度もない相手だった。
選ぶときに見ていたのは、まさにそこだった。こっちの腹が動かない相手なら、祝いに行っても痛まない。痛まないぶん、安全に見えた。
安全な相手ばかり選んで、安全に失敗していた。
腹が動かなければ、目の前で誰が笑っていても平気でいられる。平気でいられる相手にだけ、俺は親切だった。
親切のつもりだったものが、まるごと人選の話に化ける。
上がりはした。上がったのに、減らなかった。
減るぶんが、はじめから無かったからだ。
やり方を聞いた気でいた。聞いていたのは、たぶん半分だった。
間違えていた、と言われても、合っている相手とどこが違うのかまでは言われていない。
言われていないのに分かってしまうから、性質が悪い。
うらやましいと思える相手を選べ、ということだ。
やることの中身は変わらない。よかったな、と言うだけだ。言う相手のほうが、まるごと差し替わる。
差し替えた先に誰が立つのかは、言われる前から見当がついていた。ついていたが、口には出さない。出したら、そこから進まされる。
他人の幸福を、という言い方のほうは、前に渡されている。渡された時点では、まだ他人事の顔でいられた。
取り消す側に立っているのは俺だ。そこまでは受け取っていて、中身のほうを、自分に都合のいい形で読んでいた。
条件のほうは、そこで一つに絞られる。
十四年ぶん、いちばん見たくなかった画を、よかったと言え。
言うだけなら、口は動く。動かした先で、腹の底が全部裏返るというだけだ。
できる側には、何も残っていない。残ったのは、できないことのほうだけだった。
充実度13%。
猫は黙っている。
黙り方が、いつもと違う。渡し終わったあとの黙り方ではない。
業務の続きを待っている間ではない。続きを言うかどうかで、まだ迷っている間だ。
「……いまのはね。私が言っていい話じゃないのよ、本当は」
上から来る声ではなかった。横から来た。俺と同じ高さだ。
言っていい話じゃないものを、こっちはもう受け取っている。返す方法は思いつかない。
こいつは査定の側にいる。値をつける役目の人間が、値のつけられないものを、こっちへ寄越した。しかも寄越したあとで、それがそういうものだと自分で言った。
こいつの仕事は俺を測ることだ。測る側が測りきれないものを渡したなら、それはもう仕事じゃない。
仕事じゃないものには値がつかない。値のつかないものを渡されるとこっちは払い方が分からなくなる。
払えないものは借りになる。借りが増えるのは重い。重いのに、いやではなかった。
言わずに済ませることもできた。俺は気づかない。気づかないまま受け取って、向こうの側には何も起きない。
それでも言った。
得になる話ではない。損のほうがはっきりしている。
軽いものでもないはずだ。軽ければ、本当は、と付け足す必要がない。
本当は、の前にあるものを俺は知らない。知らないまま持たされている。
持たされたものの重さは持った側にしか分からない。分かったところで下ろす場所も無い。
卑屈な人間は、こういうのを疑うようにできている。裏があると決めておけば、後ろから殴られたときに驚かずに済むからだ。
裏を探した。探すのは早い。早さだけで生き延びてきたようなところがある。
しばらく探した。何も出てこない。出てこないとこっちの手が空く。空いた手のやり場が無い。
疑って、疑いきれなくて、腹のあたりが温くなる。温くなったぶんは、あとで払わされる。だいたい、そういうことになっている。
それでも、温いものは温いままそこにある。
充実度36%。
前のほうで、速さが落ちた。
止まった。
リゼットが御者台から降りて、こっちの正面に立った。
何も握っていない手が、そのまま体の横にある。
空になった御者台に、手綱だけが投げ出してある。
その手を見ていた。見ていると知られる前に目を落とす。
落ちた先に自分の靴の先がある。止まっているのに、まだ前へ出る形のままだった。
「解けてからにします」
前置きが無い。話の途中だけが飛んできた形だった。
「……何が」
「更新の相談です」
声はいつもの声だ。荷の積み方に口を出すときも、この調子で言う。
中身より言われ方のほうが強く残った。頼み事の顔ではない。荷の数を読み上げるときの顔だ。
その一言が、前について回っている。そっちが済んでから、というのが向こうの並べ方だ。
反射で頷きかけて、頷いてから、何に頷いたのかを探しにいく。いつもの流れだった。
解けてから、というのは、まだ何も始まっていないという意味でもある。始まってもいないものを、向こうはもう終わりぎわの話として組み立てている。
その頃にこっちへ残っているものを思うと、めまいがしてくる。呪いが片づいているなら、俺は力の側も一緒に失っている。
荷を運ぶ役にも立たない、ただ卑屈なだけの男が残る。
荷の中には、その男のぶんの場所が取ってある。取ってあるほうが困る。
それを承知のうえで、次のぶんの話を、向こうから持ち出してきている。
持ち出したのが向こうなら、決めるのも向こうだ。
こっちに言えることは、たぶん一つも無い。言う番が来る頃には、まともに返事のできる俺が残っているかどうかも怪しい。
それでも頷く形だけはできている。中身は後から追いつくことになっている。
リゼットは、それだけ言って戻りかけた。
戻りかけて、そこで止まる。
「一生、と言ったのは、値切られる前の話です」
言い終わって、リゼは手綱へ帰っていった。何も足さない。
荷馬車の影が、草の上に落ちている。
充実度53%。
「……更新の相談って、こんどは俺が値切られるんだよな」




