ep077「町の誰にも呼ばれなかった俺、席に座る前に外で爆ぜてきた」
台が、どこにも出ていなかった。
「あら。もう何も売っていないのね」
両側の土が出たままで、道がそのぶん広い。
看板の墨が抜けて、下の木目が透けていた。
売っていないどころか、並べるほうが先にどこかへ行ったらしい。
台の脚を刺していたぶんの穴が、道のあちこちに残っている。踏み固められていない地面は、こっちの重みでも柔らかかった。
門をくぐったところで、荷馬車は止まった。リゼットは前から動かない。
「私は、ここにいます」
幌の内で、兄は目を覚まさない。白猫だけが板から下りて、俺の前へ出た。
人はいる。桶を提げた女が横を過ぎていく。壁ぎわで、男が革を叩いている。
家と家のあいだから出てきた男が一人、こっちの脇を通って、そのまま向こうへ行った。
誰も顔を上げなかった。
二つある名前の、どちらも出てこない。長いほうも、短いほうもだ。
気配だけが、右から左へ流れていく。
町が終わったわけではない。人は出ているし、水を運ぶ女もいる。
落ちた水の跡が道に点々と続いて、見ているうちに乾いた。
ただ、こっちへ向く顔がないというだけだ。
以前は、この道の端で一度やっただけで、両側から人が来た。名前のほうも、そのとき勝手に増えた。
今日は、どちらも要らないらしい。
あのとき飛んだはずの壁は、どこも直っている。打ち替えた木だけが新しくて、その上から周りと同じ色に塗ってあった。
前にここへ来たとき、この道は台で埋まっていた。人のあいだを抜けるのに肩を横にしないと進めない。
その端のほうで、俺は町を一つ丸ごとひっくり返している。あれより大きいことを、俺はどの町でもやっていない。
それが、跡形もない。道の幅だけが、こんなにあった。
充実度15%。
白猫は止まらずに行く。俺の前を、広くなった道の真ん中で行く。
売り物の無い町は、この猫にとってはただの通路らしい。
今日、寄るところは一つでいい。
もう一つの用には、まだ何も持っていない。持っていないものを持って行っても、向こうが困るだけだ。
道の広いところをそのまま進むと、文庫番の家の屋根が見えた。
戸が、開いている。
戸は、開いている。
この町で、そこだけが同じままだった。
充実度28%。
中から、乾いた匂いが外まで出ている。
この家は、表と裏の風窓の両方から空気が抜けるようにできている。抜けているということは、今日も誰かが通したということだ。
俺が前に来たときも、その前に来たときも、ここは同じことをしていた。
塀のあいだは掃いてある。掃いた跡が横に並んで、その先は乾いた地面が続いていた。
蔵に入ると、外より暗かった。目が慣れるまで、少し立っている。
壁ぎわに革の背が並んでいる。床には帙が積まれて、その列が二つ、三つと続く。
上のほうの革は色が抜けて、下のほうは黒いままだ。伸ばせば届くところに、この町の何より古いものが載っている。
白猫は積んだもののあいだをすり抜けて、暗いほうで止まった。
爺さんは、こっちの顔を見た。それから、口より先に体が動いた。布に包んだものを抱えて、こっちへ来る。
「これですわい」
用を訊く前に、包みのほうが出ていた。何をしに来たか、まだ何も言っていない。知らせも入れていない。
この町に入ってから、俺はまだ誰とも言葉をかわしていなかった。
布は洗ってある。ほつれたところが縫ってあった。結び目のところだけ、布がくたびれている。
開くと、手記だった。革は端が丸くなっていて、俺より前にこれを触った人間のほうが、たぶん多い。
「頼んでもいないのに出てきたわね。私も、一度くらいそういう扱いを受けてみたいわ」
白猫が、積んだもののあいだから言う。俗物の言い方だが、否定する材料がこっちにもない。
道は広くなって、名前も出てこない。それでも、この家の中では俺の続きが用意されている。
この町では、俺はまだ、その字を読む客だ。
充実度67%。
「六つめまでで、止まっておりましたな」
うなずいた。どこまで読んだかを俺より正しく持っているのは、こっちの側ではない。
爺さんはもう、別のことをしている。畳んだ布を膝に載せて、端を折っていた。
表を見ても、リゼットは入ってこない。中のほうが涼しいということもないだろうに、あの位置から動かなかった。
表から入るぶんの光が、床の手前まで来ていた。
帙の山の手前だけ、床の乾き方がほかとちがう。
上を人が歩いた跡がない。踏まれていない四角が一つ、そのまま続いている。
物が置いてあるわけではない。物の無いところが、そこに一つあるというだけだ。
しゃがんで、指を置いた。離す。何もつかない。埃が指の腹にのらない。
立ったまま、そこを見ているうちのほうが長くなった。
払ってある。
誰も座っていない場所が、ずっとそうされていた。
この家の二人は、毎日ここへ風を入れて、ついでにここを掃いている。掃くほうが面倒なはずだが、面倒のほうは向こうが持っていた。
タニアが、書を抱えて入ってきた。
「なんだ、来てたの」
言うだけ言って、壁ぎわへ行く。積んであるものの上に、抱えていたぶんを載せた。
こっちの立っているあたりには、目もくれない。
「その山、崩さないでよ」
崩す予定はない。……予定はないが、崩れるとしたら俺のせいだ。
爺さんが布を畳みながら言った。
「今日は、ここまでにしますわい」
書のことだ。俺のことではない。
ここは、燃えるものしか置いていない。革と、その中身と、抜けていく空気だけでできている。
水気が入れば黴が来て、中身のほうが駄目になる。乾かすためだけに、この家の二人はここを開けつづけてきた。
腹の底のあたりが、もう熱い。あと少しで来る。
ここでやると、この山が全部飛ぶ。革も、中身も、二人がここまで通してきたぶんも、まとめて外へ散る。
「悪い。ちょっと外でやってくる」
タニアは書を抱え直した。畳みかけの布は、畳みかけのままだった。
どちらも、何も言わない。止めもしないし、ついても来ない。
家を出て、門の外まで歩いた。道の広さが、こんなときだけありがたい。脇のほうまで行って、そこで止まる。
人はいる。荷を負った男が二人、横を過ぎていった。桶の女は、もういない。
充実度100%。
耳の内側が詰まって、目を閉じた。
爆ぜた。
充実度0%。
土が舞い上がって、細い煙が上がって、それから下りてくる。
道にいる者の、誰も、こちらへ向きを変えなかった。
荷を負った男は歩く速さも変えず、革を叩いていた男は、叩くのをやめなかった。
戸口を抜けて、払ってあるところへ座った。
膝の上に、光が来ている。
床は硬い。乾いている。
座ってみると、積んであるもののふちが目の高さに来た。外の道が、そこから細く見える。
爺さんとタニアは、それぞれのことをしている。こっちへは来ない。
これは、抱えると重い。革の綴じが厚くて、開くと勝手に平らになる。
ひとりでに開いたところが、ちょうど六つめの終わりだった。
六つめまでは、こっちも知っている。その次から先は、まだ誰にも聞いていない。
第七段。
渡り人の字は、声にしないで追った。文語は、いつ読んでも肩のあたりが固くなる。
――この一件、これより先は記さぬ。
――わしは、これをほどかなんだ。
行が変わって、もう別の話になっている。革に虫がつくときの見分けかたを書いていた。
……いや、そこは何か書くところだろう。
待っても、行は増えない。前の行へ指を送っても、足されるものはない。
書いていないものは、こっちからは足せない。
第七段は、それで終わりだ。
あとのほうで荒くなるのは、手が震えたからではない。机の前で書かなくなっただけだ。
書く場所から離れて、別のことをしていたということだ。
頁を繰った。書のことと、食い物のことしか書いていない。
どこの土地のものが甘いだの、水が重いだの、そういうのばかりが並んでいる。
膝に来ていた光が、読んでいるあいだに少しずれた。
粥の話が、最後まで続く。この人は机から離れても、口に入れるもののことだけは書きつづけたわけだ。
誰も入ってこない。出て行け、とも言われない。
戸は、開いたままだ。
字は、そこで終わっている。
充実度18%。
戸口の明るさが、床の上を少しずつ動いていく。
白猫が、明るいほうへ体ごと入っていった。
「……いちばん最後に書いてあるのが、塩が欲しい、だった」




