ep076「読める人間は俺だけだと言われたので、動いている荷馬車から一人で降りて爆ぜた」
継ぎ目、と言われた。
俺の呪いには、それが無いのだそうだ。
同じことを、俺はずっと前に他人の字で読んでいる。あのときは、他人の身の上の話だった。
「……俺の一大事、他人にも起きてたのか」
白いものが、朝の街道に薄く広がっている。風が通ると端のほうだけ動いて、真ん中はそのままだ。
馬が首を下げて、鼻先でそれをどけている。どけたそばから土の色が出て、その上へまた薄く被さっていく。
継ぎ目は、あの本に出てきた言い方だった。呪いというものには、布を継いだところに似た切れ目がある。そう書いてあった。
読んだときは、ふうん、で終わった。他人が自分の身の上について書いた一行で、こっちが出てくる場面はない。そう扱ってきた。
それが、そっくりこっちの話になっている。
知っているものが一つ増えたわけではない。持っていたつもりのものが、一つ減っただけの話だ。
十四年、これは俺ひとりのものだった。同じものを抱えた人間がどこかにいる図を、いっぺんも浮かべたことがない。自分だけの一大事で、だから重かった。
重さのぶんだけ、目方が落ちる。俺のほかにも、同じところで止まっていた奴がいた。ずっと昔に、同じ言い方で、同じことを書き残して。
顔も名前も知らない。会いに行くこともできない。それでも、こっちが後から来た側になる。
荷馬車は道の上に止まっている。板の隙間に草の穂が挟まって、乾いたまま折れている。
リゼットが白いものを避けて回り込み、荷馬車の前へ着く。持っているものは何もない。こちらを見もしない。
荷の上で、白い猫が伸びをした。
「辛気くさいのはやめてちょうだい。見ているこっちの毛並みまで曇るわ」
毛並みの心配で足りる身分は結構なことだ。曇るなら曇ればいい。
充実度40%。
荷台へ上がった。板が少しきしんで、それきりだった。どこへ向かうのかは、まだ誰も口にしていない。
リゼットが手綱を持ち直すと、荷馬車が動き出した。出発の合図らしいものは、何もなかった。
馬が一歩踏み出すのに合わせて、荷が全部わずかに傾いて、それから元に返った。
車輪が一つ二つ回るあいだに、白いものは背後で低くなり、やがて草に紛れた。
道は一本きりで、選ぶところが無い。左右はどちらも同じ丈の草で、分かれ目になりそうなものは見当たらない。
草の先が荷の横をこすっていく。板の上まで届いては、また下がる。
幌の内からは音がしない。兄は起きてこない。
板に腰を下ろすと、揺れが尻から背中まで上がってくる。
前の背中は動かない。道の起伏のぶんだけ、上下している。
あの町に、用が二つある。
誰にも言っていない。言えば、どちらも長くなる。
町の名も、まだ誰も出していない。出さなくても、この道は一本だ。
あの頁は、半分も過ぎないところで止まったままだ。字が荒くなっていくあたりで目が止まって、そこから読み残している。なぜ荒いのかは分からない。分からないまま置いてある。
読み残しは、こっちの都合で作ったものではない。返す日が来ただけの話だ。
もう一つは、返事をしていない誘いだった。
――あの書は、あなたがお持ちください。そのうえで――あなたが、うちへ。
――……お返事は、いつでも。
そう言われたきり、俺はその場で何も言わなかった。いつでもいい、と言われたので、いつまでも言わずにいる。
言うことは、道々で何度か組み立てている。組み立てたきり、口から出したことがない。
俺に来てくれと言った人間は、これまでに一人しかいない。その一人にも、こっちからは何も返さないままだ。それで傾くものが一つも無かった。向こうの暮らしも、こっちの暮らしも、同じ形で続いている。
白い猫が荷の上で寝そべったまま、片目を開けた。
「呼ばれておいて放っておく人、私は初めて見たわ。働き口を自分から一つ潰す才能ね」
「潰してない。置いたままにしてあるんだよ」
言いながら、口の中が乾く。置いたままにしてある、というのは、こういうことだ。誰も取りに来ないし、誰も困らない。それで通ってきた。
充実度27%。
道が一度上がって、下がった。
「……あの本のことなんだけどな」
リゼットの背中が、わずかに動いた。聞いているという合図は、これで足りるらしい。
「半分も読まないうちに、そのままにしてある。全部読みたいわけじゃない。ただ、開いたところで放り出したのが、どうも据わりが悪い」
「……そうですか」
草の丈が変わり、道の色も少し変わった。それだけの間があった。
「その字は、私には読めません」
前にも言われている。同じ調子だった。読めないことを恥じてもいないし、こちらを持ち上げるでもない。目の前にあるものを、あるとおりに口にしている。
「読める方を、私は一人しか知りません」
前を見たままだった。こちらを見てもいないし、持っているものも何もない。無いものを無いと言い、いるものを一人だと言った。それきりだ。
ずいぶん雑な値打ちの置き方だ。字が拾えるというだけのことで、俺がえらくなるわけでもない。えらくないもののほうへ、この人は正面から一人ぶんを当ててきた。
揺れが背中を押した。
押しつけられたもののほうは、ほどけば一緒に無くなるらしい。この頑丈な体も、俺が作ったものではない。もらったものだ。もらったものは、返す段になれば持っていかれる。
ほどくというのは、返すということらしい。もらったものから持っていかれて、あとに何が残るのかは、聞かされていない。
字は違う。
「なあ。ほどいたら、あれもいっぺんに消えるのか」
前の背中が、少しだけ止まった。
「あっちの国の字だよ。あれは残るだろ。呪いにくっついてきたもんじゃない。誰に褒められたわけでもなく、勝手に読めるようになったものだ。持っていかれる筋合いがない」
言ってから、自分で少し驚く。口に出すまで、そこに線が引けるとは考えていなかった。
板の下で、道の石が鳴った。
「……そちらは、呪いの側にあるものではありません」
肯定でも否定でもなかった。仕事の届く範囲で言えることだけを、そのまま置く言い方だ。
線の内側に、俺の字が残った。
読める人間は、この道に俺のほかにいない。外に人はいない。草と、動いている板と、猫と、起きてこない兄と、前を見ている背中。それだけの場所で、こっちの一点にだけ名前がついた。
言われるまで、そこに値がつくとは考えたこともない。褒められたことが一度もないものは、いつまでも褒められないものだと決めていた。
褒められた覚えは一つもない。勝手に身について、そのまま持ってきたものだ。
充実度98%。
立ち上がって、動いている板の端から道へ足を落とす。
降りた。荷馬車は止まらない。前の背中は動かず、速さも変わらない。
止めてくれとは言っていない。ここで一人になれば、それで足りる。
離れているあいだに、向こうは行ってしまう。行ってしまってかまわない。足のほうは、まだ丈夫だ。
道の真ん中に立って、荷馬車が小さくなっていくのを見ている。距離ができていく。
街道には、俺たちのほかに動くものがない。誰も来ないし、誰も見ていない。
来る前に分かるようになった。腹の底が軽くなって、そのあと外へ出ていく。
胸の底が一度だけ大きく持ち上がって、そのあと白くなった。
充実度0%。
白いものが、道にもう一つ増えた。荷馬車は、ずいぶん向こうにいる。
草が焦げた匂いがして、風がそれを持っていった。
向こうは待たない。こっちが縮める。
歩いて追いつく。
「毎度、片づけかたが派手ね」
荷の上から声が落ちてきたが、聞かなかったことにする。板の端をつかんで、体を引き上げた。
板の上は、出てきたときと同じ形のままだった。誰も動いていない。
「カスタン」
自分の口から出た音が、ずいぶん短かった。
言ってから、道の向こうへ目をやる。まだ何も見えない。
「はい」
それきりだった。なぜ、とも、どこへ、とも来ない。速さも変わらない。
訊かれると身構えていたぶんが、そのまま余った。
「あなたの口からその名前が出るの、私は聞いたことがなかったわ」
白猫が、荷の縁にあごをのせた。
説明は、要らなかったらしい。
轍が二本、荷馬車の下から出て、こっちまで続いている。
充実度29%。
「……風通しのいい蔵を、知ってるだけだ」




