ep075「解けばこの体も無くなると聞くと、俺は素足で灰を踏んで待った」
素足を灰に下ろしてみる。
なんともない。
なんともないので、確かめる意味はない。
意味はないが、やる。
爆ぜたあとは、まずここからだ。地面に足を下ろして、どこも痛くならないことを見届けてから歩き出す。
結果が変わったことは一度もない。ひび一つ入らない。体だけは、こういうときに律儀だ。
それでも下ろす。片方を置いて、次にもう片方を置く。両方が着いてから、ゆっくり体重を乗せる。
教わった覚えもないのに、段取りだけが立派になった。
少し離れたところに、白い猫が座っている。
「無事だと分かっているのに、いちいち足からやるのね」
返事はしない。返事をするような話でもない。
猫は座ったまま動かない。こちらの足元から目を離さないくせに、腰は上げない。
昼を過ぎたばかりで、街道には俺のほかに立っているものがない。風が通ると、白いものが低いところで少しだけ動く。
人の通らない時間帯というのがあって、俺の爆発はだいたいそこに当たらない。今日は当たった。誰にも見られていない爆発は、静かでいい。
上着は腰から下しか残っていない。これについては、三度、それぞれ違う言い方をしてきた。
四つ目が出てこない。
布を見下ろして、口の中で二つ三つ転がしてみる。どれも途中で止まる。
一つ目のときは、まだ笑いを取りにいく余裕があった。二つ目は流れで出た。三つ目は、口から出した先で自分でも薄いと分かる。
四つ目を出すには、そもそも上着のことを面白がっていないといけない。そこがどうしても立たない。
言い方というのは在庫があるものらしくて、俺のぶんは三つで打ち止めだったようだ。
目の前に勘定するものがあるのに、言うことが何もない。ものを減らすのは得意なくせに、それについて喋る取り分まできっちり減っている。
充実度37%。
うしろで、音が鳴りはじめた。
近いのか、遠いのか、ここに立っていると取れない。
音は途切れない。ただ、耳が一つに絞れない。
立ち方だけが勝手に変わって、片足が街道の側へ寄っている。頭より先に、体のほうが音を聞き分けようとしている。
街道のほうを見ても、白いものが薄く上がっているだけで、形にならない。しばらくして、形になった。
車輪の音だった。しかも、俺が先へ行かせたやつの音だ。
見間違いだと思って、もう一度見る。二度見ても同じだった。
止まる。御者台からリゼが降りてくる。
降りてから、こちらを見つけるまでが早かった。どこに立っているかを、はじめから知っていたような早さだ。
俺は呼んでいない。追いかけてもいない。先へ行けと言ったのは俺で、そのとおりにしたのが向こうだ。
向こうには向こうの用がある。忘れ物か、道を間違えたか、そのどちらかだと考えるほうが早い。
戻ってきた者を、俺は一人も知らない。先に行った背中というのは、そのまま小さくなって、それきりになるものだった。
その背中が、目の前まで戻ってきて止まった。経験が、まるごと役に立たなくなる。
充実度58%。
猫が荷の上に移っている。
「あなた、そういうのを一度も勘定していないでしょう」
何の話かは、こっちには見当がつかない。
訊き返さない。訊いても、こういうときの猫は同じ顔で座っているだけだ。
幌の内は静かなままだ。リゼの兄は、今日も起きてこない。
リゼが俺の手前で止まる。俺は口を開かない。開くための一言を、今日は仕込んでいなかった。
それから、荷に入れて、古いカルテを出した。入れて、すぐ出てきた。どこにあるかで迷った時間が一秒もない。
荷の中は、上から放り込むだけの状態になっている。それでも一度で出てくるところに、それは入っていた。
そして、開かない。
「三度とも、呪いの側は一度も動いていません」
カルテは閉じたままだ。見てもいない。中身はもう、この人の中に入っている。
……そうか、と言った。それ以上が続かない。
無駄でしたとは言われていないし、数字も出ていない。動いていない、と言われただけだ。
言われ方のほうが、よほど効く。無駄だと言われていれば、こっちにも言い分の作りようがあった。
三度ぶん、俺がやったことは全部そこに乗っている。乗っていて、何も変わらなかった。
言い返す文句はいくつか浮かんだ。浮かんだそばから、口へ行く前で消えた。
この人は三度とも近くにいて、三度とも止めなかった。止めない人が出してきた所見に、こっちから足せるものが何もない。
「解呪師の所見は、一段では終わらないものよ」
猫が言った。
荷の上から、こちらではなくリゼのほうを見ている。
リゼが息を入れた。カルテを持った腕は、下ろしたままだ。
声の高さは変わらない。変わらないまま、一段だけ間が空いた。
「もう一つ、申し上げていないことがあります」
「あなたの呪いには、外から掛けられた縫い目がありません。……そのお体にも、ありません」
風が来て、白いものが少し流れた。
「同じところから出ています。片方をほどけば、もう片方も、一緒に無くなります」
同じところから出ている。片方をほどけば、もう片方も無くなる。
言葉の意味は取れる。取れるのに、体がついてこない。
どちらが片方なのかを訊こうとして、訊くまでもないことに行き当たる。どちらから読んでも、中身は変わらない。
立っている足が、いつのまにか地面をつかんでいた。力がすぐには抜けない。
頭が勝手に数えはじめた。爆ぜても壊れない体。人類最強の肉体という触れ込み。
二つとも同じものだと気づいて、そこで止まった。
こっちが一方的に押しつけられたものだと、ずっとそう扱ってきた。押しつけられたついでに、もらっていたものがあったらしい。
持っていないもののほうなら、いくらでも並ぶ。才も、友も、恋人も。並べ慣れている。
並べたことのないほうの列が、こんなに短いとは思っていなかった。
列に載っているものは、どれも自分で作ったものではない。いつ載ったのかも覚えていない。覚えていないものを、いま初めて、失う側から見せられている。
カルテは、まだ閉じている。荷に入れてすぐ出てきて、一度も開かれていない。
開かないで言えるということは、ずっと前から見ていたということだ。俺の呪いを、俺より先に。
俺が上着の言い方をひねっていたあいだ、この人はこっちの呪いを見ていたわけだ。持ち場が違いすぎる。
充実度99%。
――来る。
片手を上げて、荷馬車のほうへ押し返す形を作った。それで通じたらしい。リゼが下がる。猫は荷の上にいる。
下がる足が速い。三度も見ていれば、どこまで下がれば足りるかは覚える。
一度目の灰まで、素足のまま歩いて戻った。走らない。歩いて足りる。
歩いているあいだ、うしろは見ない。見なくても、あの人が下がりきっているのは分かる。
息を吸って、止めた。内側が、下から上へ一息に膨らむ。
胸のあたりで一度つかえて、それから上へ抜けた。外の音が、まとめて遠くなる。
充実度0%。
立っている場所はさっきと同じで、足の下だけが少し柔らかくなった。上着は、もう勘定するところが残っていない。
布の下から風が通る。ここまで来ると、言い方も何も、指すものが無い。
解く、とも、解かない、とも、俺はまだ言っていない。言えることが何も出てこない。
解いたあとの自分を思い描こうとして、絵にならない。爆ぜない男が街道に一人で立っているだけの絵に、どうも見覚えがある。
違いは一つだけだ。そっちの男は、上着の言い方をひねる必要も無い。
向こうからリゼが歩いてきて、少し手前で止まった。
立ち止まった場所は、爆ぜる前とほとんど同じ近さだった。この人は、下がるところも戻るところも間違えない。
カルテは、もう腕の中にない。荷へ戻したらしい。開かないまま出てきて、開かないまま戻っていった。
「ミツルさん」
顔を上げる。
「それでも、私は、解けるほうがいいと思っています」
声の調子は、さっきと同じだった。早くも遅くもならない。仕事の話をしている顔のままだ。
この人は、俺がそれで何を失うかを、自分の口から先に言った。言ってから、こう言っている。
こっちを乗せにきている言い方ではない。払いのほうを先に出して、そのうえで、それでも、と言っている。
この人が俺の側に立つ理由は、一つも思い当たらない。
二度目の灰は、一度目の上に落ちた。
車輪の音は、近いのか遠いのか、灰の中では相変わらず取れない。
そこだけ、色が違う。
充実度49%。
「……取り替えっこにしては、こっちの出すもんが多すぎる」




