ep074「三度目は先に訊いてから言い切って、誰の言葉かを黙って見送って爆ぜた」
訊くほうを先にする。
直したところは、それだけだ。
「今日のは、誰に向けているの」
その先には、まだ誰もいない。
街道は乾いていて、踏むたびに白い粉が靴の縁へ上がってくる。前を向いたまま、頭の中の文句をおもてへ出した。
「……このたびは、まことに喜ばしいことと存じます」
語尾が沈んだ。同じところからもう一度出した。今度は転ばずに最後まで通った。通ったところで、その先が無い。聞く相手がいないのだから当たり前ではあるのだが、途中で切れた紐の端をつまんだまま歩いているような格好にはなる。
「……何か言ってくれてもいいだろう」
肩の上の白猫は、それきり黙っている。答えを言わない。止めもしない。よくできましたとも言わない。問いを一つ置いて、あとはこちらの肩の上で揺れているだけだ。
「何の祝いです」
直したのは前の一手である。言う前に、これを置く。文句そのものは手本にした言い方から一語も動かしていないし、動かすつもりも無い。動かして良くなった例がひとつも無いからだ。
「何の祝いです。……何の、お祝いです」
どちらが通りがいいのかは分からない。厄介なのは、訊いたあとに何が返ってくるか分からないところである。
「……ここで向こうが何か言う」
言われたものによっては、頭へ入れてきた並びのどこかを入れ替えることになる。入れ替えの練習はしていない。しようにも、何を入れ替えるのか分からない。
「……出たとこ勝負だな」
用意できたのは最初の一問だけである。
うしろで荷馬車の音が近づいて、また同じ間合いに落ちついた。御者台のほうを一度だけ見た。手綱は、いつもの高さにある。幌の内では兄がまだ眠っている。
風は無い。粉だけが足元で上がって、また落ちる。道は緩く上って、そこから先はしばらく平らになる。
その平らなところに、背中がひとつあった。同じ方向へ歩いている。
追い越すつもりで足を速めた。速めた先で歩幅がそろってしまい、並んで歩く形になった。若い男だ。荷は小さく、腕の振りが大きい。前だけを見ている。急いでいるというより、着いた先のことを先に見ている顔だった。
「ずいぶん急いでおいでだ」
男はこちらへ首だけを寄せて、口の端を上げた。それきり、何も返ってこない。歩幅がまた少し伸びた。
「この先まで行かれるので」
「急いでいます。先に行った知り合いが一人いて、そいつに追いつきたくて。ここまで来てまだ追いつけない」
訊いたのは行き先だ。
「その知り合いというのは」
「もうそこです。道が下りに入れば、屋根が見えます。角をひとつ回るだけですから」
返ってきたのが行き先である。
「何の祝いです」
「あいつは足が速くて、こちらは荷がありますから。走って勝てたためしがない」
これは一つ前だ。
肩に掛けた布包みが、歩くたびに男の背で跳ねている。
「その荷は、持っていく品で」
「身内の祝いです。うちの者に、いいことがありまして。長く待っていた話で、こちらまで浮かれています」
祝いの中身が、一つうしろから返ってきた。
「屋根が見えるのはまだ先で」
「布に包んできました。潰れると格好がつかないので」
「着いたら、まず庭のほうへ回れと言われています。表から入ると邪魔になるので」
新しい話を置くたび、返ってくるのはさっきの話だ。訊いていないことまで、一つ前から返ってくる。
「……いや、もういい」
「まだ上りです。越えれば下ります」
訊くのをやめても、返事だけは残っている。それでも歩調は乱れない。男は楽しそうだった。困っているのはこちらだけである。
ただ、こちらの用向きからすれば、これでいい。訊いたことは、遅かれ早かれ返ってくる。中身は来た。先に行った知り合いのことは、それ以上訊かなかった。そこから先は俺の用向きではない。
息を入れる。訊くほうは先にした。あとは、言うだけだ。
「このたびは、まことに喜ばしいことと存じます。お身内に良いことがあった由、通りすがりの者ながら、うれしく思っております。この先も長く続きますように」
つっかえなかった。抜かしもしなかった。頭で覚えてきたとおりの並びで、最後の一語まで俺の口から出て、そのまま男のところへ着いた。
男の歩みが緩んだ。荷を胸のほうへ寄せて、こちらへ体を向ける。頭が深く下がって、下がったまま、しばらく上がらなかった。
こちらの手が、行き場を無くして体の横にある。
充実度76%。
そして返事が来る。いつもどおり、一つ前から。
「――よく、言付かってきてくださった」
男の顔が上がっていた。目のふちが赤い。両手がこちらの手を取って、上下に振っている。
言付けに、なった。
俺が並べて、俺が覚えて、俺が言った文句が、会ったこともない誰かからの言付けになった。
「あいつは口の重いやつで、そういうことを人に頼めるとは思っていませんでした。先に行っておいて、こんなものを寄越すとは。よほどうれしかったんでしょう」
男の握りが強くなる。手のひらが熱い。
いま口から出たものは、並びも、間も、置きどころも、用意したとおりに効いている。効き方は文句のつけようが無い。効いた先だけが違う。
口を開いた。開いたところへ、男の声が先に入った。
「屋根はもう見えます。あの角を回れば、すぐですから。下りは足が勝手に出ます」
さっきこちらが訊いたことへの返事だった。空いていたはずのところが、埋まってしまった。
もう一度、口を開いた。息の頭が喉まで来ていた。
「あいつは足が速いので、もうとっくに向こうに着いています。顔を見たらまず礼を言わないと」
これも前の話だ。入るところが無い。
次の間は、潰れなかった。男は黙ってこちらを見ている。荷が動く音もしない。道の先も、うしろも、待っている。俺の番だった。
俺は言わなかった。
男が荷を背のほうへ寄せて、体を道の先へ半分向けた。それから、思い出したという顔でこちらへ戻した。
「あなたも来てください。使いの方なら、あちらもきっと喜びます」
呼ばれた。
喉の奥が熱くなって、熱はそこで止まらずに胸へ下りた。指の先まで行って、戻ってこない。
充実度100%。
男が先へ歩き出す。返事はしなかった。返事の代わりに、うしろへ手を出して振った。荷馬車が横を抜けて、音が前へ遠ざかっていく。白猫はもう肩から降りている。
街道の上に、一人だけ残った。動かない。急いでいる男と、行ってしまった荷馬車と、肩から降りた猫。残っているのは俺だけで、走る先を選ぶ必要が無いというのは、こういうときには楽である。
熱が肩へ回って、指のあいだから抜けようとして、どこにも抜けなかった。目の前が白くなる。上着の残りが縮んで、そして、爆ぜた。
男が振り返ったのは、それより一つあとだった。そのときにはもう、灰である。
充実度0%。
「……これは、上着と呼んでいいのか」
膝の布だけが無事で、腰から上はもう無い。答えを出す気力も無い。
猫が先に来ていた。灰の外側で、こちらを見ている。どうやって回り込んだのかは訊かない。訊いても答えないのは、さっき道の上で確かめたばかりだ。
「今度のは、ちゃんと言えた」
「取り消せるのは、あなたが言ったことになっているぶんだけよ」
猫はそれ以上言わなかった。どうすればいいのかは言わない。いつもそうだ。
言ったことになっているぶん。
「……つまり、いまのは一つも入らないわけだ」
生まれていちばんうまく言えた祝いの文句である。それが丸ごと、会ったこともない男の手柄になった。
「向こうは何も言っていないんだぞ。何も言っていない人が、いまごろ屋根の下で礼を言われてる」
よく言付かってきてくれた、と俺が言われたぶんまで、そっくり向こうへ回る。
「だいたい、あの知り合いは先に着いてるんだ。着いてる人間が、あとから来た通りすがりに言付けを持たせる用がどこにある」
そこに誰も引っかからなかった。
「……まあ、そうか」
言ったことになっていないぶんは、こちらの手元にも残らない。あの文句は消えたのではなく、持ち主が入れ替わって、そのまま先へ行った。
「使いの方、か」
そう呼ばれたのは初めてだった。使いの方は、いま灰の上に立っている。持って行くものは、もう一つも無い。
街道の先に、あの背中はもう無い。
充実度56%。
作ったぶんは、一つ残らず向こうが持っていった。
「……ちょうど、祝いの文句が一つ余ってたんだ」




