ep073「二度目は文句を覚えてから行き、何の祝いかを訊きそびれたまま話し込んで爆ぜた」
覚えた文句を、頭のなかでもう一度だけ通した。
「聞こえています。さきほどから」
声にしていたつもりはない。
まっすぐな道で、隠れるところが一つも無い。
前のほうから来た声には、抑揚というものが無かった。俺は歩く速さを変えず、前だけを見ている。
覚えてきたものは、これで七回ぶん通した。長くはない。長いと途中でつっかえる。短くて、角が丸くて、受け取った相手があとで困らない文句。道々で作って、道々で削った。
口を動かすたびに、要らない語がひとつずつ減った。祈りの形をしたものは大げさになる。褒める形をしたものは嘘くさくなる。残ったのは、渡してすぐ手の空くぶんだけだ。
やり方は自分で決めた。決めたというより、歩いているあいだに勝手にそう組み上がっていた。
相手は、大喜びしそうにない者にする。
そのことを俺は口にしない。口にしないが、段取りのほうは初めからそうなっている。
肩の上で白猫が体をわずかにずらした。
「ずいぶん熱心に、口を動かしていたわね」
止めもしない。直しもしない。褒めもしない。見ていて、見ていたことだけを言う。
「言っておくが、これは練習だ。練習は繰り返すものだろう」
ひげの先が風の向きへ倒れただけで、あとは何も返ってこない。
返事が来ないので、頭のなかでもう一度だけ通した。八回ぶんになった。
祝い方の手本が世のどこかで配られているなら、一部もらってきたいところだ。配ってくれる者がいないので、自分でこしらえるしかない。
幌の内では兄がまだ眠っている。起きる気配は無い。
上着は胸のあたりの布が足りない。前の一件で持っていかれたきりで、そこだけが取り返しのつかない形をしている。体のほうは何ひとつ減っていない。同じ体で、同じ道の続きを歩いている。
充実度31%。
街道からそれたところに、一軒あった。
戸が開いていて、中は明るい。声が多い。何かめでたいことがあったらしい。中身は誰も言わないし、俺も訊かない。
俺は街道に荷馬車を残して、そちらへ折れた。
戸の外に、ひとりいた。壁に背をあずけて、地面に置いた木の切れ端に腰かけている。年は上のほうだ。中の明るさは戸口のところで止まっていて、その先までは届いていない。
膝の上で手を組んでいる。中の声が一段高くなっても、その手は動かない。
足元には何も置いていない。杯も皿も無い。中から呼ぶ声が二度あって、二度とも返事をしていない。
その家の者だとは、見ればわかる。それでいて中には入っていない。
迷わずそちらへ歩いた。
口を開こうとした。
先に喋ったのは、向こうだった。
「歩きですか」
断られる前提でここまで来ている。声をかけて、無視されて、それでも最後まで言う。そういう段取りだった。向こうから音が来るところは、一行も組んでいない。
充実度57%。
喉は乾いていなかった。覚えてきたものが、そのままの順番で出てきた。
「このたびは、まことに喜ばしいことと存じます。お身内に良いことがあった由、通りすがりの者ながら、うれしく思っております。この先も長く続きますように」
つっかえなかった。一度も止まらず、削ったとおりの長さで、最後まで言い切った。
男が顔をこちらへ向けた。
「――何がです?」
何の祝いかを、俺は知らない。
戸が開いていて、中が明るくて、声が多い。それだけを外から見て、ここへ来た。訊けばいい話だが、先に言い切ってしまった以上、いまさら訊けるものではない。
男は急かさなかった。俺の顔を見て、それから戸のほうへ目をやって、また戻した。その間に、こちらの口が二度あいて、二度とも閉じた。
文句のほうは、もう使い切っている。
充実度33%。
男は、俺が黙ったことを気にしなかった。
背を壁にあずけたまま、道のほうへ顎を向ける。
「この道はね、近ごろ砂利が粗くてね。歩くと足の裏に来るでしょう」
「来ますね」
「もっと細かかったんですよ。……いや、細かかったというのも、こちらの足が丈夫だっただけかもしれん」
「そういうものですか」
「そういうものです」
祝いの話ではない。中の話ですらない。
次は屋根の板の話になった。
「うちの屋根は、一枚だけ向きが違うんです」
「向き」
「なぜだか一枚だけ逆に張ってある。張った本人に訊いても、覚えていないと言う」
「雨は」
「入りません。それが妙でしてね」
俺は聞いた。聞いて、返した。返すと、男はまた別の話を出した。
「隣の犬が、近ごろやたらと遠出をする」
「どこまで」
「川まで行きます。行って、濡れて帰ってくる。濡れて帰ってくるだけで、何も持ってこない」
「魚くらい持ってくればいいのに」
「そう言ってやってください」
犬の話は長かった。長いのに、終わりかけるとそこからまた枝が生えた。
枝の先は井戸になった。
「うちの井戸はね、この時季の水がいちばんうまい」
「夏より、ですか」
「夏より、です」
「冷たさは同じでしょう」
「冷たさは同じです。夏は喉のほうが急いでいる」
なるほど、と返しかけて、やめた。やめたのが顔に出たらしい。
「言いかけましたね」
「言いかけました」
「言ってください。こちらが賢く聞こえて、悪くない」
風の話にもなった。
「この時季だけ、風が逆から来るんです。山のほうから」
「それで戸を開けているんですか」
「開けておくと、中の声が外へ流れましてね」
「流れてますね」
「流れているでしょう」
そこから砂利の話に一度戻って、また屋根の板へ行った。
同じところを二度通っても、男は気にしなかった。俺も気にしていない。
中の声が、来たときと同じ量で鳴っている。
増えも減りもしない。人が増えたようにも、抜けたようにも聞こえない。戸口の内側に、決まった量の音がそのまま置いてある。外に出ている二人の声だけが、少しずつ増えていく。
男が笑った。俺の返しのどこが可笑しかったのかは、わからない。わからないまま、こちらの喉の奥も緩んでいる。
緩んだきり、戻らない。
返す言葉を探す間が、だんだん短くなっている。男が言い終わる前に、こちらの口のほうが動きはじめている。
足の裏は、いつからか砂利の粗さを拾わなくなっていた。
祝いに来た。文句も覚えてきた。それがもう、どこにも要らなくなっている。
腹の底が熱い。
下から上へ、指の先まで行って、戻ってくる。この熱は知っている。
充実度98%。
途中で立った。
男はまだ喋っていた。犬が川のほうまで行ってしまうという、その話の途中だった。
こちらを見て、続きの言葉が口の形のまま止まっている。
その形を一度だけ見た。
喉が動いた。声にはならなかった。
一言も返さないまま、俺は歩幅を広げて走り出した。
戸口を離れて、街道まで戻って、そこからさらに外れまで。草しか無いところで足を止めた。
爆ぜた。
上着の残りが宙で細かくなって、足元の地面が黒くなる。
充実度0%。
灰の上に立っている。胸のあたりにあった布は、もう見あたらない。
腕のほうも残っていない。残っているのは腰から下の、布と呼んでいいのか怪しいぶんだけだ。体には傷ひとつ無い。減るのはいつも布のほうだ。
白猫が灰を踏んで歩いてきて、俺の前で止まった。足の裏に黒がついている。
「これで二人めだな」
一人めは前の一件。二人めがこれ。中身はどちらもひどいものだが、数だけは前へ動いている。
「一人めが、まだ終わってないもの」
つまり数え直せということらしい。数え直すも何も、こちらは二回ぶん出向いて、二回ぶん爆ぜている。出向いた回数は数に入れてもらえないわけだ。
一人めがいつ終わるのかは、言わない。
終わったかどうかを決めるのも、こちらではないらしい。数えていいのは終わったぶんだけで、その終わりの線は向こうが引く。
白猫はそれきり黙っている。足の裏の黒も気にしていない。
ここからでも、あの戸の中の声は同じ量のまま鳴っている。俺がひとり抜けても、あちらの量は変わらない。
増えていたのは外の二人ぶんだけで、その片方はもう、ここに立っている。
充実度44%。
一人めが終わっていないなら、二人めはまだ始まっていないことになる。数え方まで向こうの持ち物だ。
白猫の耳が、一度だけ後ろへ倒れて、すぐ戻った。
街道からそれた一軒の戸は、開いたままだ。
「……いまごろ、あの人がひとりで喋ってる」




