ep072「呪いを取り消すために生まれて初めて他人を祝ったのに、礼を言われてこっちが先に爆ぜた」
積み方が、昨日とちがっている。
俺が起きるより先に、荷は半分ほど載せ替えられていた。
昨日の最後に言ったことに、返事はまだ無い。
「まず、一人でいいのよ」
声のほうが先に来た。白猫は荷台の角で丸くなったまま、こちらを見てもいない。
数の話から入られるとは考えていなかった。一人でいい、ということは、二人めから先の算段も向こうの頭にはあるわけだ。
街道の先は薄い色をしていて、朝の光がまだ地面まで届いていない。
体を起こす。敷いていた布は、ふちが焦げたままだ。昨日のぶんだ。
取り消せ、と言われた。
やることの名前だけは、昨日から手元にある。動かし方が一つも付いてきていない。
「……で、どこから手をつけるんだ。それは」
白猫は尻尾の先を一度だけ動かして、事もなげに答えた。
「そんなものは無いのよ。順番も、回数も、期限も無い。できるようになるまで、できないだけ」
期限も無いというのは、猶予をもらったという話ではない。終わりの日を決めてもらえないという話だ。
言われた形はやわらかいが、中身には取りつく島がない。
反論の言葉を探した。材料が一つも出てこない。抗議する先も無い。条件を出した相手がこちらだというのは、そういうことらしい。
手本になる者が一人でもいれば、まだ持っていきようがある。そういう者に限って、こういうときにはどこにもいない。
荷のほうへ目をやった。縄の回し方まで違っている。
重いものが下へ回されて、空いた上のところに、人が一人座れるだけの隙が作ってあった。
積み直したのは俺ではない。俺は誰にも頼んでいない。頼めば断られると分かっていたから、口にも出さなかった。
昨日こぼした一言を、聞いていた者がいるということになる。聞いていて、口では何も返していない。
口では、まだ誰も応じていない。応じていないのに、支度のほうだけが、そのつもりで先に組み直されている。
兄のほうは、幌の下で起きてこない。
充実度68%。
街道をしばらく行ったところで、道の脇に人が集まっていた。十人ほど。荷馬車を停めるほどの用ではない。
真ん中に若い男が一人いて、下を向いている。照れているらしい。周りが順に肩を叩き、それから手を打ちはじめた。
「よかったなあ」
「そうなると踏んでたんだ、俺は」
「おい、下ばっかり向くな」
声が飛び交って、男はますます下を向く。
「連れ合いができたんだとさ」
「ついさっき決まったばかりでな。通る奴に片端から言って回ってるところだ」
男の隣にいた年上の女が、こちらに気づいて場所を空けた。通りたいのだと思われたらしい。
通りたいわけではなかったが、いまさら説明もできない。ここでは誰も俺を知らない。名前も、呼ばれ方も、この体が何をやらかす体なのかも、一人として知らない。ありがたい話だ。
手が鳴る。乾いた音が、道の上で重なっていく。
俺も手を出した。打った。半拍おくれた。
周りの音がひとかたまりで落ちるところへ、こちらの手だけが後ろから入って、間に入りきらずに空を切る。二度目も同じだった。三度目でやめた。
手のほうが、先に返事をしている。十人ぶんの中で、俺の手だけが音にならない。誰にも気づかれていないのが救いだ。気づかれていたら、そのほうがよほどまずい。
この手は岩を砕ける手だ。人と同じ拍で鳴らすほうが難しいとは、誰も教えてくれなかった。
口も動いた。
祝いとは別の形に、勝手に動いた。舌が先に位置を決めていて、息まで用意されている。ずいぶん長く繰り返してきた形は、昨日あれを聞かされたばかりだというのに、一つも錆びていない。
息を吸ったところで止まった。自分で止めたのか、勝手に止まったのかも判断がつかない。
手も口も、こちらの持ち物のはずだ。どちらも言うことを聞かない。
充実度47%。
それでも、一歩前へ出た。
何をする気なのかは、自分でも分かっていなかった。足のほうが先に出て、体が後から付いてきた。人と人のあいだに隙間があって、そこへ勝手に入った。
男がこちらを見た。周りも見た。手が止まって、道の上が静かになる。
こういうとき、世の中の人間は何を言っているのか。思い出そうとして、近くで見たためしが一度も無いことに気がついた。見ていたことはある。ずっと後ろから、背中だけを。
「……あー、その、なんだ。そういうのは、世間では、いいことだと、されている、らしい」
出てきたのは、祝いの言葉というより、他人の家の門に貼ってある紙を読んだ形だった。
世間では。されている。らしい。どこにも俺がいない。
男が、目をしばたたいた。周りも黙っている。まずい。
「いや、待ってくれ。いまのは言い方がまずかった。……その、なんだ。あんたが、そういうことになったのは、あんたにとって、たいへんに、都合のいいことだと、こちらとしても、認めるにやぶさかでない、ので」
言い直した。遠くなった。認めるにやぶさかでない、とは何だ。近づくつもりで口を開いて、さっきより外まで出た。役所の窓口でも、ここまで固い言い方はしない。
一つ言うたびに、相手との間が一足ぶん開いていく。
男が、こちらを見た。
目のふちが赤くなっていた。
何が起きたのか分からない。上手いことは何一つ言っていない。むしろ下手なほうへ、念入りに歩いた。
「……ありがとうございます」
男が言った。声が震えている。それから深く頭を下げて、そのまましばらく戻さなかった。
「兄さん、いま何て」
「都合がいい、って言ったんだ。……うん。都合がいいんだよな、俺は」
男の目のふちが、また濡れた。
「泣くなよ、こっちまで来るだろ」
「よくぞ言ってくれた」
「いまのがこの場でいちばんまともな一言だ」
「道で行き会っただけの相手に、そこまで言ってもらえるとはなあ」
「もう一度言ってやってくれ。こいつ、まだ信じてないから」
もう一度、とは言われても困る。二回でこれだ。三度目は事故になる。
礼を言われている。何度も。こちらがしたことといえば、下手な文をひとつ、二回言っただけだ。二回目のほうが出来が悪い。
胸のあたりで、覚えのある重さが増えていく。増え方が速い。速すぎる。
充実度99%。
「知らせてくる。まだ言ってない家があるんだ」
「おい、待て。俺も行く」
男が道の先へ走りだした。周りもそれに続いて動きだす。誰かが笑い、一団はそのまま先へ流れていった。
祝いの場だったところが、勝手に空いた。
今日は、走る用がない。襟首を掴んで運ぶ相手もいないし、道の端まで距離を稼ぐ必要も無い。向こうが必要なぶんだけ持っていってくれた。
道の草が風で寝る。上着の残りが、腹のあたりで一度だけ持ち上がった。
膨らみきったものが、内側から押してきた。
押されて、視界が白くなる。
0%。
肩のところで終わっていた上着は、もう肩のところにも無い。布だったものが胸の前に二本、細く垂れているだけだ。これを上着と呼ぶのは、そろそろ無理がある。
灰が、道の草の上に薄く落ちている。
白猫が、焦げた地面のふちを避けて歩いてきた。毛の先に灰が乗っているのを、気にする様子もない。
「口は動いてたわね。……一人めにしては上出来よ」
褒められたらしい。口が動いていた、というだけの理由で。
中身のほうは、指一本ぶんも動いていない。動いていないことは、この猫がいちばん見ている。見たうえで、どこをどう直せとは言わない。教える気が無いのではなく、教えられることが無い。
一人めにしては、と言った。ということは二人めがある。三人めも、その先も。数がどこまで続くのかは言わない。言わないのではなく、言えないのだ。
昨日から、こちらは何も進んでいない。進んだことがあるとすれば一つだけだ。他人にいいことがあった場に立って口を開くと、その場で爆ぜる。役に立つ場面が一つも思いつかない。
立ち上がると、膝から灰が落ちた。地面には、いつもの焦げた円が残っている。半径だけは、こちらの努力に関係なく毎回きちんと同じだ。
手本さえあれば、あとは見て真似るだけで済む話だ。それが無いから、口が勝手に門の紙を読みはじめる。
いちばん上手い者がやっているところを、一度でいいから見ておきたい。そういう者がどこにいるのかは、見当もつかない。
御者台では、リゼが手綱を握ったままでいる。馬は動かない。こちらへは何も言われない。
馬の尾が、虫を追って一度だけ振れた。
風が、道の先から戻ってくる。声はもう届かない。
道の先で、一団の背中が小さくなっていく。角のところで折れて、それきり見えなくなった。
充実度48%。
祝ったのはこっちで、上がったのもこっちだ。
白猫の前脚が、組み替わった。
「……あそこまで喜ぶとは、向こうも大概だ」




