ep071「呪いの解き方をやっと聞けたから、俺は自分の番のことを初めて口に出した」
「……誰か、何か言えよ」
誰にも宛てていない。宛てる先を思いつかなかったから、そう言うほかなかった。
案の定、返ってくるものはない。
紙は一枚も落ちていない。綴りだったものは、ここのどこにも残っていない。
上も、空のままだ。下りてきたものも、上がっていったものも、もう見えなくなっている。
繋いだままの馬が、前へ出た一歩の形で止まっている。二歩目を出す気配はない。
幌の内では、リゼの兄が眠っている。
端まで下がった者たちは、そこから動かない。こちらを見ようともしない。
立っている場所も、さっきから同じままだ。変える理由がなかった。
風はほとんどない。焦げた布のふちが、たまに一度だけめくれて、そのまま垂れる。
誰かが動きだせば、こちらも動きだせる。誰も動きださないので、こちらも同じところにいる。
こちらの手に、渡されたものが一つある。
名前が付いていない。
持たされたことは分かる。何を持たされたのかが分からない。
さっきまでここに立っていた相手は、もういない。
残していったのは用件だけで、中身のほうは連れて帰った。
役所の用が一つ、止まったまま、この場に据え置かれている。
止まっているものの名を、こちらだけが知らない。
知らないものを持たされて突っ立っているのは、思っていたより間が抜けている。
上着は、袖しか残っていなかったところから、さらに面積を減らしている。
この状態のものを上着と呼んでいいのかは、誰も教えてくれない。
誰も何も言わないので、さっきの一言が、こちらの耳の中でまだ転がっている。
黙っているあいだに、音がまた戻ってきていた。
黙るのをやめる理由も、いまのところない。
白猫は、少し離れたところにいる。
その白猫が、口を開いた。
「解けるわよ」
抑揚がなかった。
愚痴でもない。査定の話でもない。
訊いていない。
こちらは、誰にともなくぼやいただけだ。訊いたのなら答えが返るのは当たり前だが、訊いていないものには、当たり前が用意されていない。
息は吸えた。そのあとが続かなかった。
舌が、どこにも当たらないところで止まっている。
喉のほうは、返事の形をいくつか作っては、途中でほどいた。
解ける。
その三文字の置き場所が、こちらの中に作られていない。
作られていないものは、しばらく手に持っていられない。落とすわけにもいかないので、持ったまま突っ立っている。
解けると言われて、最初に困るのが置き場所だというのは、順番として間違っている気がする。
持ち込み品だから、この世界の術では解けない。
そう言ったのは、この猫だ。ずいぶん前に、はっきりと言い切った。
同じ口が、いま別のことを言っている。
白猫は、こちらを見ていない。目は、地面の低いところに据えられている。
言い直しもしない。付け足しもしない。
こういう話になると、この猫はいつも別のことを喋りはじめる。それが、はじまらない。
「……ずいぶん軽く言うんだな」
出てきたのは、それだけだった。
もっと言うことはある。訊きたいことも、順番を待たされたまま列を作っている。列の先頭が決まらないので、どれも出られない。
言われたことを、頭の中でもう一度置き並べてみる。並べたところで、増えも減りもしない。
馬は、まだ二歩目を出していない。
端まで下がった者たちも、まだそこにいる。
「ただし――」
続きは、すぐには来なかった。
来ないあいだ、こちらは口を閉じていた。開けたら、続きのほうが引っこむ気がした。
「――手続きの空隙から出たものはね、手続きじゃ閉じられないの。届も、判も、差し戻しも通らない」
閉じられない。
その一言が、こちらの中で行き場をなくして浮いている。
届が通らない。判が通らない。差し戻しも通らない。三つ並べられて、三つとも自分には縁のない言葉だった。
「だから、かけた本人が取り消すしかないのよ。あなたが自分でかけたものだもの」
息を止めていたことに、そこで気づいた。
吐き出すと、焦げた布のにおいが喉の奥まで来た。
「……取り消すっていうのはね」
語尾が、いつもより長く伸びた。
伸びたぶんだけ、次が重い。
「他人が幸せそうにしているのを見て、そのたびに念じてきたことの、その反対をできるようになること。他人の幸福を、心から祝えるようになること。それだけ」
白猫は、そこまで言って黙った。付け加えることはないらしい。
聞き終えるまでのあいだ、こちらは一度もうなずかなかった。うなずく場所が見つからなかった。
それだけ、と言った。
それだけのことを、こちらは一度もやったことがない。
他人が幸せそうにしているのを、ずっと見ていた。
祝いの声も、駆け寄る足音も、いつも一歩下がったところで聞いていた。近づけば、こちらのほうが場に合わない。合わないまま立っていると、内側のものが先に鳴りだす。
見ていただけだ。見ながら中で鳴っていたものは、祝いとは似ても似つかない。
あれを裏返して、心から、と言われている。
裏返すどころか、表のほうにも触ったことがない。
その全部を、こちらの手で外せという。
外すというより、作り替えろに近い。作り替えるための道具は、こちらの手元に一つもない。
言い返す言葉は、口の中に一通りそろっていた。
そろっただけで、外へは出なかった。出したところで、条件のほうが引っこむわけでもない。
肩から、力とは別のものが抜けた。
抜けたぶんだけ、立っているのが下手になった。
充実度25%。
「……それ、世の中のだいたいの人間が、息をするみたいに済ませてるほうのやつだろ」
抗議ではない。抗議する相手がいない。
持ってきたのはこちらで、唱えたのもこちらだ。文句を言う窓口は、こちらの中にしかない。
そこへ、荷のほうから声が来た。
「おめでとうございます」
荷馬車の脇からだった。
幌の縁に掛けていた手を離して、リゼが半歩だけこちらへ出ている。
距離はあった。それでも、その声はこちらの耳まできれいに届いた。
荷のほうを見た。
鉄面皮のままだ。声だけが、はっきりしている。
祝われる筋合いのことが、いま一つでもあっただろうか。
あるらしい。呪いが解けると分かった。それだけで、リゼはまっすぐに祝う。
それ一つきりだった。
町の者は戻ってこない。集まってくるものも、鳴りはじめるものもない。
一人ぶんの一言だけが、こちらのところまで来た。避ける必要もない。避けるほどの量ではない。
充実度100%。
走った。
馬が前へ出たほうではなく、歩いてきたほうへ引き返す。
荷馬車を後ろに置く。幌の内で眠っている兄も、座ったままの白猫も、半歩出た形で立っているリゼも、まとめて後ろだ。
襟首も、腕も、何も掴んでいない。
両手が空のまま走るのは、めずらしい。走りながら数えることも、今回はない。
端まで下がった者たちは、そこから動いていない。そこまでは届かない。
届かない位置に体を運ぶ。それだけが、こちらの仕事だ。
言うことは、何も浮かばなかった。
浮かばないまま、広場の端まで来た。
止まる必要はなかった。止まる前に届いた。
明るいのが先で、押されるのがあとだった。
ぱん、と乾いた音が一度。地面の砂が輪になって、外へ逃げていく。
耳の内側が、しばらく詰まっていた。
いつもなら、ここに声が積み重なる。それが、一つも重ならなかった。
詰まったままの耳で、そのことだけは分かった。
充実度0%。
砂が落ちきるまで、少しかかった。
上着だった布が、また減っている。肩のところで終わっていて、その先はもうない。
手には何もない。走りだしたときと同じだ。
持って帰るものも、渡すものもない。このあとは、いつもこれだけだ。
膝の裏に砂が入っている。払っても、片側だけ残る。
白猫は、いつのまにかこちらの前にいる。
どうやってこの距離を移ったのかは、いまだに分からない。
「多分は、取り消すわ」
抑揚は、さっきと同じだった。
取り消すという動詞を、この猫は一度も重たそうに使わない。
はじめて会ったとき、この猫は同じことを言って、うしろに一語だけ付けた。
付けたほうだけを、いま外していった。
こちらのほうは、外し方を聞かされたばかりで、まだ何ひとつ外していない。
同じ動詞のはずなのに、あちらは一言で済んで、こちらは一生ぶんの宿題になる。あまりに割に合わない。
届も判も通らないと言ったその口が、自分の言ったことだけは、届も判もなしで引っこめていった。
手続きの空隙とやらは、こっちの呪いじゃなく、この猫の口の中に空いてるんじゃないのか。
黙っているあいだに、また鳴っている。
白猫が、座り直した。腰の位置が、少しだけこちらへ寄った。
充実度60%。
馬が、ようやく二歩目を出した。荷馬車が半分ほど回って、そこで止まる。
リゼは止めなかった。伸ばしかけた手が、行き場をなくして下りた。
「……俺は、爆ぜないで嬉しいほうを、一回やってみたい」




