ep070「神の上役に謝りだしたうちの課長を庇ったら、その綴りが一枚残らず飛んでいった」
見上げても、影を落とすものがなかった。
四角い影のほうが、先に来ている。
影の中へ、綴りを抱えたまま下りてきた。
逆だった。着く順が。
縁は、まっすぐだった。雲でも、鳥でも、屋根でもない形をしている。
落ちてくる速さも、物が落ちる速さではない。下ろされている、という速さだった。
用を回していた者たちが、いっせいに手を止めた。石の上を渡ってきた縁が、立っている場所をひとつずつ舐めていく。舐められたところから、人が引いた。
声を上げた者はいない。走った者もいない。端まで下がって背を向けて、それきりこちらを見ようとしなかった。
上を見ていたのは、こちらだけらしい。ほかの者は、影のほうだけを見て動いていた。
ここまでずっと鳴っていたものが、止んだ。
脇へ寄せた荷馬車は、そのままだった。幌の内も、そのままだ。眠っている兄まで届く距離ではない。
猫は、横で座っている。尾の先も揺れていない。前脚をそろえた形のまま、上を見上げようともしない。
下りてきたものが、地を踏んだ。踏んだ側の高さが、こちらの目より少し上にある。
抱えているのは紙の束で、腕の角度は水平のまま変わらない。落ちてくるあいだも、端を押さえた指が一本もずれていなかった。
こちらは顔のほうを見なかった。見たところで、あとで思い出せる形にならない。
「本件の当人ですね」
こちらの名は、出てこなかった。
訂正するのに、二音あれば足りる。二音のぶんだけ、口が開かなかった。
名で呼ばれたのは、つい先ごろのことだ。名と用件で呼ばれたのも、そう前の話ではない。
管理局です、とも言わなかった。それでも、こういう来かたをする者を、ほかに一つも知らない。
件と呼ばれたほうは、名を持っていなくていい。持っていても、書き入れる欄がない。
充実度32%。
荷のほうから、リゼが入ってきた。
小走りではない。歩幅も変えていない。こちらの二歩ぶん手前で止まって、それ以上は近づかなかった。
「ミツルさん」
返事をする前に、紙の束のほうが先に開いた。
「閉じていない処理が、この土地に一つ残っています。査定に参りました」
抑揚がない。怒鳴らないし、凄まない。嗤いもしない。読み上げているだけだった。
こちらが黙っていても、間が空かない。次の行が、そのまま来る。
悪意で言われているのなら、まだ言い返しようがある。
「当該の処理は、差し戻しになります。所定の手順です。はじめからやり直す、ということになります」
どこまで戻すのかは、言われなかった。戻したあとにこちらが残るのかどうかも、言われない。
閉じていない処理、というのは、こちらのことだ。開いたまま転がっている一件が、ここに一つある。
置き忘れられているのではない。途中だから、閉じていないだけだ。
紙の面には、こちらの知らない字が並んでいる。行の数だけ、こちらのことが書いてあるらしい。
束は、こちらの一件のためだけに厚いのではないだろう。ほかの分も、同じ腕に挟まっているはずだ。
横で、毛が立った。
横の一匹が、立ち上がる用意をしている。座っていた形が、もうそこにない。
神衣の裾が、抱えられた綴りの上を撫でていく。
クマは、猫だったときより濃い。色気だけはある。
立ち上がるまでの途中を、こちらは見ていない。見ていたはずなのに、思い出せる形になっていなかった。
「局長。差し戻しの対象は、こちらの案件です」
声は、猫のときと同じ高さだった。低くもしていないし、大きくもしていない。
呼び方ひとつで、目の前のものが何なのか分かった。役の名だけで足りる相手だ、ということも。
「……当該の空隙は、私の手違いによるものです」
めくった指は、そこで止まらなかった。書き足すでもなく、次の行へ進んでいる。
めくる速さが、どの行でも同じだった。
言い訳が続くのを待っていた。続かなかった。
泣きもしない。声も震えていない。書式のとおりに述べているだけの声だった。
どうやって空いたのかは、言われなかった。誰が、だけが足された。
こちらの呪いは、こちらのしたことから出ている。それはもう分かっている。
出どころの手前に、もう一段あった。段の上に、この猫が立っていた。
口は、開かなかった。開けるだけの用意もなかった。
取りこぼしが一つあって、それが自分だった。
こぼしたほうは、ずっと横にいた。横にいたまま、いちばん長く黙っていた。
充実度7%。
「では、査定は当人ではなく、担当者のほうへ」
言い方は、さっきまでと同じだった。行を一つ下へ移しただけの声だ。
紙の束の上で、指がまた一枚めくれた。
担当者、という言い方が誰を指しているのかは、言われなくても分かった。
こちらのほうは、そこで打ち切られたらしい。
束が、こちらから逸れた。ここまでこちらを向いていたものが、横の一匹のほうへ移る。
敵が、乗り換えた。
白い裾が、半分だけ前に出た。
抱えられた紙のいちばん上で、裾の先が止まった。
「私の職を、差し出します」
言い終わってから、こちらのほうを見ない。上のほうだけを見ている。
職、という言葉が出るまでに、間がなかった。考えてから出したのではなく、順番どおりに出した速さだった。
職を出す、というのがどれくらいのことなのかは、こちらには測れない。ただ、測れないくらいのことだというのは分かった。
腕のほうは、そのままだった。受け取るとも受け取らないとも言わない。
規則ですので、とは言わなかった。自分のせいですので、とも言わなかった。
「この人の分が、まだ済んでいませんので」
理由のところで、声が一度だけ低くなった。
こちらのことを言っている。ほかに当てはまる者がいない。
いちばん上の者の前で、いちばん下の者が、自分から出している。
いちばん偉くない神が、いちばん偉い神の前で、自分の手違いを先に出した。そのうえで職まで出した。理由が、こちらの分だった。
充実度45%。
こちらの分、という言葉だけが残った。
二人のあいだには、腕一本ぶんの隙間があった。そこへ入れるかどうかを、いちど測った。
声になる前に、言葉が二つに割れた。使うほうを選んで、体を入れた。
「その穴、俺が使ってる。返す気はない」
思ったより低く出た。
使っている、というのは嘘ではなかった。持っていないふりも、もうできない。
紙の束の縁が、こちらの胸のあたりで止まっている。
返す気はない、のところで、束を押さえた指が一度だけ動いた。
伏せていた目が上がって、こちらで止まった。役の名で呼んだ相手ではなく、こちらで。
裾が、撫でるのをやめている。
手のひらが、いちど開いて閉じた。
ここへ下りてきてから、その目がこちらへ来たのは初めてだった。
充実度98%。
走った。
綴りのほうへ。いちばん近い一点まで。
束は、まだ同じ高さにある。
向こうの腕の中にあるものが、この場でいちばん近い。近いほど、よく飛ぶ。
三歩で届いた。四歩目は要らなかった。
下の縁が、こちらの額の高さにある。ここより近いところは、この場にない。
視界の端で、リゼが荷のほうへ退がっていた。誰にも言われないうちに、自分の足で。
荷も、馬も、幌の内も、ここからは遠い。
白い裾も、半歩ぶん引いた。引かせたのではない。
局長が、初めて手を動かした。抱え直そうとして、腕が半分だけ上がる。
「――爆ぜろ、俺」
どん、と一つ。
白い光が、上へ抜けた。
紙が、一枚残らず飛んだ。
腕の中が、めくれるより速く空になった。
束が束でなくなって、上へ行くものと横へ流れるものに分かれる。どれも下りてこない。
上へ行ったほうは、風のあるところまで乗って、屋根の先へ出ていく。
書いてあった側を上に向けたまま、遠くへ行くのが一枚だけ見えた。
残っていた袖が、また短くなった。
充実度0%。
明るさが引いて、ものの輪郭が戻ってきた。
腕の中には、何もない。腕の形だけが、抱えていたときのまま残っている。
何も抱えていない腕が、組まれた。組んでから、動かさない。怒っている形ではなかった。
怒鳴られる支度だけはしていた。要らなかった。
決めるための紙が一枚もなければ、この場で決められることは一つもない。
役所に起きているのは、それだけのことだ。
どこにも溜まっていない。地面にも、屋根の上にも、こちらの肩にも。
地面から、四角い縁が抜けていく。
端に下がっていた者たちは、まだ戻ってこない。手も、まだ止まったままだ。
白いものは、もう見えない。どこへ行ったのかは分からない。
書いてあったことは、まだどこかに残っているのだろう。刷り直せば、また同じ厚さになる。
役の名で足りる相手が、こちらの前で黙っている。手順の続きを探しているようだった。
こちらの前に、決まっていないものが一つ残った。
消えたのは神衣のほうで、足元に白猫が戻っている。
尾が一度だけ動いて、それきりだった。
こちらを見上げてはいない。前脚をそろえた形に戻っている。
言うことは、たぶん山ほどある。どれも出てこないらしい。
こちらも、出てこない。
繋いだままの馬が、勝手に一歩だけ前へ出た。荷が少し傾いて、そこで落ち着いた。
荷のほうでは、リゼが手を伸ばしている。
組んでいた腕が下りた。
こちらを片づけに来た者が、こちらを見ている。
処理される側に置かれていた足が、まだ同じところにある。
こちらへ来たのは、局長の顔のほうだった。白猫のほうではなく。
もう一方へは、いちども戻らなかった。
「――本件は、当人の処理に委ねます」
紙は、広場のどこにも残っていなかった。
委ねられたものの名を、俺はまだ知らない。
充実度55%。
「……綴りを飛ばしたやつは、うちの課長じゃない」




