ep080「充実度100%。おい、いつまで経っても爆発しないんだが」
リゼットは、帰っていかなかった。
出てきた場所から、こっちを見ている。
こっちも、戻ってきた場所から、そっちを見ている。
あいだにあるのは、さっき聞かなかった続きだけだ。
どちらも、そのあいだを詰めない。詰め方の分かる人間が、この街道には一人もいない。
白猫は、道の脇に座っている。どっちの顔も見ていない。口を挟んでくる様子も無い。
こっちは、言うだけ言って逃げた男だ。逃げた男が戻ってくれば、普通は向こうが一歩引く。
引いてくれれば、こっちも引き下がる口実ができる。
リゼットの足は、さっきの位置から少しも下がっていない。引かれないと、こっちも引き下がりようがない。
聞かずに逃げた続きを、いまさらこっちから聞きに行くのは筋が悪い。
だいたい、爆ぜて戻ってきた男に何を言うのが筋なのかも知らない。無事でよかった、か。服をどうにかしろ、か。
どっちが来ても、頭を下げる用意だけはしてある。服のほうは、下げる前から風通しがいい。
こっちの口は、まだ何も作っていない。作る前に、向こうが先に出た。
「回数の話では、ありません」
計算のほうに、物言いがついた。
無事も服も飛ばして、いきなり算数の採点から入ってきた。答案を出した覚えもないのに、もう直しが入っている。
しかも、こっちが言い終えてから、息一つぶんの間も置いていない。
帰らずにいた人間の声が、帰らずに、そのまま届いた。服を半分なくした男に、だ。
こっちの中身は、そういう届き方にめっぽう弱い。言われたのが否定でも、声がすぐ来たというほうを先に積む。
否定されて上がる数字というのも、なかなか見ない。こっちの作りは、安いうえに、ひねくれている。
充実度42%。
リゼットは、目を動かさないまま、続きを足した。
「さっきのは、私に言うことでは、ありません」
さっきの、というのは五文字のことだ。さっき俺が口にしたのは、あれしか無い。
言う先が違う、ということらしい。
言われてみれば、あれは言いっぱなしだった。言いっぱなしで、あとは足にまかせた。
足のほうが、口より先に返事をした格好だ。
めでたい話には、二人いる。こっちは、一人にしか言っていない。
半分しか言っていないものを寄こされても困る、という話なら筋は通る。向こうは、筋の通らないものをひどく嫌う。
「……ああ。その人に言えってことか」
街道の前を見る。後ろを見る。
人影が一つも見えない。白い道が、どっちにも同じ幅で伸びている。
そういう男は、たいてい見えない側で得をしているものだ。
見えないなら、見えるあたりまで歩けばいい。歩くのは慣れている。
「……先に、そいつを探してくる」
口に出してみると、急にまともな話に思えてくる。
頭の中では、もう顔も知らない男の前に立っている。
どんな顔でも、俺よりはましだ。ましな顔の前で、ましでない頭を下げる。
同じ五文字を、その男の目を見ながら出す。出したあとで腹が裏返るのを、その男の前でこらえる。
足のほうは、半分、街道へ出かかっている。
うらやましい男を、わざわざ探し出して、頭を下げに行く。
前世でも、ここまで行儀のいい惨めさはやった覚えが無い。
惨めさの見積もりだけは、こっちの頭はいつも手際がいい。
充実度26%。
数字まで、こっちの惨めさに律儀に付き合ってくる。
「探さなくて、結構です」
即答だった。探しに行く足が、一歩目を出す前に止められた。
探すなと言われたら、探す先はこの場に限られる。
「……じゃあ、ここにいるのか」
ここ、というのがどこまでを指すのかは言われていない。言われていないなら、手の届く範囲から当たる。
荷馬車の脇を見る。誰もいない。
幌を見る。
幌の中は、兄だ。
前へ回って、馬を見る。
長い顔が、こっちを見返してきた。この場でまだ当たっていない顔は、こいつくらいだ。
リゼットと、いちばん長く並んで歩いてきたのは、たぶんこいつだ。手綱越しに、ずっと話しかけていてもおかしくない。
こいつは、黙って話を聞くのがうまい。こっちより、よほどうまい。
めでたい話の片側が四本足でも、それはそれで筋は通る。
「……馬か」
「馬では、ありません」
三つ続けて、同じ形で退けられた。退け方まで同じだ。ここまで来ると、もう芸の域だ。
こっちの当てだけが、一つずつ潰れていく。
こっちの見当が、どこかで大きくずれている。ずれているのは分かるが、どこでずれたのかが分からない。
「ミツルさんです」
名前のあとに、何も付いてこない。
充実度73%。
「……研究対象として、だろ」
「違います」
言い方に、飾りが無い。いつもの声のままで、中身だけがまっすぐ来る。
違うと言われて、次の読み方を探す前に、次が来た。
「そこに、いてください」
言われるまでもなく、俺はここに立っている。立っている人間に、立っていろと頼む。変わった頼み方だ。
前世では、立っていろと言われる場所は廊下と決まっていた。
廊下と違って、ここには叱る人間がいない。いるのは、頼んできた当人だけだ。
残っていた半歩を、向こうが越えてきた。
触れて、離れた。
頭が話に追いつく前に、数字のほうが先に出た。
充実度100%。
見慣れた数字だった。見慣れているのは、たいてい爆ぜる直前に見るからだ。
足し算ではない。こっちの見積もりも、途中の数字も、全部すっ飛ばして天井まで持っていかれた。
この上がり方には決まりがある。最初のころに、白い毛玉から聞かされた。そんな場面が俺に回ってくるはずがないと、話半分で聞き流した決まりだ。
天井まで持っていかれたら、次に来るものは一つしかない。
白い道の真ん中で、布の足りない男が一人、盛大に散る段になる。
散るのには慣れている。自慢にならない種類の慣れだ。
体のほうは、とっくに走るつもりでいる。
膝もかかとも、爆ぜる前の形。ももの裏には、もう地面を蹴る重さ。
首が、道の続くほうを探しかける。逃げ足というのは、話を最後まで聞いたためしがない。
足のほうは、まだ土の上だ。
いろと言われている。
俺は、そこにいる。
リゼットは、こっちの顔を見ていない。耳が、赤い。
顔のほうは、何ひとつ崩れていない。崩れているのは、そこ一か所だ。
こっちの顔がいまどうなっているかは、考えないことにする。考えなくても、ろくな顔ではない。
リゼットの頭は、こっちの肩より低い位置にある。近い。
近いのに、向こうからは何も言ってこない。こっちも、言うことを持っていない。
吸いかけた息が、喉の手前で止まっている。吐く先が見つからない。
待つ。
数字は、天井に張りついたままだ。
腹の中も、裏返る手前で止まっている。止まったまま、先へ進まない。
くしゃみが出かかって引っこんだときの顔を、俺はいま、全身でやっている。
出るなら出てほしい。出ないなら出ないと言ってほしい。どっちつかずが、いちばん体に悪い。
こっちは、散る準備だけ整えて、散りそびれている。
爆ぜるときは、いつも一瞬で済む。一瞬で済むはずのものが、まだ始まってもいない。
この呪いは、仕事だけは早かった。天井に着いたら、こっちの都合など訊かずに持っていく。
それが、今回に限ってやけに遅い。遅刻の癖があるとは、聞かされていない。
遅れているなら、いずれ来る。来たときに、ここに立っていればいい。
念のため、手のひらを見る。焦げてもいないし、光ってもいない。
煙も上がっていない。においもしない。
道の土が、靴の先で少し崩れた。ほかに、動くものが無い。
白い道の上で、爆ぜる前の男が一人、爆ぜないまま突っ立っている。はたから見れば、ただの薄着の男だ。
見ている人間が道にいないのが、せめてもの救いだ。
リゼットは、さっきと同じ近さにいる。離れていく気配も無い。
向こうも、何も言わない。言わないまま、そこから動かない。
膝も、かかとも、地面を蹴る手前で固まっている。出番だけが回ってこない。
こういうことは、決まりを持ってきた側に訊くのが早い。
その本人は、さっきから同じ場所に座っている。
訊く先は、ほかに無い。
「……おい。いつまで経っても、爆発しないんだが」
猫は、座ったまま言った。
「私は猫よ」
……猫に訊いた俺が悪かった。
訊き直す気にもならない。訊き直したら、同じ五文字が来るだけだ。
リゼットが、こっちの顔を見た。見たときには、もういつもの顔に戻っている。
戻っていないのは、さっきの一か所だけだ。
「では、更新の相談を」
白猫が、尻尾で俺の脛を叩いた。
充実度100%。
何も起きない。
「……今度は、値切らないでおく」




