ep068「最初の町へ戻った俺、町の全員に名前のほうで呼ばれたので爆ぜました」
夜明け前の街道で、荷馬車が止まった。
「ミツルさん」
知らない顔だ。
こっちへ、もう一歩来た。
歳は俺より上に見える。肩に袋をのせて、町のほうへ行くところらしい。用があって来たのではない。頼みごとも訊きたいことも持っていない。俺を見つけて、そう言った。
二度目は、なかった。
荷のほうも見なかった。中で何が寝ているのかも訊かない。焼けた上着を見ても、何か言うでもない。袖のことは口にしなかった。
返事を待つでもなく、袋を持ち直して前のほうへ行ってしまう。その影が、そのまま遠ざかっていく。追いかける理由も呼び止める理由も、こっちにはなかった。
誰だ、と訊けばよかったのかもしれない。
訊かなかった。
先に来たのは声で、顔はあとだった。
俺のほうは、まだ何も言っていない。こっちから名を出してもいない。こういうとき、返事のしかたを知らない。
呼び方だけが、先に俺のところへ着いていた。
充実度50%。
夜のあいだに冷えたものが、上着の袖から入ってくる。焼け残ったのは袖だけで、あとはとっくにない。指が、膝の上で一度だけ動いた。白い息が出て、すぐ消えた。
夜明け前の道は、まだ色がない。草も、荷馬車の板も、同じ灰色をしている。
隣で、リゼットが手綱を持ったまま前を見ている。
「……私は、来たことがありません」
それきり黙った。訊いてこなかったのは、リゼットも同じだ。誰です、とも、知り合いですか、とも言わない。
ほかに人はいない。両側の草が、露で重い。踏むと、靴の先だけが濡れる。
前のほうだけ、空が薄くなっている。低いところに屋根の影がいくつか集まっているのが見えた。こんな時刻のこんなところで、俺を知っている者が一人、通っていっただけだ。それだけのことが、まだ肩のあたりに残っている。
例の音は、まだ前のほうにある。近くもならなければ、遠くもならない。来た道は、もう見えない。
荷の奥で、兄は眠ったままだ。
足を踏み替える音がして、それきりになった。
息のたびに、馬の脇腹が動いている。
やがて日が出た。低いところの屋根が、順に色を持ちはじめる。さっきの袋は、もう見えなくなっていた。
道が少しずつ下って、両側の草が切れる。土の色が変わった。
俺が降りるより先に、白猫はもう地面にいた。降りてくる音も、その前置きもない。少し外を、同じ速さで来る。
「はじめに出たところから当たるの」
足元から、声だけが来る。
「……それで、ここなの」
何も訊かずに、そっちを見た。猫の言うことは、いつも用件だけだ。驚くところは、とっくに済んでいる。
ハゼルの門を入る。朝のうちの道は、まだ湿っている。どこかで、桶が鳴った。
入り口の内側で、荷を下ろしていた者が手を止めた。止めたまま、こっちを見ている。
左右から、人が出てくる。戸口が一つ空いて、その隣がまた空く。
「ミツルさん」
声のほうへ顔を上げた。
「ミツルさん」
反対の側からも来た。
「……ミツルさん」
早いうちの声は、よく通る。屋根と屋根の間で一度跳ねて、上のほうから降りてくる。降りてきた先に、俺がいる。
左側で、桶を持った者が立ち止まった。右のほうでも、誰かが立ち止まる。人の出てくるほうが、道の幅より早い。避けるところを探しているうちに、探すのをやめた。
どこかで窓が開いた。そっちを見る前に、声が来る。
「ミツルさん」
こんどは、少し遠くから来た。
通るぶんの隙間を、誰も空けようとしない。空けるより先に、こっちのいるあたりへ寄ってくる。肩と肩の間から手が出て、袖の端に触って、また引っこむ。押してくるものは一つもない。
人の足の間を、白猫が先に行く。誰にも踏まれない。
俺のほうは、まだ一度も口を開いていない。何も渡していないし、何もしていない。それでも、声のほうは止まらない。
門が、うしろになっていた。
充実度65%。
広場の手前に、荷馬車が置かれている。リゼットは、そこから先へ入ってこない。
広場に出た。人は、そのままついてきている。
真ん中から少し外れたところに、色の違う石が一枚ある。それだけだ。踏んで、通り過ぎた。
土のにおいが、少しだけ上がってくる。夜のうちに濡れたのかもしれない。
「ミツルさん」
「ミツルさん」
右で上げると、左から来る。左を見ると、うしろから来た。
「ミツルさん、ミツルさん」
足りている。もう、じゅうぶんに足りている。
いくつもの声が重なって、どれがどれだか分からなくなる。ひとつが終わる前に次が乗って、切れ目がなくなった。
水を汲む場所のほうから、桶を持ったままの者が来る。汲みかけの水が揺れて、土に落ちた。
「ミツルさん」
背丈より高いところからも来た。二階の窓が開いている。手が出ていて、それが振られている。
光がまだ低い。人の影が長いまま、こっちのほうへ重なってくる。
「ミツルさん」
「ミツルさん」
肩の高さに、手のひらが幾つも出ている。振っているのもあれば、こっちを指しているのもある。触れてくるのは、袖の端までだ。
どこの戸口も、閉まっているほうが少なくなった。早いうちなのに、道の端まで人がいる。
小さい者が前へ出てきて、口の形だけで同じことを言った。声は出ていない。それでも来た。
言い終えた者も、その場から動かない。前へも、うしろへも行かない。返事を待っている者は、いない。呼んで、そのまま俺を見ている。
人のいるほうが、じわりと近い。俺の立っている場所だけが、少しずつ狭くなる。
近いところと遠いところで、同じことを言っている。同じことを、違う声で言われ続けている。
うしろのほうは、まだ空いていた。
立ったまま、次の声へ顔を上げた。その次にも、上げた。
人の間から、荷馬車の輪郭が見えた。リゼットは、そこに立ったままだ。
少し外れたところで、白猫が座っている。口は開かない。
上着の袖しか残っていない腕を、下ろしたままにしておいた。
息を細く吐いた。吐いたぶんだけ、また入ってくる。
握った指が、自分では開かない。開かないまま、また来る。
「ミツルさん」
誰かの手が、肘のあたりに軽く触れて、すぐ引いた。引いたあとで、また名を言う声がした。
すぐ前の一人が、口を開けて息を吸った。吸って、また同じことを言う。
誰かが、俺の一歩前で立ち止まって、そのまま名を言った。言ってから、少し下がった。
一度だけ、目の高さで手を振り返した。振り返したら、そのぶんだけ大きく返ってきた。
汗が、こめかみから顎のほうへ落ちていく。落ちきる前に、また声が来た。
地面から、膝の裏を押されている感じがする。押されるたびに、どこかで一段ずつ上がっていく。
胸の奥が詰まってくる。顎の下まで、熱が上がってきた。指の先が痛い。上着の焦げた端が、指のあいだで音を立てた。
「ミツルさん」
「ミツルさん」
よりによって、こんなに素直な声で。
充実度100%。
閃光が、朝の色をいっぺんに消した。
地面が、下から一度突き上げてくる。
遅れて、轟音が来た。
充実度0%。
煙が引いた。
みんな、顔が黒くなっている。倒れている者は、一人もいない。
立てかけてあった箒が、先だけ消し炭になっていた。土のうえに、桶が倒れている。中身は、もうない。
上着の袖が、また短くなった。息を吸ったら、焼けたにおいがした。
黒くなった手が、腕のあたりを払っている。払ったところだけ、元の色が出た。隣の者の頭を、ついでのように払ってやっている手もある。
黒くなったのは、顔と手のところだけだ。服のほうは、それほどでもない。前のほうにいた者の髪の先が、少し縮れている。
誰かの前掛けの端が、まだ煙を出している。それを、隣にいた者が叩いて消した。
上のほうに、細かいものがまだ浮いている。光の中で、ゆっくり落ちてきた。風が一度通って、それを持っていった。
外へ出ていく足音がしない。戸口へ戻る足音も、しない。うしろへ下がる者がいない。
黒い顔の並びは、さっきより近い。
誰かが、隣の者に何か言った。言われたほうは首を横に振って、また俺を見た。
黒くなった手のひらを、こっちへ向けて見せてくる者がいる。見せて、それだけだ。
どこかで、また戸が開く音がした。開いたほうからも、人が出てくる。
「ミツルさん」
もう一度、来た。
人数が、減っていない。
覆いの端のほうだけ、焦げていた。
「……この布は、火に強いんです」
言ったのは、それだけだった。リゼットは荷馬車の脇から動かない。
足元で、白猫が一度だけ口を開いた。
「……ここからね」
帰る者が、いない。
黒い顔が、まだこっちを向いている。
充実度34%。
鳴りやんでいない音が、一つある。
「……次からは、ひとりずつでいい」




