ep067「俺の呪いは向こうの手続きの抜けから出ていたらしいと聞いて、うっかり前世の話までしてしまった」
音が、前のほうから来ている。
入れ替わったのは、こっちのほうだ。
「馬が、少し速いです」
荷馬車は、音の来るほうへ動いている。
リゼットは御者台にいる。速いと言ったきり、そのわけには触れない。
「……速いな」
言ってみたが、それだけだった。
白猫は荷の上にいる。兄は幌に入ったまま、まだ眠っている。
速いと言われたところで、俺にはその良し悪しが分からない。分からないまま、指で縁を叩いている。乾いた道に轍が二本、先のほうまで続いていて、その上を進んでいる。
横木に足をのせて座ると、揺れが膝から来る。その揺れの間隔が、いつもより詰まっている。詰まっているような気がするだけかもしれない。俺には比べるものがない。
俺は座っているだけだ。座っているだけなのに、草も石も後ろへ流れていく。足は一度も動かしていない。
袖しか残っていない上着が、風でめくれて腕に当たる。焦げた縁が指に引っかかる。引っかかるたびに糸が一本ずつ短くなって、そのぶんだけ縁の形が変わっていく。変わったところで誰も見ていない。新しいのを用意する話は、まだ一度も出ていない。
膝の横に荷の縄がある。足元の節がひとつ、目玉の形に見える。じっと見ていると瞬きしそうになるので、俺のほうが先に瞬きをした。二度目は負けないつもりでいた。二度目も俺が先だった。
風は弱い。草の穂は倒れたきり起き直らない。音はずっとある。
来た道のほうへ進んでいる。リゼットは前を向いている。白猫も口を開かない。さっき出した俺の声だけが、出て、消えた。
充実度51%。
日が高くなるころ、白猫が口を開いた。
「あのとき、手続きに空隙があったの」
揺れのせいで、声の頭が少し欠けて届いた。聞き覚えのない言い方だった。意味を取り直すより先に、次が来た。
「あなたの呪いは、そこから出た。……穴が空いていたのよ」
言葉が耳に入ってから、それが身体のどこかに届くまでに、少し間があった。その間に荷台が石をいくつか踏んだ。
穴。
そこから、俺の十四年ぶんが出ていた。
「案件が来たのは、それが見つかったから」
白猫が言ったのは、そこまでだった。言い足すつもりはないらしい。荷の上で前足を揃え直して、こちらを見てもいない。
止まらない。草も石も、さっきと変わらない速さで後ろへ流れていく。リゼットは前を向いている。
手続き、という言い方だけが妙に平たかった。平たいものの向こうで、何かがほんの少し欠けていた。欠けたところから出たものが、こっちで十四年ぶんの形になった。
十四年。長かったのか短かったのか、こうなってみると分からない。俺のところにだけ来なかったものが幾つかあって、その一つ一つに、こっちの落ち度があることになっていた。落ち度はあった。数えてきたし覚えてもいる。いまでも順に言える。順に言えるくらいこまかく数えたし、数えた側から数え直しもした。ただ、俺のぶんではなかった。
膝の上の手が、いつのまにか縄をつかんでいた。指の節が白い。ほどこうとしても開かない。奥歯が合わさって、その合わさり方が自分でも硬かった。
喉のところまで何かが上がってきて、そこで行き場をなくした。誰の名前も顔も浮かばない。浮かばないから、上がってきたものは上がってきたところに留まった。
俺は息を吸った。
吸ったぶんが、そのまま出た。
笑った。声が出た。腹の底が揺れて、揺れているのが道のせいなのか自分のせいなのか、途中で分からなくなった。肋のあたりが痛くなっても止まらない。俺の声だけが街道のほうへ散っていって、そのあとには何も残らなかった。
「……たいしたもんだ」
リゼットは振り向かない。
白猫はすぐには返さなかった。揺れが何度か膝を突き上げて、そのあいだ荷の上から音がしない。風が幌の縁を鳴らして、それも通り過ぎた。
「……そう」
白猫の返しは、それだけだった。足しも引きもしない。俺の出した声は、出したところで終わっていた。
充実度41%。
午後になっても、音はある。耳の底に居座っている。
俺は口を開いた。
「この縄、結び目がひとつだけ違うな。ほかは全部同じ形なのに、ここだけ二重に通してある」
音は小さくならない。
もう一度、口を開く。
「馬の尻尾ってのは、左右どっちに振るか決まってるもんだと思ってたんだ。ずっと見てるけど、全然決まってない」
やはり小さくならない。
うるさい。
気がつくと、俺はまだ喋っていた。
「雲がひとつだけ形を変えないで残ってる。ほかのは端から崩れていくのに、あれだけ居座ってる」
「石を踏むと、荷の左のほうが先に沈む。右は少し遅れて沈む。ずっとそうだ」
「帆布の縫い目、三針に一度だけ幅が広い。数えてたら途中で分からなくなった」
「道の右っかわだけ草が短い。刈った跡じゃないな。何かが通るたびに擦れてるんだ」
「靴の紐は左が先に緩む。右はほとんど緩まない。歩き方の癖らしいけど、直し方までは知らない」
「縄の色は日の当たるほうだけ薄い。裏に回してあるところは元のままだ。ほどいたら二色になるぞ」
「幌の匂いが朝と午後で違う。朝のほうが濃い。日が入ると抜けていくらしいな」
「空がやけに高い。高いってのも変な言い方だな。低いときの空を見たことがあるわけでもないのに」
リゼットは相槌を打たない。白猫はこの往復に入ってこない。そもそも往復になっていない。喋っているあいだも、音は減らない。
舌の付け根が乾いてきた。乾いても口は動いた。
「……あとな。俺の名前は、正しく読まれたことがない」
喉が少し掠れていた。
「十四年ぶんだ。訂正したこともある。その場では直るんだ。それきりで、次にはもう元に戻ってる。そのうち訂正するのをやめて、別の読みのほうで返事をするようにした。呼ばれてから振り向くまでに一拍いるんだ。自分のことだと分かるまでに、一拍」
喋りながら、荷の縄をつかんでいた。つかんだところから先が少しずつ冷えていく。
「書くほうも同じでな。渡した紙に振ってあるのは、いつも違う読みだった。二度目からは何も言わなかった。言わないでいると、そっちの読みで一年が終わるんだ。次の年もそのままだ」
「そうしてるうちに、俺のほうが間違ってることになってた。自分の名前なのにな」
言い終わっても、返ってくるものはなかった。返ってくるように喋ったのでもない。
昔の話だ。
昔の話を、俺は音の隙間に詰めた。詰めたそばから、隙間はまた空く。
充実度12%。
日が落ちる。
空の色が抜けていく。高いところがまだ明るくて、その明るさが少しずつ細くなる。星がひとつ出て、そのうちいくつになったか分からなくなった。
荷馬車は止まらない。リゼットは止めない。前を向いたまま、薄れていく先を見ている。進む調子は変わらない。
手綱を持つ手の位置が、朝から一度も変わっていない。膝の上の指だけが拍子を取るように動いている。動いていても、板に伝わってくる揺れの間隔は朝のままだ。
どこかで止めるものだとばかり思っていた。止まらないままで、道が黒くなった。
喋る中身が尽きた。俺は口を閉じた。
閉じても、音は小さくならない。
揺れだけが続いた。しばらくのあいだ、それだけだった。喉が渇いて、渇いたまま置いておいた。
リゼットが口を開いたのは、そのあとだ。
「尻尾は、虫のいるほうへ振ります。決めているのは虫です」
尻尾の話だった。俺が垂れ流したもののうちの、いちばん中身のないやつだ。
リゼットはそれきりだった。白猫も何も言わない。
声が出なかった。出す形のものが喉になかった。
一日ぶん喋って、拾われたのはそれだけだ。それだけが、拾われていた。
つかんでいた縄から指が一本ずつ離れた。離れたあとの手のひらに節の跡が残っている。跡は薄くなって、そのうち消えた。
リゼットは前を向いたままだ。振り向く気配もない。夜のほうへ入っていく道を、朝と同じ手つきで見ている。
俺は、板に寄りかかった。
充実度39%。
音は、小さくならないままだ。
喋っても、なくならないものがある。
「……そういうのなら、まだ幾つでもあるぞ。さっきのは軽いほうだ」




