ep066「猫の用件をひととおり聞いてやったのに、行き先だけは俺に決めさせてもらえなかった」
「――ミツルくん。ちょっと、いいかしら」
白猫が、荷の上にいた。呼んだきり、あとを続けない。
業務の声だ。
この猫が、用のほうから入ってきたことは、一度もない。
これまでは、こっちが口を開くより先に、向こうが喋り終わっていた。用があるのかないのかも分からないうちに話が始まって、終わったころにようやくこっちが追いつく。ずっとその調子で回ってきた。
朝いちばんに来るのは、たいていどうでもいい話だ。毛の話とか、日当たりの話とか、こっちが訊いてもいない誰かの都合とか。
それを聞き流しているうちに、本当の用が一つだけ混ざっている。取り出すのは、こっちの仕事だった。
車輪が小石を踏む。街道はまっすぐで、朝の光が荷の縁で切れている。
続きは、来ない。
待っていれば、そのうち何か落としてくる。そう決めて、気にしていないふりのまま数を数えた。十まで数えて、二十まで数えた。
落ちてこない。
荷はいつもの積み方で、減ったぶんも増えたぶんもない。街道の先には人の影も見えない。朝のうちに済ませることは、もう全部済んでいる。
焦げて袖しか残っていない上着の、その袖の端を引っぱってみる。誰も何も言わない。
「……なんだよ」
折れたのは、俺のほうだった。
「間宮充さん」
喉のところで、飲みかけていたものが止まった。
そこで、また切れた。さん付けのあとに続くはずのものが、いつまでも来ない。呼ばれた名だけが、宙に残っている。
その呼ばれ方を、前に一度だけ聞いたことがある。いつのことかも、そのあとに何を言われたかも、思い出さないことにした。
この世界で俺の名字を知っている生き物は、一つしかいない。その一つが、いま使った。
白猫は姿勢を変えていない。変わったのは声のほうだ。余計なものが、全部落ちている。
どうでもいい話が一つも挟まらないまま、呼ばれるほうが先に来た。
充実度40%。
リゼは御者台で、道の先へ顔をやったままだ。こっちの話には入ってこない。
幌に、兄が入ったまま眠っている。目を覚ます気配はない。
「昼に、どこかで止めてもらえるかしら。話があるの」
白猫はそれだけ言って、目を伏せた。
「止めます」
リゼの返事は短い。何の話かは訊かない。
何の話かを訊かずにいられるのは、たぶんリゼくらいだ。
呼ばれたのは俺で、返事をしていないのも俺だ。それで一つも困らないという顔のまま、道が後ろへ流れていく。
昼、荷馬車が街道の脇へ寄って、止まった。
白猫が荷から降りてきて、俺の正面に来た。リゼは少し離れて立っている。呼ばなければ、そのままだ。
「ミツルくんの呪いのことなの」
前置きは、それだけだった。
「……ああ」
「あれ、上ではひとつの案件になっているの。長いこと動いていなかったのだけれど、いま、動き出したわ」
案件。俺のことだ。
一行ぶんだけそう思って、そこで止まった。続きを言おうとすると、言葉のほうが引っこむ。
言い直しもなかった。言い方を選んだ様子もなかった。そこにある名を読むみたいに言って、それで終わっている。
「動かしているのは、私ではないわ。処理のほうは、もう始まっている」
「……そうか」
「私には、先に行くところがあるの。だから、その前に言っておく」
「…………」
「ミツルくんは、そのまま乗っていてくれればいいわ」
そのあと、猫は何も足さなかった。
言葉を切ったところで、こっちが何か言うのを待っている。待たれるほうに回るのは、あまりない。
用のほかに足すものが、一つもなかった。冗談も、余りも、いつもの寄り道もない。話がまっすぐ来て、まっすぐ終わる。
訊きたいことは口の中で形になりかけて、いくつか消えた。俺はうなずいたのかもしれない。うなずいた覚えもない。
昼の光が真上から落ちていて、影が足の下にしかない。
街道には、こっちのほかに人がいない。車輪の下で、草が潰れている。話が途切れると、あたりに何も残らなくなる。
その、何も残らないところで、音が一つ、大きくなった。
来た道のほうから来ている。車輪の音でも、蹄の音でもない。何の音なのかは、分からない。
「……分かった」
言えたのは、それだけだった。
俺が口を開いた途端、音はもとの大きさに落ちた。
口を閉じる。また大きくなる。風でもない。人でもない。こっちが喋らないでいるあいだだけ、その音は耳のところで太くなる。
もう一度何か言おうとして、やめておいた。
白猫は、音のほうについて何も言わない。用の話は終わったという顔で、荷のところへ戻っていく。
俺の呪いの話が、俺のいないところで、俺より先に進んでいた。
充実度25%。
また動き出した。
白猫は荷のあいだへ入って、出てこない。用が済んだ者の、引っこみ方だった。
午後の道は、朝と変わらない。同じ幅で、同じ色で、両側に同じような草が低く倒れている。景色で自分がどこにいるかを当てるのは、とっくにあきらめている。
聞いてない。この先どうするのかを、俺は一つも聞いていない。何があるのかも、いつまで乗っているのかも、俺の側には来ていない。
荷のほうへ声を出しかけて、やめた。出かかった声は、どこにも行かないまま口の中に残る。
それから、隣を見た。
リゼは道の先へ顔をやったままだ。荷が揺れるぶんだけ肩が動いて、あとは動かない。
「リゼ」
「はい」
「……あの猫が先に行くところに、こっちも行ったほうがいいと思うか」
我ながら、間の抜けた訊き方だった。ここで深刻な顔をすると、たいてい、あとで自分が困る。
間が、少しだけあった。
車輪が、小石を一つ踏む。
「そうします」
それだけだった。
どこへ、とも訊かれない。なぜ、とも訊かれない。
訊き返されるものだと思っていた。説明のつもりで用意していたものが、そっくり余った。
リゼは、俺が言い足すのを待つでもない。前と変わらない姿勢で、そのまま進めている。
馬の足並みも変わらない。返事を待つ格好でいるのは、俺だけだ。
充実度45%。
荷のあいだから、声だけが来た。
「ハゼル」
白猫は顔を出さない。名を一つ言って、それで終わりだった。
あの町か。
口の中でその名をもう一度言ってみる。それ以上のことは、何も起こらなかった。胸のあたりで何かが動くとか、そういうのは一つもない。
名を聞いても、道が変わったようには見えない。両側の草も、車輪の音も、さっきまでと変わらない。ただ、この先にその名の町があるということだけが、俺の知らないところで先に済んでいる。
リゼは、その名を繰り返さない。荷のほうも静かなままだ。
何も足さないまま、道の色が変わって、日が傾いていく。
日が落ちるころ、止まった。
降りて、足を伸ばして、道の縁まで行って戻ってきた。それで、気づいた。
向きが、変わっている。
荷馬車の鼻先は、来たほうを指していた。朝からずっと同じ席に座っていたはずなのに、その覚えがない。
そのことに触れる者はいない。リゼは道の縁で夜のぶんの支度をしているし、白猫は荷のところにいる。どちらも、言い出さない。
俺は板の端に座って、指の関節を鳴らした。それで何かが済むわけでもなかった。
景色は、来たときと変わらない。石の転がり方も、両側の草の高さも、行きに見たままだ。
「そういえば」
白猫が言った。用の話が全部済んだあとに、ついでを一つ足すような出し方だった。
「上のほうでは、ミツルくんの名前だけは通っているらしいわよ」
持ち上げる声ではない。事実を一つ足しただけの声だ。どこの上なのかは、言わなかった。
名前だけ、というところが、たぶん合っている。俺は返事をしなかった。しなくても、この猫は困らない。
夜のぶんの支度が済むと、あたりで動くものが一つもなくなる。
引き返すのだと、誰かが言ったわけでもない。それでも、道はそちらへ延びている。俺は誰にも頼まれていないし、誰にも止められていない。
日が完全に落ちて、道の先が見えなくなった。それでも、道があることは分かる。
充実度59%。
こっちも猫も何も言わないでいるあいだ、来た道のほうの音が、大きくなる。
俺は、いつそうなったのかを見ていない。
白猫が、荷の上でこちらへ背を向けた。
「……別に、戻りたくないわけじゃないからな。俺は」




