ep065「猫にはぐらかされたので、もう一度だけ訊いた。今度は、はぐらかしてもくれなかった」
板を踏む音が、いつもの半分になっている。
馬を歩かせる合図も、短くなった。
勝手に、そうなっている。
四人ぶんの音は、しない。
いつもなら幌をくぐらせて内へ入れておく物が、みんな外に出ていた。水の革袋。丸めた敷物。縄の束。
御者台の足元と板の上に、順番だけは守って積んである。
俺が座れるのは、その隙間だけだ。膝を折って体を押し込むと、板が一度きしんだ。鳴らない座り方が一つだけあって、そこから動けなくなる。
人類最強の肉体が、革袋と縄の束に挟まって、息の音まで小さくしている。
道が下るところで、革袋が滑りかけた。膝で止めた。止めてから、止めた音のほうが大きかったことに気がつく。
敷物は、丸めた端が外へ落ちかけていた。落ちる前に寄せておく。寄せる音も、なるべく短く済ませる。
揺れが来るたび、縄の束が鳴りかける。鳴る前に、片方の脚で挟む。挟んでいるあいだは、こっちが動けない。
革袋が傾いたら直す。俺の持ち場は、それくらいのものだ。誰かに割り振られたわけではない。
リゼは前を向いている。こちらを見ない。
朝から背中の角度も座り方も変えないままだ。声で出していた合図をやめて、短い音だけで進ませている。
はじめのころは、声で呼んでいた。呼ばなくても進むと分かってから、呼ばなくなった。その音も、いまはさらに短い。短くしていることを、こちらには言ってこない。
白猫は轅に乗っていた。体を丸めたきり、道の埃が背に落ちても払わない。ふだんなら、この揺れ方で文句の一つも出るところだ。出てこない。
道は平らなところを選んで進んでいる。轍の浅いほうへ浅いほうへと寄っていくのが、座っているだけで分かる。石を踏んだのは、まだ一度もない。
内からは、何も伝わってこない。眠っている人が、そこにいるだけだ。
膝がしびれてきた。位置を変えたいが、変えると鳴る。しびれたままでいることにした。
そうしろとは、まだ誰にも言われていない。
充実度43%。
昼、リゼが道の脇へ寄せた。
「すこし、待ってください」
理由は言わない。俺も訊かない。
リゼが降りて、馬のほうへ回った。蹄の裏をのぞく。ゆるんだ縄を締めていく。
順番が決まっているのが、見ていれば分かる。その順番のどこにも、俺が入っていける隙がない。
仕事はある。全部リゼの仕事だ。俺の力が要る種類のものが、その中に一つもない。
要らない。
倒れた木でも道をふさいでいれば、片づけてみせるところだった。道の先まで見たが、そんなものはない。
向こうから来た旅の者が一人、外へ出た荷の積み方をちらりと見て、何も言わずに行った。俺のほうは見もしなかった。
水を汲んでくる、と言おうとした。革袋を抱えてみたら、まだ満ちている。言わずにそのままにした。
積み直しましょうか、とも言いかけた。言えば余計になるだけだと、口を開く前に分かる。
しゃがんで小石を一つ拾って、投げた。飛びすぎて、どこへ落ちたのか分からなくなる。もう拾わないことにした。
リゼが向こう側へ回って、見えなくなった。
あたりに人はいない。白猫はこちらを見ていない。それを確かめてから、幌に指をかけた。
すこしめくって、内をのぞく。
リゼの兄が、そのままの向きで横になっている。荷を外へ出したぶんの隙間に、体ひとつがちょうど収まっていた。
顔だけが、道の側を向いている。
起きている顔を見たことがない。だから、似ているのかどうかも分からない。
名前を知らない。呼びようがないから、そう呼ぶことにした。
「あんた」
届く程度の声にする。それ以上は出さない。
「いま起きたら、道が平らでちょうどいいぞ。揺れないうちだ」
返ってこない。
瞬きひとつない。まぶたの縁は、さっきのままだった。
もう一度呼ぼうとして、やめた。
充実度32%。
めくった分を、元へ引いた。
轅の白猫は、こちらを向いていない。人がのぞき込んでいるところを見て、何も言わずにいる猫ではないはずだ。ここで何も来ないのは、勝手が違う。
向いている先に、リゼがいる。
そのリゼが幌をめくり、内へ入っていった。
俺は道の側に立っている。めくれた隙間ごしに、内側で動くのが見えた。
その動きが、一度だけ止まった。リゼの横顔が、御者台のほうへ向いた。
白猫は、同じほうを向いたままでいる。
しばらくして、リゼが出てきた。中でしたことは言わない。俺も訊かない。
荷馬車が動き出した。
外へ出した荷は、動き出すと座りが悪い。革袋が一つ倒れて、俺がそれを立て直す。立て直したところで、また倒れる。
白猫が轅から荷の縁へ来て、縄の束の上へ乗った。俺の膝から、猫一匹ぶんのところだ。
「この人、起きるのか」
前を見たまま訊いた。
白猫は前足の先を舐めてから、顔をこちらへ向けた。
「そういう話をされるとねえ、私、思い出しちゃうのよ。向こうで抱えていた仕事。押印だけで山が二つあったの。一枚ごとに、一つずつ」
尻尾の先をひとつ振って、続ける。
「しまいには感覚がなくなってね。押した先から、どれを押したのか分からなくなるのよ。それでも山は減らないの。減らないのよ、あれ」
「その前足で押すのか」
「肉球よ。あれ、向いてるの。人の指より均一に付くんだから」
「重ねて押したらどうなるんだ」
「上のは付くわ。下のは付かない。三枚目からは、もう駄目」
俺は身を寄せて、猫の前足の裏を見ようとしていた。桃色の粒が四つと、大きいのが一つ。
押したら形が残るのかどうかを、しばらく真面目に考えている。三枚目から駄目になる理由まで、聞く気になっていた。
その前足は、思っていたより小さい。これで山を二つ片づけたという話を、疑う気にもならない。
戻す。
寄せた身を引いて、同じことを訊いた。
「この人、起きるのか」
言い方も声の大きさも、さっきと変えない。同じ言葉を、そのままもう一度言っただけだ。
山の話は、まだ途中だった。途中で止めたのは、俺のほうだ。
いつもなら、ここで二言か三言、こちらの都合の悪いところを突いてくる。それが来ない。
白猫は、こちらを見ている。前足の位置が変わらない。尻尾の先も、そのままだ。
目が、ゆっくり閉じて、また開いた。
それだけだった。
開いたあとも、前足はそこにある。爪も出ていない。前足のあいだに顎を乗せることもしない。ただ、こちらを見ている。
返ってくるものがあれば、こっちも次を用意した。用意する先がない。
道が曲がって、荷が反対へ寄った。猫の体もそっちへ流れて、また戻ってくる。そのあいだも、何も起きない。
リゼは前を向いている。こちらを見ない。
この猫は、二度目には何も言わない。
分かったのは、そこまでだ。
日が沈みかけたところで、道の端に寄せて止まった。
止めたところは、道からたいして外れていない。よけて通れる幅は残っているが、通る者もいない。
いつもの音がしている。
その中に、一つ多い。
寝息が一つ、いつもの音に混ざっている。
聞かせるつもりで出している音ではない。だからよけいに、耳のほうがそっちへ行く。
荷は外へ出したままだ。もう内へは戻さない。俺は、その間に座っている。座り慣れてきた自分に、腹が立つほどでもない。
膝を伸ばした。しびれはとうに抜けている。
暗くなると、道の先はすぐ分からなくなる。分からなくなっても、こちらから言うことは何もない。
リゼは、止めてすぐに内へ入っていった。白猫は荷の縁にいて、前足を伸ばしてから、また折りたたんだ。
午後のことは、一度も口にしない。俺のほうから出す気もない。
訊いたことだけが、まだ宙に残っている。返事の来なかったぶんだけ、始末が悪い。
猫のほうからは、それきり何も来ない。
リゼが、裾を内から引いた。
裾が下りて、内側が見えなくなった。
充実度54%。
「……いまのは、訊かなかったことにしてくれ」




