ep064「棚から人をひとり担ぎ出しても、俺のぶんの場所は空いたままだった」
朝、リゼが戻っていた。
どこから戻ったのかは訊かなかった。
言わない人だ。
「あの家に、兄がいます」
荷の紐を締めながら、そう言った。
結び目を確かめる指が止まらない。こちらを見てもいない。
言い方は、荷が一つ増えます、と言うのと変わらなかった。
「置いたのは、わたしです」
紐の端を一度だけ引いて、次の結び目へ移る。
「この入れ物も、そのときに、あの家でいただきました」
荷の隅から、黒いものの角がのぞいていた。
布のかぶせ方も、いつもと同じだ。
三つとも続けて言われた。区切りも、ためらいもなかった。
俺は、そうか、とも言わなかった。
訊きたいことは、喉のところまで来ていた。
先頭の一つを出せば、うしろに並んでいるぶんまで、まとめて出ていく。
出ていったあとにこの人が何を言うのかは、俺の側では決められない。
順番のまま、置いておいた。
舌の裏に一度あてて、飲みこむ。息が、そのぶんだけ長くなる。
黙っているぶんには、間違えようがない。
馬が首を振って、鼻を鳴らす。
充実度27%。
フェリ課長が轅の上で寝返りを打った。
「起案は、そっちだったのねえ」
起案て。
リゼは馬を車につないだ。
車止めを外して、御者台の板を一度だけ叩く。
通りに置いていくものだと思っていた。そうしなかった。
俺も、そこは訊かないでおいた。
荷馬車が通りを出た。声をかけていく先はない。
リゼは馬の脇を歩き、俺はその後ろを歩いた。
猫は轅の上で丸くなって、揺れるたびに尻尾の先だけを動かしている。
畑の縁が終わると、道は草ばかりになる。
車が土を踏む音が足される。板のきしむ音も足される。
歩幅を車に合わせると、片足ぶんだけ短くなる。
その短いのが続くと、腿の前のほうが先に張ってくる。
馬の首が下がるたび、車輪が半回りぶん遅れて追いついてきた。
それでも、下のほうの音は変わらない。
こちらの音が増えても、そちらは細くならない。
押されて引っこむということがない。
この道を車で来るのは初めてで、そのぶん進みが遅い。
車を置いていくという話は、朝から一度も出ていない。
遅ければ、あれを聞いている時間が長くなるというだけのことだ。
道の終わりに、あの家がある。
戸口の脇に、布をかぶせた物が置いてあった。
俺は、それがなんなのかを訊かなかった。
リゼも、そちらを見なかった。
馬が止まる。
戸が、内側から開いた。
男が出てきた。上着の襟の合わせ方まで、いつもと同じだった。
リゼが、馬の脇から前へ出た。
「兄を、引き取りに参りました」
声は高くならない。早くもならなかった。
この人がこの男に用を言うのを、俺はそこで聞いた。
イーノは驚かなかった。
断りもしない。もったいぶりもしない。
「かしこまりました」
そして、いつもの間で続けた。
「お一つお出しするには、お一つ、お入れいただくことになっております」
畑の話をするときと、口の動きが同じだった。
交換のつもりでいるらしい。
棚は減らない。この家の作法は、たぶんそれだけだ。
入れるものを持ってきていない、という話でもないのだろう。
持ってきていないなら、いまここにいるどれかが入る。
リゼは、それを聞いても動かなかった。
驚いてもいないし、困ってもいない。
ここへ来る前から、その一言を知っていた顔だった。
男は、それから俺のほうを見た。
「あなたのぶんの場所は、空けてございます」
一度だけ言って、それきりだった。
俺は戸の内側へ足を入れた。
男は退かなかったが、行くなとも言わなかった。
奥は、光が入っていない。
外の明るさが届くのは、板の一段目までだ。
手の届く高さのところに、布をかぶせたものが並んでいる。
その先は、暗さの続き方で、まだあるらしいと知れるだけだった。
目が慣れるのを待っていては、待っているだけになる。
板の縁に指をあてて、並びの端から、位置だけを拾っていった。
丸いものがある。次のは、角が立っていた。
布の張り方が浅くて、下に何も入っていないところもあった。
指の先が、途中から、急に長いものをたどりはじめる。
並んでいるうちの一つだけ、形が長い。
布のほうが先に手に当たって、それから、その下のものに当たった。
布ごしに、肩の丸みがあった。上着の縫い目が、指の下で一度だけ引っかかる。
思っていたより、形が小さい。肩のあたりの幅が、俺の腕で足りる。
板の縁が、袖の途中でつかえた。
肘を内側へ入れて、袖ごと胸のほうへ寄せる。角度を変える。
板から外へ出すのに、二度、置き直した。
二度目は、腕を回してから、ゆっくり引いた。
足のほうが先に外へ出た。
戸口の光のところまで来て、顔が見えた。
目は閉じている。ひらく気配もない。
睫毛のところに、板の埃が薄くのっていた。
上着の胸のあたりが、ゆっくり動いていた。
眠っているだけの顔だ。それ以上のことは、俺には分からない。
棚は、そのぶんだけ空いた。
人ひとりぶんの、細長い暗さが板の上に残っている。
空いたところへ、俺は何も置かなかった。
「では、私が」
リゼが言いかけた。
言い終わる前に、俺は外へ出ていた。
理由は言わなかったし、訊かれもしなかった。
男は止めなかった。
板の前に立ったまま、こちらの背中を見ている。声も出さない。
掴みかかるでもない。この男は、そういうことをしない。
リゼが幌をめくった。
内側には、何も入っていない。
荷台の板に寝かせて、布はそのままにしておいた。
リゼが荷台の縁に指を置いて、こちらを見た。
その顔が、俺の目の高さで止まる。
いつもより、たぶん少しだけ低いところだった。
「……ありがとうございます」
充実度99%。
言うことは、あった。
いえ、とか。べつに、とか。そのくらいのものだ。
口の形まではできていた。息も、そこまで来ていた。
出さなかった。
首の後ろが、内側から押されるみたいに熱い。
どこまで押されているのかは、確かめないでおいた。
俺は口を閉じたままでいた。
鼻から息を出す。それだけにした。
家のほうから、音は来ている。
重なりの端が、一つだけ変わっていた。
どこがどう変わったのかは、俺には言えない。
男も、そこは言わない。
道へ出る。数字は下がっていない。
荷馬車は、来たときより遅い。
うしろで足音がした。
追ってくる。
走ってはいない。急いでもいない。
通りで畑の話をしているときと、同じ歩き方だった。
「お返しいただけませんか。そのままでは、あの方は、どこにも置いていただけません」
声は、はじめから終わりまで同じ高さだった。
本気で言っている。それだけは分かる。
朝から喉のところに置いてあったものが、順番に一つずつ落ちていった。
落ちきったあとに、一つだけ残った。
息を吸う。
「……いえ。俺のぶんは、空けといてもらわなくて、いいです」
言い終わってから、自分の声が思っていたより低いところに出たと知った。
男が、そこで少しだけ黙った。
黙っているあいだ、道の草が鳴っていた。
こちらとの間は、詰まりもしないし、開きもしない。
上着の襟の合わせは、朝、戸口で見たときと同じままだった。
俺はリゼのほうへ、先へ行けという顔をした。
板がきしんで、荷馬車が遠ざかっていく。
家は、もう道の向こうの小さい四角だ。
棚のあるところまでは、ここからでは届かない。
俺は道の真ん中に立って、待った。
男が近づいてくる。俺は動かない。
腹の底が熱くなる。
「――爆ぜろ、俺」
充実度0%。
白い光が先に来た。土が跳ねて、草が寝る。
男は道の脇まで飛んで、そこで仰向けになった。
顔が煤で黒い。白目をむいている。上着から煙が出ている。
俺はそれ以上見なかった。
草の上から道へ戻って、荷馬車のほうへ歩いた。
荷台の縁に、猫が移っていた。
眠っている人のそばで丸くなって、そのまま動かない。
一言もない。
充実度7%。
町を出るところで、脇に娘が並んだ。
荷馬車は止まらない。娘は数歩だけ、車と同じ速さで歩いた。
言ったのは俺にではなかった。リゼのほうへ、短く何か言った。
板のきしむ音で、こちらまでは来ない。
リゼが一度だけうなずいて、娘は後ろへ離れていった。
止まる者はいなかった。
俺は御者台の脇まで来た。
隣が、空いている。
幌の内で、布のこすれる音がした。
馬が首を振る。板が一度きしんで、また止まる。
俺はなんとなく、焦げた袖のあたりを見た。
煤が乾いていて、指で払うと粉になって落ちた。
リゼが、こちらの座るぶんだけ、横へ寄った。
道の先に、荷を提げた者が一人立っている。
その人は、こちらを見なかった。町の外れのほうを見ている。
立っているだけで、こちらが通り過ぎるのを待っているのでもない。
荷馬車がその脇を抜けても、向きは変わらなかった。
充実度20%。
「……あんたの妹、起きたら、うるさいぞ」




