ep063「棚の音のことを訊いたら、呪いをしまう男は俺のぶんも空いていると言った」
猫が、御者台のところに一匹でいた。
「稟議は、通ったみたいよ」
何の稟議だ。
リゼが、どこにもいない。
フェリ課長は前足を舐めるのをやめない。
どこで何が通ったのか、その先は一言もない。
「あの、リゼは」
猫は答えなかった。
耳の先だけがこちらへ向いて、それきりだ。
舐め終えたはずの前足を、また同じところから舐めはじめた。
朝の光が御者台の板を白くしている。
いつも先に腰を落ち着けているほうの端に、誰もいない。
荷台の陰をのぞいてみたが、そこには影しかなかった。
馬は馬で、足元の草を食べている。こちらの都合とは関係がない。
起きるのが先なのは、たいていリゼのほうだ。
その先が、今朝はない。
俺は御者台の端に座った。板は朝のうちだけ冷たい。
そのまま少し待ってみたが、道のどちらからも足音は来なかった。
充実度8%。
数字のほうが先に動いた。
俺の顔は、まだそういう顔になっていなかったと思う。
通りのほうへ歩いた。
戸を開ける音。水を使う音。鍋の底をこする音。
どれも、その家のところでだけ鳴って、通り過ぎれば消える。
町の音は一歩ごとに入れ替わっていくのに、あの音だけが入れ替わらない。
低くて、細くて、耳のうしろのあたりに残る。
軒の下で、女が一人、糸を繕っていた。
その横を、荷を抱えた子どもが走り抜けていく。
道端では、腰の曲がった女が、隣の家の者に話していた。
「先だって、置きに行ってきましてね。それきり、なんともないんです」
「そうですか。なによりで」
俺は何も言わなかった。
足も止めなかった。
二人の声は、そのまま背中のほうへ流れていった。
少し行った先の家でも、似たような話をしている。
置きに行った、もうなんともない、それだけの話だ。
この町でいちばん多いのが、その話らしい。
その話をする声には、湿ったところがない。何かを訴える声ではない。
道のほうへ足を向ける。
どこへ行くとも、誰にも言わない。
猫が荷台から降りてきて、俺の脇を歩き出した。
リゼのことは、やはり何も言わない。
畑の縁が終わって、あとは道と草ばかりになる。
この道を歩くのは、これで何度目かになる。
曲がるところも、途中の石の並びも、もう覚えてしまった。
覚えたからといって、道が短くなるわけでもない。
猫は俺より先を歩いたり、草に入って見えなくなったりした。
日は高い。歩くたびに、草の匂いが立つ。
途中で、道の脇の草が踏まれているのに気づいた。
俺のより小さい歩幅で、まっすぐに、道の終わりのほうを向いている。
猫は、そこを見もしなかった。
道の終わりに、あの家がある。
屋根の草が、風の来る側にだけ寝ている。
戸口の脇には、何も置いていない。
板の色と、土と、それだけだ。
その脇に、リゼが立っていた。
来てる。
いつからそこにいるのかは分からない。
訊かなかった。
リゼも何も言わない。こちらを見て、目の高さがすこし動いて、それだけだった。
充実度32%。
俺は口を開こうとして、何を訊くのが正しいのか分からなくなって、やめた。
どうしてここにいるのか、いつ出たのか、その辺りのことは全部あとでいい気がした。
俺は、リゼの二歩ぶんうしろに立った。
リゼの顔は、いつもの顔だった。息が上がっている様子もない。
ずいぶん前からここにいたのかもしれないし、ついさっき着いたのかもしれない。
どちらでも同じことだ、という顔で、リゼは戸のほうを見ていた。
戸の向こうから、あの音が来ている。板の内側だ。
ここまで来て、初めて出どころがはっきりする。
猫は俺の足元ではなく、リゼの足元で座った。
誰も口をきかない。風が草を撫でる音だけがしている。
戸が開く。
出てきたのはイーノで、こちらを見ても顔つきは何も動かなかった。
来ると思っていたとも、来ないと思っていたとも言わない。
こちらから挨拶を言う間もなかった。
そして、こちらが黙ったところから、そのまま続けた。
「お預かりしたものは、置いて終いというわけでもございません。まず、こちらであたってみます。うまく参りますものは、それで済みます」
「置きに来られる方は、中のことを、お訊きになりません」
間の取り方に、迷いがない。
こちらの返事を待つ気配もない。
俺の口からは、なるほど、みたいな音しか出なかった。
戸は開いたままだ。
内側は、外の光が入るぶんだけ明るくて、その先が急に暗くなる。
明るいところと暗いところの境目に、棚の端が見えている。
板が何段か、上へ続いている。どこで終わるのかは、光が届いていないので見えない。
その奥にも同じものがあるのは、暗さの続き方で知れた。
俺は中へは入らない。入っていいと言われてもいない。
男は、そこまでを一続きに言った。言い直しもない。
そして、そこで一度切れた。
次の言葉が来ない。
いつもなら、こちらが黙っていても、すぐ次が来る。
その次が、来ない。
草の音が二回した。
切れたところが、いつもより長い。
その間に、戸の向こうにあった音が、前へ出てきた。
あれ。
「あの音、なんなんですか」
訊いてから、訊いたのが自分だと分かった。
ずっと訊かないままにしていたほうだ。
男はこちらを見た。声の高さは、さっきと同じだった。
「棚のほうで、鳴っております」
指も動かさずに、家の奥のほうへ顎を向ける。
それだけでは、見当がつかない。
分からないという顔をしていたのだと思う。男は続けた。
「眠っておられる方です」
風が草を鳴らした。
言葉の意味は分かる。
分かるのに、それがどこにも入っていかない。
「解けないときは、解きません。ですから、かかっておられる方ごと、眠っていただいて、こちらで」
謝りもしない。誇りもしない。
畑の話をするときと、口の動きが同じだった。
声の高さも、はじめから終わりまで変わらなかった。
音のほうを、もう一度聞いた。
一つの音だと思って聞いていたものが、そう聞こえなくなっていた。
前へ出るものがあって、少し遅れて来るものがある。
重なりの端が、どこも合っていない。
いままでは、一本の細い音だと思っていた。
そう聞くようにしていただけだったのかもしれない。
いくつあるのかは分からない。
男も、そこは言わない。
棚のほうから来ているのは分かる。それ以上は分からない。
俺は何も返せなかった。
喉のところまでは何か来ているのに、形にならない。
返す言葉が、口のどこにもなかった。
リゼは動かない。何も訊かない。
猫も、草の上で座ったままだ。
男は、こちらの返事を待っていたわけでもないという間で、言った。
「あなたのぶんも、場所は空いております」
空いてる。
充実度98%。
リゼが、戸のほうを見たまま言った。
「……先に、戻っていてください」
声は、いつもと同じ高さだった。早くもならない。
俺の中の数字は、まだ下がっていない。
このままここにいると、この家ごと持っていく。
俺は道へ出た。
歩幅が二つ目で速くなって、三つ目からは走りになっていた。
背中のほうで、誰も何も言わない。
走りながら、うしろは見なかった。
見ないほうがいいというのでもなく、ただ、道が前にしかなかった。
草の丈が、行きより高く見えた。
道を外れる。
畑の手前まで来たところで、腹の底から来た。
白い光が先に来て、音があとから来る。俺は草の上を二回転がって、空を見た。
充実度0%。
耳の中で、しばらく何も鳴らなかった。
やがて、草の擦れる音と、遠くのほうの音が戻ってきた。
起き上がって、道の終わりのほうを見る。
家の前に、まだ二人が立っていた。
リゼの立っている場所は、さっきと同じだ。半歩も動いていない。
男のほうがこちらを見ていたかどうかは、この距離では判じようがない。
影が、来たときより長くなっている。
俺は呼ばなかった。戻りもしなかった。
服の裾が焦げている。膝から下が煤で黒い。
草を払って、畑のあいだの道を、今度は歩いて戻った。
通りの入り口で、子どもが二人、こちらを見て笑った。
服から煙のにおいがするせいだろう。
すれ違った男は、鼻をひくつかせて、それだけだった。
誰も、どこで爆ぜたのかを訊かない。この町では、それも訊かないものらしい。
通りには、朝と同じ音がしている。
戸を開ける音。水を使う音。
その底に、あの音がある。
もう、一つには聞こえない。
畑のほうから、娘が歩いてくる。手には何も持っていない。
ミツルの前で、足が止まる。
「あんた、どうやって戻ってきたんですか」
充実度6%。
「わたしのは、解けましたので」
解けたから、戻ってこられた。
娘は、町のほうへ歩いていく。
「……よかったですね。解けて」




