ep061「頼まれて呪いを見に行けば、引き受ける男は俺の呪いだけ欲しがらなかった」
「ついででかまいませんから」
娘はそう言って、桶を持ち直した。
用の中身は、まだ半分も聞いていない。
なのに、体のほうが通りの先を向いていた。
娘のほうは、その話をもうしていない。
朝の井戸には人が来ていて、汲んだ者から順に散っていく。
娘は列の外に立ったまま、こちらを見ていた。
「旅の方は、町の外れのほうへ行かれますか」
「行くかもしれないし、行かないかもしれないです」
「行かれるなら」
そこで一度、言葉を切った。切って、また汲みはじめる。
「わたしが置いてきたやつが、まだそこにあるかどうか。見てきてもらえませんか」
置いてきたやつ、と言った。それ以上の言い方をしない。
なぜ気になるのかも、なぜ自分で行かないのかも言わない。
深刻な顔をしていない。困ってもいない。
桶の水がこぼれないように腰をひねる、その動きのついでみたいな頼み方だった。
「ついででかまいませんから」
二度目だ。
人に何かを頼まれるのは、久しぶりだった。
だいたいはこっちから出ていって、いいですよ俺がやりますよと言う側だ。
そこから丁重に遠慮される。断られるところまでが決まりになっている。
今回は、向こうから来た。
言った本人は、もう次の水のことを考えている顔だ。
俺はまだ、返事をしていない。
なのに、もう半分そっちを向いて立っている。
娘は汲み終えて、額を腕で拭いた。
返事を待っている顔でもない。待っていないのに、言ったことを取り消しもしない。
荷馬車のそばにリゼが立っている。幌はそのままだ。
荷の上で、白い猫が前足に顎をのせていた。目は開いている。
開いているだけで、何も言わない。
充実度54%。
どこかで、あの音がしている。止む気配がない。
通りの誰も、そちらを見ない。
荷馬車は通りに置いたままにした。
リゼは何も言わずに歩き出して、俺の半歩うしろについた。
なぜ来るのかは訊かなかった。訊く前に、二人とももう歩いていた。
持っていくものは何も無い。上着一枚で、背中側は布と呼べるかどうかというところだ。
それで困ることも、いまのところ何も無い。
人の通りが減っていく。水を撒いた土の匂いが薄くなって、草の匂いに変わる。
畑が、途中でなくなった。
そこから先は、道と草しかない。
「この道で合っていますか」
「合ってるんじゃないか。たぶん」
リゼはうなずいて、それきり黙った。
音のほうへ歩いているはずなのに、耳の感じが変わらない。
遠くで鳴っているのか、すぐそこなのか、はっきりしない。
猫はリゼの肩に乗っている。乗ったまま、同じほうへ鼻先を向けていた。
途中から、道が細くなった。両側だけ草が低い。誰かが通っているということだ。
その誰かの姿は、一人も見えない。
道の終わりに、家が一軒ある。
戸は、開いていない。
声を出す前に、戸が開いた。
出てきたのは、四十くらいの男だった。
痩せている。着ているものは古いが、汚れていない。
襟も袖も、きちんと合わせてある。
こちらを見て、少し首を傾ける。
「どちらさまで」
「あ、どうも。町のほうから来まして」
「……もう一度、よろしいですか」
声が小さい。こちらが半歩近づかないと、聞き取るのに苦労する。
「町のほうから、来ました」
「はい」
それで納得したらしい。いぶかりもしない。
「あの、失礼ですけど、お名前は」
「イーノです」
訊いたら、返ってきた。それだけだった。
隠しもしないし、もったいぶりもしない。
この町へ来てから、人の名前が出てきたのは初めてだ。
「イーノ、さん」
「はい」
指の節が割れて、白く粉を吹いている。手が荒れていた。
それ以外は清潔な男だ。爪も短く切ってある。
「あの、イーノさん。町の人に頼まれまして。置いてきたやつが、まだあるかどうか、見てきてほしいって」
「はい」
「井戸のところで、水を汲んでる人です」
「ああ」
それで通じた。誰のことかも、何のことかも、訊き返されない。
「呪いを引き受けてるってのは、あんたのことですよね」
「そう言われています」
偉ぶりもしないし、隠したそうでもない。声はやはり小さいままだ。
「あなたは、旅の方ですか」
「まあ、そんなとこです。俺、『自爆魔道士』って呼ばれてまして」
「じばく、まどうし」
言い直した。言い直して、そのまま黙って続きを待っている。
ここで椀は出てこない。感心もされない。首も傾げられない。
待たれている。
だから喋った。
爆ぜること。爆ぜるたびに上着が焦げること。
呼び名のほうだけが先に広まって、実物を見た者はたいてい逃げていくこと。
「それは、ご自分でつけた呼び名ですか」
「人が言い出したやつです」
「なるほど。ご自分でつけたにしては、格好がついていませんから」
合っている。悔しいくらい合っている。
「そうなんですよ。俺がつけるなら、もっとこう、ちゃんとしたのを」
「たとえば」
「……やっぱりいいです」
相槌が、当たっている。
こちらが言ったところに返ってきて、返ってきたところから、また喋れる。
気がつくと、旅の話をしていた。
どこを通ってきたか、道で何をやってきたか、何をやりそこねたか。
「それは、大変でしたね」
「大変でした」
「その、荷馬車の方とは、そこからずっと」
「ずっとです」
男は途中で切らない。戸の内へ引っ込みもしない。
こっちが息を継ぐと、そのぶんだけ待っている。
日が傾いていた。
充実度98%。
……この人、なんでこんなに話が通じるんだ。
「それで、その、頼まれたやつなんですけど。見せてもらうことって」
「それは、できません」
断るときも、調子が変わらない。
「置いていかれたものは、もう、その方のものではありません。人のものを、よその方にお見せするわけには」
謝らない。すみませんも、申し訳ないも言わない。
言っていることは通っている。俺が逆の立場でも、たぶん同じことを言う。
「じゃあ、あることはある、ってことでいいですか」
「わたしからは、何も」
「そうですよね」
悪いことを言われた気がしない。それが、いちばん困った。
リゼの肩の上で、猫が尻尾を一度振った。
「うちなら、そういうのは申請からよ」
男は猫のほうを見て、うなずいた。それだけだった。
「じゃあ、話が変わるんですけど」
「はい」
「俺のも、置いていけるもんなんですかね。これ」
上着の焦げたところを引っぱってみせる。
「引っぱると、破れます」
リゼが言った。それだけ言って、また黙る。
男は、俺の上着を見た。見て、目を戻した。
「そうですか」
断られていない。引き受けるという返事も無い。話をそらされたわけでもない。
ただ、その先が無い。
……欲しくないのか、これ。
これまでに、寄越せと言ってきた者がいた。近寄るなと言ってきた者もいた。
この人は、そのどちらでもない。
男が、リゼのほうを見た。
見たというより、リゼが抱えているもののあたりで目が一度止まった。それだけだ。
すぐに、また俺のほうを向いた。
ここまで来た。それでも音は、まだその向こうにある。
「では」
男は一度こちらへ会釈をして、戸の内へ入っていった。
戸は、また開いていない。
道を戻る。
早足にもならない。
数字は、さっきのままだ。
ここで一発いけば、いま出てきたばかりの家まで持っていく。置いていかれたものごとだ。
風は町のほうへ向いている。草は低い。土は乾いている。
位置の取りようなら、いくらでもある。
それでも、やれない。
リゼは前を歩いている。振り返らない。
猫はリゼの肩で丸くなって、こちらを見ていない。
「日が落ちる前に、戻れます」
リゼが前を向いたまま言った。それだけだった。
歩く。家が見えなくなる。草の丈が低くなって、また畑が出てくる。
肩越しに、三度だった。
前世で一度だけ、長く喋ったことがある。
そのあいだに、そいつは肩越しに三度、別のほうを見た。それでも俺は最後まで喋った。
充実度13%。
誰も何も言わなかった。言うようなことは、何も起きていない。
町の入口が見えてきた。中へは入らない。入ると、また椀が出る。
娘が井戸のそばにいた。桶を持って、こちらに気づいて足を止める。
「あー……行ってきました。道の終わりの、あの家のとこまで」
「はい」
「戸のところまでです。中は見てないんですけど」
あの音が、まだ鳴っている。離れてきたのに、遠くなっていない。
……持って帰るものが、何もない。
娘は、聞き終わる前に、もう井戸のほうを向いていた。
充実度13%。
「……見てきた。あった、と思う。たぶん」




