ep059「もらっとくと言った物を朝いちばんに持っていかれた俺、行き先まで決めてもらった」
荷馬車が、動かない。
動かそうと思えば動く。この体なら、片手で足りる。
どっちへ動かせばいいのかだけが、分からない。
「……馬まで連れていくことはないだろ、あいつ」
道が、二つに分かれている。
どちらも同じくらいの幅で、同じくらいに草が寝ている。先のほうは、どちらも曲がっていて見えない。
轅の先は、そのうちの片方を向いたままだ。朝からずっと、そこを向いている。
道の草には、朝の露がまだ残っていた。
朝いちばんに無くなったのは、もらっとくと言ったほうだった。
「……見せてください」
朝の光はまだ低くて、荷馬車の影が道の先まで伸びていた。
リゼは板の上のそれを、少しのあいだ見ていた。
近づけもしないし、裏返しもしない。ただ、そこにあるものを見ている、という見方だった。
それから、持っていった。
訊かなかった。何を、とも、なぜ、とも。
「……馬を、連れていきます」
用件は、それだけだった。どこへ行くとも、いつ戻るとも言わない。
どこへ、とは言わなかった。
馬が轅から外されると、轅の先が下がって、地面に触れた。
馬はこっちを一度だけ見てから、リゼについていった。
道の先で、人と馬が小さくなって、それきり見えなくなった。
俺は、そこに立ったままだった。
やることが、一つもなくなった。
残ったのは、動かない荷馬車と、荷物番が一人と、荷の上の白猫だ。
荷物番は、荷の中身をよく知らない。番をしているだけだ。
動かそうと思えば、いつでも動く。動かす先だけが、二つある。
視界の端で数字が落ちた。
充実度3%。
白猫が、荷の上で目だけ開けた。
することがない。
だから、幌の破れのところに座って、針を動かした。
「あんた、それ、縫えてないわよ」
「縫えてる」
「穴が、さっきより大きくなってるじゃない」
白猫は荷の上で丸くなったまま、目だけこっちに向けている。
言うことは言う。動く気は、まるでない。
糸を通すのに、ずいぶん長くやっていた。針の穴が小さすぎる。この指では、どうにもならない。
糸の先をよじって細くして、また外す。三度目で通った。
糸の色は幌の色と合っていない。縫うほど、そこだけ目立つ。
「神界にはねえ、こういう時間がないのよ。座ってるだけで怒られるんだから」
「猫は、座ってるだけで褒められるぞ」
「そうよ。だから私は、いま得してるの」
得している者の毛が、日なたで白く光っている。
「だいたい、上のほうは、猫の姿でいることの何がつらいか分かってないのよ」
「毛づくろいか」
「爪よ。切れないの。伸びっぱなし」
「切ってやろうか」
「あんたの力加減で切られたら、猫の形が変わるでしょ」
白猫が前足をなめはじめた。
同じところばかり、何度もなめている。
指を近づけたら、耳が寝た。もう一度やったら、背中ごと向こうを向かれた。
「触るなら、私の機嫌のいいときになさい」
「その時間がないんだろ、神界には」
なめたところだけ、毛の色が濃くなっている。
後ろから来た荷が、俺たちの脇を通って、前へ抜けていった。
馬の足音が横で大きくなって、道の先で細くなった。
音だけが、そのとおりに動いていく。
「日なたって、こんなに動くのね。さっきまでここだったのに」
「猫の言うことか、それ」
「猫の言うことよ」
白猫が、日なたの分だけ荷の上でずれた。
「あんた、前にいたところでも、こうやって荷物のそばに座ってたの」
「……たぶんな」
「見えるわ」
「見えるな」
「荷物のそばで、何をしてたの」
「番だ。座って、動かないように見てるだけだ」
「それ、いまと同じじゃない」
「同じだな」
「前にいたところの話も、もうちょっとないの」
「荷物のそばに座ってた話しかないぞ」
「それ、さっき聞いたわ」
「だから、ないって言ってるだろ」
針を動かす。指を刺す。糸が足りなくなる。
喋る。また針を動かす。
指の先に、赤い点が二つ。押さえたら、消えた。
幌の破れは、縫う前より、形が悪くなっていた。
視界の端で数字が跳ねた。
充実度48%。
……黙って聞いてるだけで、なんで上がるんだ、これ。
理由になりそうなものを、順に思い返してみる。
幌は縫えていない。猫には二回嫌がられた。誰にも褒められていない。
用は、一つも済んでいない。
……そういえば、こいつと二人きりって、あんまりなかったな。
白猫は、それきり寝た。二人きりの、片方が寝た。
幌の影が、さっきより長くなっている。
道の先には、まだ何も出てこない。
道の先に、影が二つ出てきた。
人が一つ。馬が一つ。
光が低くなって、道の色が赤くなっている。
俺は立ち上がった。それだけだ。
馬は、出ていったときと同じ足どりで戻ってきた。
リゼの靴には道の土がついていた。ここの土と同じ色かどうかは、俺には分からない。
リゼは、まず荷馬車の脇まで来た。それから口を開いた。
「……呪いの跡ではありません」
開口いちばんが、それだった。
黒いのは、朝と同じだ。
「入れ物です。呪いを、入れておくための」
声は、行くときと同じ調子だった。早くならない。目も、いつもの目だ。
「――空です」
……入れ物。入れ物って言ったな、いま。
俺は立ったまま聞いていた。座り直すきっかけがない。
それきり、リゼは何も足さなかった。
誰の物か。どこの物か。なぜ、あそこにあったのか。一つも言わない。
どこへ行っていたのかも、言わない。
俺も訊かない。
リゼは、そのあいだ、それしか見ていなかった。
俺のほうへは、一度も向かない。
馬が、鼻から息を出した。
俺の物じゃない。だったら、俺に説明する義理もない。当たり前だ。
道に落ちていたものが、たまたま俺のところに来ただけだ。
視界の端で数字が落ちた。
充実度14%。
日の残りが、幌の上のほうにだけ、まだ乗っていた。
白猫が、荷の上で起き上がった。
俺は、荷の上の白猫のほうを見た。
「……今日の日報、書くことが一行もないのよ」
白猫は、こっちを見ないで、そう言った。
まだ、何も訊いていない。
白猫はそのまま、前足の先をなめはじめた。
リゼは、それを持ったまま、荷馬車の後ろへ回った。
リゼが、それを荷へ入れた。
どこへ入れたかは、見えなかった。
リゼが、馬を轅に戻した。
何も言わない。
それから、馬の首のところに立って、そのまま歩かせた。
馬は素直に足を出した。轅の先が地面から離れて、道の土をこすった。
轅が回って、荷馬車の向きが変わっていく。
草の上を、荷馬車の影が回っていく。
馬一つで足りる仕事だった。
俺がやれば、もっと早く回せた。誰も、こっちを見なかった。
なんで、とは言わなかった。
俺は、朝から一度も、これを動かしていない。
動かせる。ずっと動かせた。
リゼは、その間ずっと黙っていた。行くとも、こっちとも言わない。
轅のわきで立ち止まって、それから、荷の上のほうを見た。
白猫が一度だけ鳴いた。それで終わりだった。
白猫は、荷の上で丸くなり直す。文句は言わなかった。
……決めたとも、行くとも、言われてないんだよな。
日が落ちるところの光は、朝の光とちがって、色がついている。
日の色が抜けて、道の先から順に、見えなくなっていく。
道の草が、荷馬車の下で寝る音がした。
荷の中のどこかに、あの入れ物がある。どこにあるのかは、いまも分からない。
馬の鼻面が、道の、もう一方を向いていた。
どっちへ行くのかを決めたのは、俺じゃない。
充実度47%。
俺は、荷台の縁に手をかけた。
「……その代わり、飯は、そっちの奢りだからな」




